鴨長明(五)歌人としての長明

こんにちは。左大臣光永です。

二条城は慶長8年(1603)徳川家康が京都における将軍御所として築いた城です。市バスの窓から二条城の白壁と石垣が見えてくると、嬉しくなります。ときどき二条城見るためだけに市バスに乗ります。東大手門の優雅なたたずまいと、巽櫓(たつみやぐら)の実直に仕事してますって感じの、組み合わせが、よいです。

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本日は「鴨長明の生涯(五)歌人としての長明」です。鴨長明といえば今日『方丈記』の作者として有名ですが、長明存命中はむしろ歌人として有名でした。

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第一回~第四回もあわせてお楽しみください。
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俊恵法師と歌林苑

鴨長明の歌道の師を俊恵法師といいます。

俊恵法師は長明より42歳年上です。、『金葉集』の撰者として名高い源俊頼を父に持ちます。小倉百人一首の85番に歌を採られています。

夜もすがらもの思ふころは明けやらで ねやのひまさへつれなかりけり 俊恵法師

俊恵は、はじめ東大寺の僧でしたが、40代後半に奈良を去って京都北白河に住み、この地に「歌林苑」という文芸サロンを営みました。自宅を開放し、歌の好きな人たちを身分や職業・性別に関係なく、広く招いたのです。会合は月一、または臨時で行われ、たいへんな賑わいを見せていました。

歌林苑の正確な位置は不明ですが、北白川は長明のいた下鴨神社からは高野川をはさんですぐ東。歩いて30分ほどです。長明もちょくちょく通っていたことでしょう。

保元年間(1156-59)から20年もの長きにわたって、俊恵法師の歌林苑は文芸サロンとして栄えました。

藤原清輔や源頼政といった、当時を代表する歌人、登蓮法師や道因法師といった僧侶、平家一門の平経正もいました。

殷夫門院大夫、二条院讃岐などの、女流歌人もいました。鴨長明のような当時まだ若くほとんど名の知られない者まで、俊恵は懐広く、受け入れました。

しかし源平の争乱が始まると、このような風流な会合もなかなか許されなくなったためか、歌林苑は自然消滅に向かったようです。

俊恵法師が鴨長明を弟子にした時の話が『無明抄』に書かれています(弟子入りの時期は不明)。

あなかしこあなかしこ、我人に許さるるほどに成りたりとも、証得(しょうとく)してわれは気色したる歌よみ給ふな。ゆめゆめあるまじき事なり。後徳大寺の大臣(おとど)は左右なき手だりにていませしかども、其の故実なくて、今はよみ口後(おく)れに成り給へりき。

『無名抄』

人から認めれるうになっても慢心するな、初心忘るべからず。後徳大寺実定は慢心したから、下手になった。若い頃のような、道への執着、まじめな探求心を失ってしまった。

お前はそうなってはいけないぞと、問いているわけです。

俊恵がこう言わざるを得ないほど、鴨長明に慢心しがちな傾向が、もしかしたらあったのかもしれません。

『千載集』に入集

鴨長明と歌にまつわる逸話をもうひとつ。

『千載集』に歌を採られた。これは鴨長明にとって大きな喜びでした。

『千載集』は後白河法皇が藤原俊成に命じて編纂させた七番目の勅撰和歌集です。編纂が命じられたのは平家一門都落ち五ヶ月前の寿永2(1183)2月。俊成はすでに出家して釈阿と名乗り、年は70歳でした。

当時の歌人にとって勅撰和歌集に歌を採られるのは最大の名誉であり、関心事でした。『平家物語』「忠度都落」は、そのことを生き生きと語っています。

平家一門の薩摩守平忠度が都落ちに際して歌道の師・俊成を訪ねる。そこで自分がふだんから書き溜めた歌を託し、どうかこの中に一首なりとも、よい歌がありましたら、採り上げてください。そうすれば草場の陰で嬉しく思い、遠くあなたのことをお守りいたします。そんな話をして去っていく名場面です。

