後白河上皇(一)今様への没頭

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こんにちは。左大臣光永です。毎日、昼は弁当を買って、京都御苑で食べてます。今はどの飲食店もテイクアウトをメインにしてますからね。ベンチに座って食べてると、ハトが近づいてきます。エサくれないかなーというかんじで、かわいいです。九条池でアオサギを観察するのも楽しみです。

本日から15回にわたって、後白河上皇について語ります。

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遊びをせんとや生まれけむ、
戯れせんとや生まれけん、
遊ぶ子どもの声聞けば、
我が身さへこそ揺がるれ、
(『梁塵秘抄』359)

後白河上皇(1127-1192)。平安時代末期、二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽5代にわたって治天の君として天下に君臨した帝王。二条天皇・平清盛・木曽義仲・源頼朝といった政敵と敵対し、たびたび院政を停止させられるも、そのたびに復権を果たし、老獪な政治力で最後まで朝廷の威信を保ち、衰退しつつある貴族社会が滅びるのを食い止めました。

また当時の流行歌、今様(いまよう)の愛好者として知られ、40年来の今様への没頭を『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』『梁塵秘抄口伝集』にまとめました。

本日は第一回「今様への没頭」です。

蓮華王院 三十三間堂
蓮華王院 三十三間堂

出生

雅仁(まさひと)親王=後白河天皇(上皇・法皇)は大治2年(1127)、鳥羽上皇の第4皇子として生まれました。母は藤原公実(きんざね)の娘・待賢門院璋子(しょうし)。同母弟に顕仁(あきひと)親王(崇徳天皇)、異母弟に体仁(なりひと)親王(近衛天皇)がいます。

雅仁親王が生まれたのは曽祖父の白河法皇による50年にわたる院政が終わる2年前でした。

院政

白河法皇はそれまでの社会システムを破壊し、「院政」という新しい支配体制を築きました。院政とは、天皇の父や祖父が、皇位を退いて上皇となった後、現役の天皇を補佐するという名目で政治の実権をにぎるシステムです。

なぜ院政が始まったのか?語り始めると本がニ三冊書けるくらいですが、

政治の実権を摂関家から天皇家に取り戻そうという流れの中で生まれたのが院政と考えられています。

それ以前は摂関家が摂政・関白という形で政治の実権を握ってきました。いわゆる摂関政治です。摂関家の氏の長者は、自分の娘を天皇に嫁がせ、生まれた子を天皇に立てることで、天皇家の外戚となって権力をふるいました。

しかし道長の嫡子・頼通が後宮に入れた女子は、いずれも男子を生みませんでした。そこで170年ぶりに摂関家を外戚に持たない後三条天皇が即位しました。

よって後三条天皇は摂関家を気にせず、のびのびと天皇親政を行い、改革事業に取り組みました。しかし即位4年目、40歳で崩御しました。

後を継いで延久4年(1073)第一皇子の白河天皇が即位しますが、即位13年目の応徳3年(1086)、白河天皇は譲位し、8歳の第一皇子・善仁親王を堀河天皇として即位させました。

そして自らは院(上皇御所)に付属した院庁(いんのちょう)という役所をつくり、独自に政治を行うようになります。これが院政のはじまりとされます。

院政とは、それまで摂関家に政治の実権を握られていたのが、今度は天皇の祖父や父が天皇を補佐するという名目で政治の実権をにぎる。つまり摂関家にうばわれていた政治実権を、天皇家に取り戻そうとするために出てきた政治システムといえます。

以後、白河院は堀河、鳥羽、崇徳、三代43年間にわたって「治天の君」として天下に君臨しつづます。

嘉承2年(1107)堀河天皇が29歳で亡くなると、白河院は堀河の息子の宗仁(むねひと)親王(5歳)を鳥羽天皇として即位させます。そして引き続き「治天の君」として天下に君臨し続けます。

