後白河上皇(ニ)近衛から後白河へ

オンライン版 日本の歴史
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こんにちは。左大臣光永です。四条にあったジュンク堂(本屋)がつぶれてから、四条に出かけることがすっかり少なくなりました。華やかなお土産屋さんとか、美味しいメシ屋が並んでても、結局本屋なんですよねぇ…その町に何度も行くかどうかは。その点、神保町はすごいなあと改めて感じます。

前回から15回の予定で、後白河上皇について語っています。

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後白河院ゆかりの法住寺
後白河院ゆかりの法住寺

前回ぶん「後白河上皇(一)今様への没頭」
https://history.kaisetsuvoice.com/Goshirakawa02.html

遊びをせんとや生れけむ
戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば
我が身さえこそ動(ゆる)がるれ
(『梁塵秘抄』359)

後白河上皇(1127-1192)。平安時代末期から鎌倉時代初期、二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽5代にわたって治天の君として天下に君臨した帝王。二条天皇・平清盛・木曽義仲・源頼朝といった政敵と相対し、たびたび院政を停止させられるも、そのたびに復権を果たし、老獪な政治力で最後まで朝廷の威信を保ち、貴族社会が滅びるのを食い止めました。

また当時の流行歌、今様(いまよう)の愛好者として知られ、40年来の今様への没頭を『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』『梁塵秘抄口伝集(りょうじんひしょうくでんしゅう)』にまとめました。

前回は、鳥羽上皇と崇徳天皇のドロドロした父子関係と、雅仁親王の今様への没頭について語りました。鳥羽と妃の藤原璋子との間に生まれた第一皇子、顕仁親王は、実は鳥羽の祖父、白河法皇と璋子との間に生まれた不倫の子であったといい、そのため鳥羽は崇徳のことを自分の子ではないとして、生涯にわたって忌み嫌いました。そんな中、鳥羽の第四皇子、雅仁(まさひと)親王は皇位継承の争いなどとは無関係に、ひたすら今様に明け暮れていた…というところまで前回は語りました。

鳥羽上皇と崇徳天皇
鳥羽上皇と崇徳天皇

本日は第ニ回「近衛から後白河へ」です。

体仁親王誕生

保延5年(1139)、鳥羽上皇と妃藤原得子(とくし・なりこ)の間に男子が生まれます。体仁(なりひと)親王…後の近衛天皇です。生後三ヶ月で皇太子に立てられます。はじめ鳥羽上皇は皇后藤原泰子に男子が生まれることを期待していましたが、女子しか生まれなかったので、寵愛する藤原得子に男子が生まれると、この子に皇統を継がせようということになったのです。

体仁親王=近衛天皇

つまり、泰子であれ、得子であれ、とにかく鳥羽は待賢門院(璋子)腹でない男子につがせたいわけです。特に、亡き祖父・白河法皇のお手つきで待賢門院璋子の腹から生まれてきた崇徳を、鳥羽は生涯にわたって忌み嫌いました。

(ぜったいに認めぬ。お前の子孫にだけは、皇統は渡さん…)

鳥羽上皇の罠

さらに、

鳥羽上皇は、崇徳天皇を退位させるべく、罠をしかけます。

鳥羽上皇は幼い体仁親王(なりひとしんのう)を養子にするよう、崇徳天皇にすすめました。その上で体仁親王を天皇に立てて院政を行えばいいと説くのです。

「わが子を天皇に立てれば、天皇の父として院政が行なえるではないか」
「なるほど…いよいよ私が院政を行えるのですね」

院政とは天皇の父や祖父が天皇を補佐するという名目で政治の実権をにぎる支配体制です。だから体仁親王が養子になれば父である崇徳が院政を行えるという話は、なるほど筋が通っているように思えました。

崇徳天皇は父鳥羽上皇のすすめるままに4歳の体仁親王を養子にした上で、体仁親王に譲位しました。時に永治元年(1142)12月、近衛天皇の誕生です。

(ありがたい…何だかんだ言っても、
父上は私のことを思ってくださっているのだなあ)

しかし、これは鳥羽上皇のしかけた罠でした。近衛天皇即位の宣命には「皇太子」ではなく「皇太弟」と書かれていました。つまり、崇徳天皇は「子」ではなく「弟」に譲位したことになります。

院政とは天皇の父が現役天皇にかわって政治を行うことです。「弟」への譲位では院政を行なうことができません。「弟」。この一文字のために、崇徳天皇は政治から締め出されたのでした。

そして近衛天皇の父は鳥羽上皇ですから…引き続き、鳥羽上皇が治天の君として院政を行うことになります。鳥羽上皇は崇徳天皇を追い出し、自分が治天の君として君臨し続けることを同時になしたのです。とんだペテンです。

「うおおおおぉぉおおぉっ
父上!!そこまで私を毛嫌いするのですか!!」

生まれがどうあれ、崇徳院ご本人に責任があるわけではないのに、こんなふうに父親から憎まれたことは、気の毒というほか、ありません。

一時は半狂乱になりながらも、崇徳院はぐっと怒りを押さえました。

(まだ機会はある。一時の感情に流されるべきではない…)