君既に都を出でさせ給ひぬ。一門の運命はやつき候ひぬ。撰集のあるべき由承り候ひしかば、生涯の面目に一首なりとも、御恩をかうぶらうど存じて候ひしに、やがて世の乱れいできて、其沙汰なく候条、ただ一身の嘆と存ずる候。世しづまり候ひなば、勅撰の御沙汰候はんずらむ。是に候巻物のうちにさりぬべきもの候はば、一首りとも御恩を蒙(こうぶ)ッて、草の陰にてもうれしと存じ候はば、遠き御守りでこそ候はんずれ」

『平家物語』「忠度都落」

源平の合戦が終わり、世の中が落ち着いてくると、一時中断されていた『千載集』の編纂事業が再開します。鴨長明も他の歌人たちと同じく、自分の歌を提出しました。どれが採られるか、採られないか期待と不安の中にいました。文治4年(1188)すべての歌が出揃いました。その中に鴨長明の歌は…ありました。一首採られていました。

隔海路恋といへる心を詠める

思ひ余り うち寝る宵の幻も 波路を分けて 行き通ひけり(千載集・恋5・933)

海路を隔つる恋という題詠です。「幻」は『長恨歌』に出てくる道師(幻術士)を念頭に置きます。道師(幻術士)は玄宗皇帝に命じられてあの世に行って楊貴妃に会うのです。そんなふうに、思い余って寝た夜、私の思いを汲んで幻術士が波路を分けてあなたのもとに行き通うことよという歌です。ロマンあふれる歌です。

鴨長明は自分の歌が『千載集』に採られたことを素直に喜びました。

させる重代にもあらず、よみ口にもあらず、又時にとりて、人に許されたる好士にもあらず。しかあるを、一首にても入れるは、いみじき面目なり。

たいして家柄がいいわけでもない。歌がうまいわけでもない。また時勢に乗って、しかるべき人と人脈を築いた恵まれた者でもない。であるのに一首なりとも入れられるのは、たいへんな名誉だ。

しかし『千載集』の評判は散々でした。俊成の関係者の歌が多すぎ、身内贔屓と言われました。

勝命法師は長明に歌道の導きをした人物ですが、一首も採られず、不満たらたらでした。また長明の琵琶の師である中原有安も一首でした。たった一首か…とガックリしたようですが、長明の素直な喜びようを見て、ならば、歌の道で必ず大成するだろうという意味のことを言っています。

当時、歌人たちが勅撰和歌集に自分の歌が採られることに、どれほど一喜一憂したか。こんな話があります。

道因法師は歌の事にはとても執着が深く尋常ではありませんでした。歩いて住吉神宮へ月参りし、「どうか七十、八十までよい歌を詠ませてください」と熱心に祈りました。

そんな道因法師でしたが、藤原俊成によって『千載集』が編纂された時にはすでに故人となっていました。

俊成は道因の歌を18首入れました。すると夢の中に道因があらわれ、涙を流して礼を言うので、俊成はあはれに思い、さらに2首を足して20首としたという話が伝わっています(『無名抄』)。

西行法師は、『千載集』が編纂されると聞いて、陸奥国で修行していましたが、こうしてはおれぬと陸奥を後に、上洛の途につきました。途中、知っている人に会ったので、

「お聞きしますが、私の歌「心なき身にもあはれは知れりけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」は採られましたか」

「それは採られていないようです」

「そうですか。ならば上洛しても仕方ない」

そう言って陸奥に引き返していったということです(『今物語』)。

当時の歌人たちが勅撰和歌集に載ることをいかに名誉なことに大切に考えていたかが伝わってくるエピソードです。

次回「瀬見の小川」に続きます。お楽しみに。

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本日も左大臣光永がお話ししました。ありがとうございます。
ありがとうございました。

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解説:左大臣光永