後白河上皇(三)師弟の出会い

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こんにちは。左大臣光永です。

私の部屋は角部屋で隣・下が空き室なので、夜になると海の底のように静かです。すべての電化製品を切ると、キィーーンと耳鳴りがきこえ、耳の中を血液が流れるどくどくいう音まで聞こえます。あまりにも静かすぎて落ち着かないので、パソコンつけっぱなしで寝てます。フーーンというファンの音が、ほどよい雑音になって、よいです。

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前々回から15回の予定で、【後白河上皇】について語っています。

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過去配信ぶん
後白河上皇(一)今様への没頭
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後白河上皇(ニ)近衛から後白河へ
https://history.kaisetsuvoice.com/Goshirakawa02.html

遊びをせんとや生れけむ
戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば
我が身さえこそ動(ゆる)がるれ
(『梁塵秘抄』359)

後白河上皇(1127-1192)。第77代天皇。平安時代末期から鎌倉時代初期、二条から後鳥羽まで五代の天皇の御代にわたって治天の君として天下に君臨した帝王。平清盛・木曽義仲・源頼朝といった政敵と相対し、たびたび院政を停止させられるも、そのたびに復権を果たし、老獪な政治力で最後まで朝廷の威信を保ち、貴族社会が滅びるのを食い止めました。

また当時の流行歌、今様(いまよう)の愛好者として知られ、40年来の今様への没頭を『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』『梁塵秘抄口伝集(りょうじんひしょうくでんしゅう)』にまとめました。

前回は、崇徳院ははやくわが子重仁親王を即位させて院政を行いたのだけれども、崇徳院を嫌う父鳥羽法皇の横槍が入って、まったく、うまくいかない。はじめ異母弟の近衛天皇が即位し、次に同母弟の後白河天皇が即位し、崇徳院が院政を行う機会はことごとく奪われる。父上そうまで私をお嫌いですかと、崇徳院つくづく悲しみに沈むところまでお話しました。

本日は第三回「師弟の出会い」です。

鳥羽法皇の崩御

保元元年(1156年)7月2日、鳥羽法皇が鳥羽殿・安楽寿院にて危篤に陥ります。

安楽寿院(京都市伏見区竹田)
安楽寿院(京都市伏見区竹田)

「なに父上が…!」

崇徳院は知らせを受けてすぐに鳥羽殿・安楽寿院へお輿を走らせます。生涯自分のことを実の子では無いと忌み嫌ってきた父ですが、やはり父親であり、愛していました。

ところが、安楽寿院についた崇徳上皇の車は院近臣藤原惟方らに遮られ、中に入ることは許されませんでした。

「なぜじゃ。息子が父の死に目にあえぬなど、理不尽にもほどがある」
「法皇さまのご命令です。どうかお引き取りください」
「そう言わずに、通してくりゃれ」
「なりません」
「通してくれゃれ」
「なりません」

押し合い圧し合いしているうちに、

「ご崩御、ご崩御…」

「…ああ、父上、ついに最期まで…それほどまでに私のことがお嫌いでしたか…」

崇徳上皇はいったん引き上げるもしかし、父恋しさにふたたび安楽寿院を訪れます。しかし藤原惟方らは「崇徳にわが死に顔を見せるな」という鳥羽法皇の遺言を楯に、またも崇徳院を追い返しました。

「父上、よくわかりました」

ここに到り、長年押し殺してきた父鳥羽法皇への憎しみが、崇徳院の中で沸き起こります。

翌日7月3日の葬儀は欠席し、さらに初七日の法要まで、すべての儀式に参列せず、鳥羽の田中御所に引きこもってしまいました。

鳥羽天皇安楽寿院陵
鳥羽天皇安楽寿院陵

田中殿阯
田中殿阯(京都市伏見区竹田)