近衛天皇はわずかに4歳。早世する可能性もあるし、鳥羽上皇が崩御する可能性もありました。まだ院政を行う望みが完全に絶たれたわけではありませんでした。

崇徳院はわが子重仁親王の即位と、それにともない自分が院政を行うことに期待をかけて、その時期を待ちます。

待賢門院の崩御

近衛天皇の4年、久寿元年(1145)8月22日、崇徳・雅仁らの母・待賢門院璋子が亡くなります。享年45。

雅仁親王(後の後白河天皇)は、母待賢門院が亡くなったことで「火を消して闇の中にいるような気持ちに」なり、すっかり落ち込みます。

崇徳・雅仁の兄弟愛

兄の崇徳院は弟雅仁親王のことを心配して、

お前そんな落ち込んでいたら体にさわる。どうだ、私の御所で一緒にすまぬか。そんな兄上、畏れ多いことでございます。なんの兄弟で遠慮することがあろうか。すぐに荷物をまとめて、参れ。さようですか…ではお言葉に甘えて、

雅仁親王は兄崇徳院の御所で同居するようになりました。すると雅仁親王は元気を取り戻したのか、例の今様熱心がまた始まり、夜毎に今様を歌いまくります。鳥羽殿では、五十日ばかり歌い明かし、東三条殿では船に乗って、人々を集めて四十日あまり、夜明けまで、毎晩歌いました。

「ハハハ…雅仁…。元気になったはよいが、さすがに、つきあいきれんぞ…」

崇徳院、そんなこともつぶやいたでしょうか。

仲睦まじい兄弟愛の図があったのですよ!まさか後年、兄と弟で敵対しあうことになろうとは!

近衛天皇の早世

久寿2年(1155)、近衛天皇が17歳で早世します。眼病を患っていたといわれます。これこそ崇徳院が待ち望んでいたことでした。

(ようやく機会が回ってきた…)

内心ほくそ笑む崇徳院。これで我が子重仁が即位すれば天皇の父として院政を行えます。

後白河天皇の即位

しかし鳥羽上皇の崇徳嫌いは徹底していました。鳥羽上皇はどうあっても崇徳の血統に位を渡すつもりはあませんでした。

とはいえ寵愛する(美福門院)得子との間に男子は近衛天皇だけでした。そこで、得子の生んだ暲子(しょうし)を女帝に立てる案が浮上します。

守仁親王

しかし、美福門院は、養子の守仁親王を帝位につけてくれと前々から鳥羽上皇に訴えていました。

「守仁は人柄もよく、学問もできます。
あれなら天皇として申し分なしですわ」

守仁親王は雅仁親王の皇子ですが、母親が早くに亡くなったため、美福門院に養われていたのです。

「守仁か…。だが親が天皇で無い者が
即位したという先例が無い」

「ならば守仁の父の雅仁殿を一時的に即位させればよいのです」

「なに雅仁!ならぬ。あれは帝の器量ではない。今様などに狂って…しかももう29歳だ」

しかし美福門院は、雅仁の即位を強く、推します!

「一時的に即位させるだけのことです。
すぐに息子の守仁に譲位させればよいことです」

「うむむ…」

ついに鳥羽法皇は折れました。久寿2年(1155)7月24日に高松殿にて雅仁親王践祚。9月23日、当初の話通り、13歳の守仁親王を東宮に立て、10月26日、即位しました。後白河天皇です。

鳥羽法皇も、美福門院も、後白河のことはつなぎの天皇としか考えていませんでした。あの無能な雅仁に、何のできようものかと軽くみていたでしょう。しかし!その雅仁が、後年、老獪な後白河法皇となって、平清盛・木曽義仲・源頼朝らと相対し、激動の源平の争乱を生き抜いていくことになります!

失意の崇徳上皇

ともかく、後白河天皇の即位によって崇徳の院政への望みは完全に断ち切られました。

「うう…父上…あんまりです!よりにもよって無能な四宮などを!」

『保元物語』には、崇徳院の恨みのことばとして、

我が身徳行少しといへども、十善の余薫にこたへて、先帝の太子と生まれ、世澆薄(ぎょうはく)なりといへども、万乗の宝位をかたじけなくす。上皇の尊号につらなるべくは、重仁こそ人数に入るべき所に、文にも非ず、武にもあらぬ四宮に、位を越えられ、父子(崇徳と重仁)共に愁にしずむ。

崇徳院は、母待賢門院の死後、落ち込んでいた弟の雅仁をいたわって自分の屋敷に同居させたりもしたのですが、やはりどこかで、無能な弟と見下していたところもあったのでしょうか。

失意のどん底にあった崇徳院に、摂関家の内部抗争に敗れて同じく失意のどん底にあった藤原頼長が接触してくるのは、それから間もなくのことでした。

次回「後白河上皇(三)師弟の出会い」に続きます。

講演録音 公開中

日蓮と一遍(90分)
https://youtu.be/HFiOBFOb7po

武田信玄(三)武田家、滅亡(68分)
https://youtu.be/WbLcsKjD1rk

新選組 池田屋事件(16分)
https://youtu.be/zjeVWbk-3M8

発売しました オンライン版 日本の歴史

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解説:左大臣光永

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