鳥羽・崇徳の対立

元永2年(1119年)、鳥羽天皇(17歳)に待望の第一皇子が生まれます。顕仁(あきひと)親王。後の崇徳天皇です。

「あなた、私たちの子ですよ」

「ふん。汚らわしい。そいつは叔父子ではないか」

「あなた…」

顕仁親王の母・藤原璋子(しょうし・たまこ)(19歳)は美人のほまれ高い女性で、鳥羽天皇に嫁ぐ前から白河院に愛されていました。しかも白河院との関係は、鳥羽天皇に嫁いだ後も続いていました。その結果、璋子は顕仁親王をみごもったのでした。このことは鳥羽天皇も周囲の者も知っており、公然の秘密でした。

鳥羽上皇と崇徳天皇
鳥羽上皇と崇徳天皇

系図を見ればわかるとおり白河院は鳥羽天皇の祖父です。祖父の子は叔父になるため、鳥羽天皇は顕仁親王を「叔父子」と言って忌み嫌ったと。

「人、皆これを知るか。崇徳院は白河院の御落子云々。鳥羽院もその由を知ろしめして、『叔父子』とぞ申さしめ給ひける」(『古事談』)

『今鏡』には、白河院の存命中は、白河院・鳥羽天皇・待賢門院が三条室町殿にいっしょに住み、外出する時もいっしょの車で出かけていったとあります。白河院が、愛人を手放したくない、孫にわたすもんかと、がんばってる様がうかがえます(あるいは孫に愛人を寝取られることを楽しんでいたか)。

鳥羽天皇の璋子に対する気持ちは、どうだったんでしょうか?

2歳年上の、色香ただよう美女。しかも祖父白河院によって性のテクニックをみっちり仕込まれている…

鳥羽天皇はこの時、17歳ですよ!

17歳男子は朝から晩までエロいことばかり考えてるのが当たり前です。

そういう年頃に、そういう女性があらわれる。そりゃ~トロけるくらいに、夢中になるわけです。

白河法皇の溺愛

鳥羽天皇と璋子との間には男子五人、女子二人が生まれました。

その中にも、白河院は第一皇子の顕仁親王を溺愛しました。白河院も顕仁親王が自分の子であることを知っており、何かと贔屓にしたのでしょう。

「もう顕仁も5歳だろう。
そろそろ顕仁に位をゆずったらどうだ」
「………」

保安4年(1123年)白河法皇は21歳の鳥羽天皇を強引に退位させ、わずか5歳の顕仁親王を崇徳天皇として即位させます。そして崇徳天皇即位後も白河法皇が「治天の君」として権力をふるいつづけます。

璋子、待賢門院と号す

翌天治元年(1124年)11月、崇徳の母璋子は院号を宣下され、待賢門院と称します。

雅仁親王の誕生

大治2年(1127)、鳥羽と待賢門院の間に第四皇子の雅仁(まさひと)が生まれます。白河院は出産にさいして待賢門院の安産を願い、仏像を造り、経を詠み、たいへんに心を砕きました。

というのは、鳥羽と待賢門院との間に生まれた第二皇子通仁(みちひと)親王は生まれながらに目が見えなかったといい、第三皇子有仁(ありひと)親王は筋骨が弱く歩くことさえできず「なえ君」とよばれていました。

今度こそと、誕生する第四皇子にかける気持ちが強かったようです。こういう周囲の期待の中、第四皇子雅仁親王は、五体満足な男子として生まれました。

白河院崩御

大治4年(1129年)白河院が崩御します。享年77。堀河・鳥羽・崇徳三代にわたって治天の君として院政を行ってきた末の、大往生でした。

(いよいよか…)

鳥羽は、この時をこそ待ち望んでいました。すぐに鳥羽の復讐が始まります。

鳥羽は、それまで白河院よりだった人々を左遷し、白河院から遠ざけられていた人々を復帰させます。

こうした流れの中、白河院と男女の関係であった待賢門院と、待賢門院腹の皇子たち(崇徳・雅仁)は、しだいに遠ざけられていきます。

得子の入内

(もう祖父に振り回されなくてもよいのだ!)

