後白河上皇(四)少納言入道信西

こんにちは。左大臣光永です。

ベランダに時々スズメが来て啼きます。かわいいです。どうも都市部のスズメと種類が違うようですが、よくわかりません。チチッ、チチッではなくチュヒ、チュヒと独特の響く声で鳴くのです。近くの衣笠山から飛んでくるのかなーと思います。

衣笠山には一条天皇の陵があるので、一条天皇の化身と思っていつも大切に見守っています。

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15回の予定で、【後白河上皇】について語っています。本日は第4回「少納言入道信西」です。

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過去配信ぶん
後白河上皇(一)今様への没頭
https://history.kaisetsuvoice.com/Goshirakawa01.html

後白河上皇(ニ)近衛から後白河へ
https://history.kaisetsuvoice.com/Goshirakawa02.html

後白河上皇(三)師弟の出会い
https://history.kaisetsuvoice.com/Goshirakawa03.html

遊びをせんとや生れけむ
戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば
我が身さえこそ動(ゆる)がるれ
(『梁塵秘抄』359)

後白河上皇(1127-1192)。第77代天皇。平安時代末期から鎌倉時代初期、二条から後鳥羽まで五代の天皇の御代にわたって治天の君として君臨した帝王。平清盛・木曽義仲・源頼朝といった政敵と相対し、たびたび院政を停止させられるも、そのたびに復権を果たし、老獪な政治力で最後まで朝廷の威信を保ち、貴族社会が滅びるのを食い止めました。

また当時の流行歌、今様(いまよう)の愛好者として知られ、40年来の今様への没頭を『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』『梁塵秘抄口伝集(りょうじんひしょうくでんしゅう)』にまとめました。

前回は、父鳥羽法皇の死に目にあえなかった崇徳院の悲しみと、鳥羽法皇崩後、崇徳院方、後白河天皇方で対立が深まり、ついに保元の乱に至ったいきさつ、そして後白河と今様の師匠・乙前との出会いについて語りました。

本日は第4回「少納言入道信西」です。

少納言入道信西 その人物

「信西、政治の事はそちに一人するぞ」
「ははっ、お任せください」

保元の乱において後白河天皇が果たした役割は、なにもありません。

後白河天皇は旗印としてかつがれただけであり、まったく何もしていません。

指揮を執ったのは近臣の少納言入道信西でした。

この時期、後白河はまったく政治に興味がないように見えます。

後白河の興味はもっぱら、今様と、仏教への信仰に、向いていました。

そして保元の乱に勝利した後も、後白河は政治のことは信西に丸投げでした。

信西(1106-1160)。出家前の俗名を藤原通憲(ふじわらのみちのり)と言いました。藤原といっても摂関家ではなく、不比等の長男武智麻呂を祖とする藤原南家の出身です。中流貴族であり、学者の家柄でした。

頭脳明晰で「諸道に達せる才人なり(『尊卑文脈』)」と評されていますが、家柄が悪いために日向守から少納言に進んだのみでした。失望した通憲は39歳で出家し、信西と名乗りました。おそらくこの段階では野心などほど遠かったでしょう。

しかし久寿2年(1155)後白河が即位すると、信西に運がまわってきます。信西の妻朝子が後白河の乳母をつとめた縁で後白河の近臣として取り立てられます。

保元の乱の勝利は信西の策略によるところが大きく、保元の乱の後、信西はいっそう後白河の信頼を得て、影の実力者としての立場をきずいていきました。

信西による戦後処理

信西が行なった保元の乱の戦後処理は苛烈を極めました。信西は敵味方に別れて争った源平の武士に、身内同士で処刑を行わせました。公式な死刑が行われるのは約350年ぶりでした(810年薬子の変で藤原仲成が処刑されて以来)。源義朝は、崇徳院方にまわった実の父為義を斬らされました。平清盛も叔父の忠正を斬らされました。想像するも無残な話です。

保元の乱の後、信西は反対勢力の排除に乗り出します。第一のターゲットは摂関家です。

信西は摂関家ラインで出世できなかったので摂関家を憎み、滅ぼそうとまでしていました。反対に、院政というシステムは、これは摂関家に対するアンチとして出たものですから、信西は院政を強く維持しようとしました。