鳥羽殿概略図
鳥羽殿概略図

保元の乱

鳥羽法皇が亡くなったのが保元元年(1156)7月2日。それから数日間、後白河天皇方、崇徳上皇方、はげしく対立を深めていきます。

7月9日、崇徳院は鳥羽の田中御所を抜け出し、白河の前斎院(詢子内親王)の御所へ入ります。

しかし前斎院の御所は手狭だったのか、すぐに隣の白河北殿(現京都大学熊野寮あたり)へうつります。藤原頼長を総司令官に、源為朝、平忠正らが白河北殿に集結。

保元の乱
保元の乱

白川北殿跡(現京都大学熊野寮)
白川北殿跡(現左京区 京都大学熊野寮敷地内)

白川北殿跡(現京都大学熊野寮)
白川北殿跡(現左京区 京都大学熊野寮敷地内)

一方、後白河方は少納言入道信西を総司令官に、平清盛、源義朝、源義康らが高松殿(現京都市中京区 高松神明神社あたり)に集結。

高松殿跡(現高松神明神社)
高松殿跡(現中京区 高松神明神社)

高松殿跡(現高松神明神社)
高松殿跡(現中京区 高松神明神社)

7月11日未明、後白河天皇方の平清盛、源義朝、源義康らが崇徳院方の白河北殿を襲撃。合戦に至りました。

保元の乱です。

合戦は4時間ほどで終わり、崇徳院方の白河北殿は炎上。

敗れた崇徳院は仁和寺に逃れるも捕らえられ、後日讃岐に流されます。崇徳院方の総司令官、宇治の悪左府藤原頼長は逃げていく途中、首に流れ矢を受けたその傷がもとで、後日亡くなりました。

後白河天皇は味方の勝利をきくと、臨戦態勢を解いて、一時内裏を置いていた東三条殿から、ふたたび高松殿にもどりました。

さて後白河は保元の乱に勝利したわけですが、後白河自身は保元の乱において、どんな活躍をしたのでしょうか?

何も、してもません。

まったく、ゼロです。

指揮を執ったのは側近の少納言入道信西で、実際に戦ったのは平清盛・源義朝ら武士でした。後白河はただ旗印として担がれただけでした。

『梁塵秘抄口伝集』には、

そののち、鳥羽院隠れさせたまひて、物騒がしき事ありて、あさましき事出できて、今様沙汰も無かりしに、保元二年の年、…

保元の乱についての記述は「物騒がしき事ありて」「あさましき事出できて」の二言だけで、もう次の話題に移っています!後白河は保元の乱に何の役割も果たさなかったばかりか、ほとんど興味もなかったように思えます。

師弟の出会い

保元の乱の翌年の保元2年(1157)、後白河の生涯を決定づける、出会いがありました。

後白河は前々から乙前(おとまえ)なる今様の上手の評判をきき、なんとか聴いてみたいと思っていました。それを側近の信西がききつけて言うことに、

「その者の息子が、私の館にすまっております」

「なに!では会えるか」

「は…しかしこれは、数ならぬ傀儡女の類ですが…」

「そのようなことは構わぬ。余は会いたいのじゃ」

※傀儡女…戸籍にも載らず、芸能・音楽をなりわいとする者。

そこで五条あたりに使いをやった所、乙前なる者が言うことに、

「今様など…歌わなくなって久しいです。みな忘れてしまいました。その上見苦しい格好ですので…」

と断りました。

しかしその後も何度も使いを立てたので、さすがに乙前もばつが悪くなって、正月10日あまりに参上しました。

「そなたが乙前か、ゆっくりと今様の話などききたい」

「畏れ多いことでございます」

こうして歌の談義などして、後白河は自分も歌い、乙前の歌うのも聴いて、夜が明けるまでそうして過ごし、師弟の契を交わし、その後呼び寄せて局にすまわせ、さまざまな曲を習ったといいます。

次回「後白河上皇(四)少納言入道信西」に続きます。

講演録音 公開中

日蓮と一遍(90分)
https://youtu.be/HFiOBFOb7po

武田信玄(三)武田家、滅亡(68分)
https://youtu.be/WbLcsKjD1rk

新選組 池田屋事件(16分)
https://youtu.be/zjeVWbk-3M8

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