後白河上皇(六)上皇派と天皇派の対立

こんにちは。左大臣光永です。京阪宇治駅の入り口のところにツバメが巣を作ってました。雛は、もうある程度飛べるようになって、巣の近辺を飛び回ってました。時々人間と目があう位置にとまるんですよ。くりくりした目で、表情まではっきり観察できて、可愛かったです。

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本日は後白河上皇の第6回「上皇派と天皇派の対立」です。

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後白河上皇(1127-1192)。77代天皇。平清盛・木曽義仲・源頼朝といった政敵と渡り合いながらも、衰退しつつある貴族社会が滅びるのを食い止めました。当時の流行歌、今様(いまよう)の愛好者としても知られます。

前回は、「平治の乱」について語りました。後白河側近の信西に対して不満を持つ藤原信頼と源義朝が手を組んで、クーデターを起こし、信西は逃亡するも結局、自害する、その後、平清盛が上洛してクーデターを鎮圧する。義朝の息子たちのうち三男の頼朝だけが命助かって伊豆へ島流しに。義朝は東国へ落ち延びる途中、味方の裏切りで殺されるところまで語りました。

本日は第6回「上皇派と天皇派の対立」です。

上皇派と天皇派の対立

「院政」とは、譲位した天皇が上皇となって政治を行う支配体制のことです。応徳3年(1086)、白河上皇が息子の堀河天皇に譲位したのが始まりと言われます。

それ以前は摂関家が天皇の摂政・関白となって政治実権をふるってきました。これに対して、摂政関白なんてもういらん。天皇家のことは天皇家でやる。藤原氏のような他人にひっかきまわされるより、天皇の父が政治を見ればいいじゃないか、ということから生まれたようです(諸説あり)

しかし院政は院政で、摂関政治とはまた違う問題をはらんでいました。

一方に上皇方の機関である「院庁(いんのちょう)」があり、一方に天皇方の機関である「太政官(だじょうかん)」があり、

いわば2つの政府が並立しているような形ですので、構造上、上皇派と天皇派の間でかならず争いが起こります。

後白河上皇・二条天皇父子の対立は、平治の乱の前後から始まっていました。

故・鳥羽法皇は二条天皇(守仁親王)の直系に帝位を継がせるよう遺言しました。となると次は二条の息子が即位する流れですが、二条にはまだ子がいませんでした。

二条を嫌う後白河は故・鳥羽法皇の遺言を無視して、ひそかに第ニ皇子の守覚(しゅかく)を皇太子に立てようとしていたようです。


後白河の子供たち

ただし守覚は仁和寺の覚性法親王のもとで修行しており、平治の乱の二ヶ月後の永暦元年(1160)2月17日、出家しました。出家したので守覚は皇位継承権を失います。ひとまず後白河の企ては潰えたわけです。しかしまだ第三王子の以仁王(もちひとおう)がいました。

二条天皇は、こうした父後白河の動きを警戒したことでしょう。

「父上皇は油断ならぬ…」

後白河上皇・二条天皇の対立はジワジワ深まっていきました。

これは父と子の個人的な対立、というに留まりません。後白河院上皇につく「上皇院政派」と、二条天皇につく「天皇親政派」両者の間で、政界を二分した対立になっていきます。

親政派への牽制

後白河は平治の乱で、信西と藤原信頼という二人の近臣(側近)を失いました。ほかにも後白河派であった者が多く失脚しました。平治の乱の後、後白河はまったく落ち目になりました。一方、二条天皇親政派は勢いをのばしていました。

しかし後白河も黙って負けてはいませんでした。

平治2年(1160)正月6日、後白河は参議・藤原顕長の八条堀川の館に桟敷をしいて、下々の者を見物していました。

「おお…いろいろな格好の者がおるのお」

興味深く眺める後白河上皇。

すると二条天皇親政派の藤原経宗、惟方が来ました。

「なんとはしたない!」

桟敷の、通りに面したところを板でふさぎ、見えなくしてしまいました。

「な…これでは、景色が見えんではないかッ無礼なッ」

後白河は平清盛を呼びつけて涙ながらに訴えます。

「あの二人を徹底してこらしめてくれ!」

「はっ…はあ…」

清盛も困ったことでしょう。清盛は保元の乱で後白河に与したといっても、心情としては後白河でなく二条天皇に寄っていました。一方、後白河としては清盛に二条親政派の逮捕を命ずることで、どっちの味方かいまいちハッキリしない清盛を、一気に後白河派にひきこもうという考えがあったのでしょう。

結局、経宗は阿波に、惟方は長門に流罪となり、二人は失脚しました。以後、平清盛は後白河に接近していくことになります。

アナタコナタ

平清盛は、複雑な情勢を読み、後白河上皇・二条天皇父子のどちらとも敵対しないように、うまく立ち回っていました。『愚管抄』には「清盛はよくつつしみて、いみじくはからいて、あなたこなたしけるにこそ」と評されています。

しかし藤原経宗・惟方事件以来、清盛は後白河からロコツに接近をはかられるようになります。

平清盛 公卿となる

同年、清盛は正四位下から二階級特進して正三位となり、ついで参議に列せられました。清盛は武士としてはじめて公卿になったのです。(公卿…大臣以下・大納言・中納言・参議の、国政の中心をになう人々)

平清盛の昇進は、後白河上皇の強い後押しによるものでした。

後白河上皇は、二条天皇派をおさえるために平清盛の武力があてになると見ました。逆に、平清盛が二条天皇派に味方すれば、やっかいなことになる。ならばできるだけ恩を売って、清盛を取りこんでおこうというわけです。