鳥羽上皇は、前関白藤原忠実の娘・高陽院泰子(かやのいん たいし)を後宮に入れて、皇后に立てます。さらに藤原長実の娘の得子(とくし)を寵愛するようになりました。

高陽院泰子の父・前関白藤原忠実は白河院の晩年に白河院と対立して関白の座を追われた人物です。つまり反白河派です。たがら白河院は、泰子の入内は遺言で反対していました。しかし鳥羽は祖父白河院の遺言を無視して、忠実の娘・泰子を皇后にしました。これは鳥羽の白河院に対する反発のあらわれでした。

一方、待賢門院は遠ざけられ、かつての栄光の座から引きずり降ろされました。また待賢門院腹の皇子たちも(崇徳、雅仁親王)、苦しい立場になってきました。

とはいえ、待賢門院の美貌と色香は衰えず、鳥羽は待賢門院を遠ざけながらも、たびたび通っていたようです。

大治4年(1129年)、鳥羽と待賢門院に第五皇子本仁(もとひと)親王が生まれました。しかしこの親王は5歳の時出家させられ、覚性と名乗りました。後に天皇家安泰と国家鎮護を祈り仏教者として名を馳せる人物ですが、それにしても5歳の皇子が出家させられたことは、待賢門院の地位がそうとう低くなったことを示しています。

雅仁親王の元服と今様への没頭

保延5年(1139)12月27日、雅仁親王は13歳で元服し、二品に叙せられました。日に日に落ち目になる待賢門院腹の皇子とはいえ、それでも鳥羽の第四皇子であり、将来は安泰に思われました。そしてこの頃から、雅仁親王の今様への没頭がはじまったようです。

今様とは、当時の民謡・流行歌のたぐいです。伝統的な宮廷音楽である催馬楽(さいばら)・神楽などに対して、庶民の中から出てきた新しい種類の歌です。

白拍子や遊女が歌い手となり、庶民から貴族まではば広く愛好されていました。雅仁親王はこの今様に熱心に取り組み、研究しました。公卿・殿上人ばかりでなく、京の男女、はしたもの、遊女・傀儡子まで集めて一緒に歌いました。

その成果は後日、『梁塵秘抄』『梁塵秘抄口伝集』にまとめられ、今日に伝わっています。これは後年の回想ですが、

そのかみ十余歳の時より今にいたるまで、今様を好みて怠ることなし。遅々たる春の日は、枝に開け庭に散る花を見、鶯の啼き郭公(ほととぎす)のかたらふ声にもその心を得、蕭蕭たる秋夜、月をもてあそび、虫の声々にあはれを添へ、夏は暑く冬は寒きをかへりみず、四季につけて折をきらはず、昼はひねもすに歌ひくらし、夜(よ)はよもすがら歌ひ明かさぬ夜はなかりき。夜は明くれど戸・蔀を上げずして、日出づるを忘れ、日高くなるをしらず、その声小止まず。おほかた夜昼を分かず、日を過ぐし月を送りき。

『梁塵秘抄口伝集』巻第十

次回「後白河上皇(ニ)近衛から後白河へ」に続きます。

講演録音 公開中

日蓮と一遍(90分)
https://youtu.be/HFiOBFOb7po

武田信玄(三)武田家、滅亡(68分)
https://youtu.be/WbLcsKjD1rk

新選組 池田屋事件(16分)
https://youtu.be/zjeVWbk-3M8

発売しました オンライン版 日本の歴史

https://sirdaizine.com/CD/HisOnlineInfo1.html

以前CD-ROM版として発売していた第一巻「飛鳥・奈良」から第十一巻「明治維新の光と陰」まですべてを、オンライン版に対応させました。

解説:左大臣光永

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