保元3年(1158)後白河による院政がはじまると、信西はロコツに摂関家弱体化のために動きます。

それまで摂関家の氏の長者は摂関家内部で決めて、後から朝廷のゆるしを得ることを慣例としていました。信西はこの慣例を曲げて、まだ次の氏の長者が決まらないうちに、後白河から藤原忠通を指名させます。

以後はこれが先例となって天皇が一方的に氏の長者を決めるようになりました。つまり信西は、摂関家から氏の長者を指名する権利を奪ったのでした。

また荘園整理令を発し、記録所とよばれる荘園についての事務を行う機関を復活させ、摂関家および大寺社の荘園整理に乗り出しました。

信西が第ニにターゲットにしたのが大寺社です。

大和(奈良)は東大寺・興福寺はじめ寺院勢力が強い国ではありますが、信西は容赦ない荘園整理を行いました。寺からの反発は強くありましたが、信西の背後には平清盛の軍事力がありましたので、ニラミをきかされている形で、逆らえませんでした。

信西はこうして摂関家や大寺社の弱体化をはかる一方、息子たちや一族を要職につけ権力の地盤を固めます。日に日に権力を高める信西に対して、反対勢力の恨みの声も大きくなっていきました。

内裏の復興

とはいえ信西が専横をおこなうばかりのロクでもない人物であったかというと、そうではありません。きわめて聡明な判断力で常人では考えられない仕事を短期間でこなしました。

その第一に挙げられるのが、内裏の再建事業です。

平安宮内裏
平安宮内裏

平安京の内裏は桓武天皇が開かれて約170年後の村上天皇の御代、天徳4年(960年)に火事で焼失しました。これは一年ほどで再建されましたが、その後も火事が絶えなかったため、貴族の屋敷などを内裏としてきました。これを里内裏といいます。

本来、天皇の権威を考えると臨時の御所である里内裏ではなく、内裏を再建することが好ましいのです。しかし予算がかかりすぎるため、不可能とされてきました。

かの鳥羽上皇さえ、関白藤原忠通が内裏再建を提案した時、「末法の世には不可能である」といって却下しました。

ところが信西はこれをやってのけます。

寺社・貴族・源平両方の有力武士からも費用を取り立て、内裏の復活事業をはじめ、2年で完成させました。その間、信西は政務に夜中まで没頭し、信西の館では夜中にも澄んだそろばんの音が鳴り響いていたと伝えられます。

保元2年(1157)10月には造営工事が終わり、10月8日、後白河は高松殿を出て、新造内裏に移りました。

後白河院政の開始

保元3年(1158年)8月11日、後白河天皇は譲位し息子の守仁親王を二条天皇として即位させます。

時に後白河上皇32歳。二条天皇16歳。

なぜ、男ざかりの32歳で、わずか在位3年目で譲位したのか?

いくつか説があります。

第一に、政治に関心がなかったという説です。

後白河がなにより没頭したのは「今様」と「崇仏」です。今様は当時の流行歌。雅楽や催馬楽という伝統的な宮廷音楽に当てはまらない、庶民の間で生まれ音楽で、いわばクラシックに対するポップミュージックのようにものです。喉がスリちぎれるくらい歌い、イベントを企画したりもしました。

そして「崇仏」は、仏に帰依する信仰心です。蓮華王院を造営し、有名な寺寺に参詣しています。また石清水八幡宮や熊野権現、日吉社といった仏教にゆかりの深い神社にも参詣し、みずから新熊野神社、熊野若王子神社を造営しました。

それほどまでに「今様」「崇仏」にハマッていたので、政治なんてやってられない、つまり後白河は政治に無関心だったというのです。

しかしどうでしょうか。その後の後白河の活動を見ると、政治に無関心だったとは、とても思えません。やはりそれなりに計算があって譲位したと思われます。

信西が後白河に譲位することをすすめた、という説もあります。家柄の悪い信西は、摂関家が幅をきかせる体制下では出世できませんでした。院政という、いわば超法規的なシステムの中でこそ、信西はのびのびと振る舞える。そこで信西が後白河に、さっさと譲位なさいと進めたというわけです。

真相はわかりませんが、譲位した後も後白河は政治のことはほとんど信西に投げっぱなしで、みずからかかわった形跡がありません。

次回「後白河上皇(五)平治の乱」に続きます。

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解説:左大臣光永