翌応保元年(1161年)正月、平清盛は検非違使別当(長官)となりました。検非違使は平安京の治安維持に当たる警察組織です。これまで藤原惟方が別当を努めていましたが、藤原惟方が流罪になったことに伴い、平清盛がばってきされたのです。これも後白河の強い意向があったと思われます。

つかの間の平穏

二条天皇のもっとも有力な近臣であった藤原経宗・藤原惟方が失脚したことで、一気に二条天皇親政派は衰え、後白河院上皇政派が勢いをのばします。

とはいえ、後白河上皇と二条天皇にきわだった対立はなく、一応は平穏な時期でした。永暦元年(1160)10月に後白河は新熊野(いまぐまの)神社、新日吉(いまひえ)神社を京都東山に建立しています。平和で安定した世の中であればこそ、できたことでしょう。

憲仁親王の誕生

こうして平清盛は後白河上皇にしだいに接近していきました。

応保元年(1161年)後白河と平滋子との間に皇子が生まれます。憲仁親王(のりひとしんのう)。後の高倉天皇です。滋子は平清盛の妻・時子の妹です。

憲仁親王の誕生によって、後白河と平清盛の関係はいよいよ深まりました。


憲仁親王(=高倉天皇)

法住寺殿の完成

同年、後白河が造営をすすめていた院御所、法住寺南殿(ほうじゅうじみなみどの)が完成しました。

法住寺南殿は東山七条、現在の三十三間堂のあたりに造営されました。かつての信西の所領地に、藤原信頼の中御門西洞院邸を移築しました。

現 法住寺
現 法住寺

法住寺殿 概略図
法住寺殿 概略図

謀反人の家を移築するというのが常人では理解しづらいことですが、後白河は敵味方に分かれながらも、ともに自分の近臣であった信西と藤原信頼をしのんだのかもしれません。

東山七条法住寺から東に進めば葬送の地・鳥辺野があり、北は平家一門の館のある六波羅に接します。このあたりは古くから墳墓の地で、この世とあの世の境とされてきました。

後白河が洛中ではなく、わざわざそのような場所に御所を築いたのは、なぜでしょうか?

おそらく後白河は死後のことを意識して、みずからを葬る場所として法住寺を造営したと思われます。実際、後白河は死後この場所に葬られます。

また、七条には手工業者が多く、芸能を行う河原者が多く、通りがにぎわっていました。庶民好き・芸能好きの後白河の興味をそそったのかもしれません。

この後、後白河は生涯の多くをここ法住寺殿で過ごすことになります。

蓮華王院

後白河は千体の観音像をつくり、これをおさめる御堂を造営する計画を立て、その造営を平清盛にゆだねました。

長寛2年(1164年)12月。その御堂…蓮華王院は完成し、清盛はこれを上皇に献上します。清盛は蓮華王院造営の功績により、備前国をたまわりました。

現在、三十三間堂として有名ですが、現在の建物は鎌倉時代に再建されたものです。

蓮華王院 三十三間堂
蓮華王院 三十三間堂

蓮華王院の落慶供養には後白河上皇ご自身が臨席しました。しかし、息子の二条天皇の姿はそこにありませんでした。後白河上皇と二条天皇父子の関係は、かくまで隔絶していたのです。

世の人々は言い合いました。「今上帝は名君であらせられるが、親への孝という一点だけは欠けておられる」と…。

二条天皇崩御・六条天皇即位

永万5年(1165年)4月末から、二条天皇が病にかかります。伊勢神宮以下の十社に奉幣を奉り、天下に大赦を行い、病の平癒を祈りましたが、病は重くなる一方で、6月にはいよいよ重態になりました。

そこで、6月25日、二条天皇皇子、2歳の順仁(のぶひと)親王を急きょ、皇太子に立て、譲位しました。六条天皇です。しかし二条上皇は譲位より一ヶ月後の7月25日、亡くなりました。わずか23歳でした。

二条天皇 香隆寺陵
二条天皇 香隆寺陵(京都市北区平野八丁柳町)

二条天皇 香隆寺陵陵
二条天皇 香隆寺陵

この直後の永万元年(1165年)8月、清盛は権大納言に任じられます。

後白河院政の本格起動

幼帝六条天皇が即位したことによって、後白河院政は本格的にスタートします。それまでは息子の二条天皇をかつぐ天皇親政派とけん制しあい、後白河は遠慮なく院政が行えませんでした。それが、孫の六条天皇、しかも2歳の天皇が即位したことによって、院政を行うのは後白河しかいないということになりました。ここに後白河院政は本格的にスタートしたのです。

また平清盛も、二条天皇がいたことで遠慮して、表立って後白河に肩入れできないという面がありました。それが二条天皇が亡くなったことで、遠慮する必要がなくなり、大いに後白河に肩入れできるようになりました。後白河・清盛の関係はこの時期、車輪の両輪にようにうまくいっていたのです。

本日の話をまとめると、

平治の乱以後、後白河上皇・二条天皇の対立が深まった。これは父子の個人的な対立ではなく、後白河上皇院政派・二条天皇親政派に分かれた、政界を二分した対立になっていく。平清盛ははじめ二条天皇よりだったが、やがて後白河院政派に取り込まれていく。そんな中、幼帝六条天皇が即位し、ほどなく二条天皇が亡くなった。以後、清盛はますます後白河に接近していくことになるという話でした。

次回「後白河上皇(七)高倉天皇の即位」に続きます。

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