鴨長明(三)都遷し

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こんにちは。左大臣光永です。

私は外歩く時、ぶつぶつ一人芝居してることが多いです。武田信玄と武田勝頼のやり取りなんか興奮して一人語りしていると、曲がり角のとこからバッと近所のおばちゃんがあらわれて目があったりすると、非常に気まずいですね。

さて先日再発売しました「現代語訳つき朗読『方丈記』」ご好評をいただいています。ありがとうございます。特典「『方丈記』こぼれ話集」は9/15までです。お申し込みはお早めに。
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本日は鴨長明の生涯(三)「都遷し」です。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

http://roudoku-data.sakura.ne.jp/mailvoice/Cyoumei3.mp3

第一回・第二回もあわせてお楽しみください。
http://history.kaisetsuvoice.com/Cyoumei1.html

http://history.kaisetsuvoice.com/Cyoumei2.html

宇治川合戦

治承4年(1180)5月、後白河法皇第三子・高倉宮以仁王が全国の源氏に打倒平家の令旨を発します。

以仁王この年30歳。母方の身分が低いため親王宣下を受けられず、三条高倉の御所で夜な夜な笛を吹いては、つらい胸の内をまぎらわせておられました。

三条高倉 高倉宮阯
三条高倉 高倉宮阯

またここに源頼政という武士がありました。この年77歳。

20年前の平治の乱の後、源氏は中央政界を追われますが、頼政は唯一中央政界に残り、平清盛の深い信任もあって出世を重ねました。治承2年(1178)従三位に到り、源三位頼政、出家して源三位入道頼政と呼ばれていました。

この二人が、どこでどう結びついたか手を組みました。20年前の平治の乱で全国に飛ばされた源氏の残党に、打倒平家を呼びかけたのです。しかしすぐに平清盛にバレます。

「平家を倒すだと!生意気な」

平清盛は激怒し、三条高倉の以仁王邸に捕縛の役人を送りますが、以仁王はいち早くこれを察知。夜通し如意ヶ岳を越えて、大津の三井寺に助けを求めました。

三井寺 金堂
三井寺 金堂

三井寺は前々から平家と対立していました。以仁王は大歓迎されました。しかし。平家の軍事力の前に三井寺だけでは太刀打ちできない。そこで、奈良興福寺に協力を求めます。

翌朝、源三位入道頼政以下、三井寺の僧兵たちは、興福寺との合流を目指して奈良に向かいます。醍醐、木幡を経て、宇治にて、平家方に追いつかれ、合戦の末、頼政は討ち死に。以仁王も奈良に向かう途中、討ち取られてしまいました。

平等院鳳凰堂
平等院鳳凰堂

以仁王逃経路
以仁王逃経路

埋もれ木の花咲くこともなかりしにみのなる果てぞかなしかりける

頼政自刃の扇の芝
頼政自刃の扇の芝

頼政の墓
頼政の墓

頼政の辞世は『平家物語』に記されてあまりに有名です。ちなみに小倉百人一首89番式子内親王は、以仁王の姉です。同じく92番二条院讃岐は源頼政の娘です。

玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする 式子内親王

わが袖は潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らねかわく間もなし 二条院讃岐

福原「遷都」

宇治川合戦の混乱も冷めやらない治承4年(1180)5月30日、平清盛はとんでもないことを言い出します。

「福原に都を遷す」

「えええ…!!」

治承四年水無月のころ、にはかに都遷り侍りき。いと思ひの外なりし事なり。

『方丈記』

反発は平家一門の内部からもありました。しかし清盛は断固、都遷しを行いました。三井寺・興福寺が以仁王に味方したことを受けて、一刻もはやく仏教勢力と手を切ろうとしたのが遷都を急いだ理由のようです。

治承4年(1180)5月30日に遷都を決定、6月2日早朝、後白河法皇、高倉上皇、安徳天皇をつれて都を出ます。

清盛の館のある西八条から、伏見の草津港まで、二列に分かれた武士が警護する中、平清盛の乗る屋形輿を先頭に、行列は南下していきました。

若一神社(西八条邸跡)
若一神社(西八条邸跡)

その夜は摂津大物浦(だいもつのうら。現兵庫県尼崎のあたり)で一泊。翌3日早朝に福原に入ります。

しかし福原には受け入れ態勢がまったく整っていませんでした。天皇や上皇がお住まいになる御所すらありませんでした。

仕方なく平家一門の館に入り、仮の御所としましたが、お供に付き添ってきた人々は宿所も無く、道端で座り込むというありさまでした。

また福原は都を築くには幅が無さすぎました。北はすぐに山、南はすぐに海です。京都の町は中国の長安にならい、北から一条二条三条四条…九条まで通りが整然と並びますが、福原には五条までしか通りを作る余裕がありませんでした。

遷都まもない福原を、鴨長明は訪れています。

その時おのづから事のたよりありて、津の国の今の京に至れり。所のありさまを見るに、南は海近くて下れり。波の音つねにかまびすしく、汐風ことにはげし。/p>

『方丈記』

それにしても鴨長明は福原になにしに行ったんでしょうか。都づくりに関わる仕事を請け負っていたという説。単なる好奇心という説に分かれています

一方、はるか伊勢で都遷りのことをきいた人物がいます。西行です。

福原へ都遷りありと聞えしころ、伊勢にて月の歌よみ侍りしに

雲の上や古き都になりにけるすむらむ月の影はかはらで

雲の上の都であった平安京も今や古き都になってしまった。今もかわらず澄んで(住んで)いるだろう月の姿はかわらないままに。

古郷の心を

露しげき浅茅茂れる野になりて在りし都は見し心地せぬ

『西行上人集』

平安京は露まみれで草葉の茂った野になってしまった。華やかだったかつての都は、ほんとうに存在していたのだろうか。信じられない気持ちだ。

都遷りのことを西行はこんなふうに歌っています。どこか突き放した、距離を置くような感じです。

福原遷都騒動の間、悪いことが重なります。干ばつと疫病の流行。高倉上皇も重い病にかかってしまいます。

この間、時勢は目まぐるしく動きます。8月17日。伊豆で源頼朝が平家の代官山木兼隆の館を襲撃。

9月7日。信濃で木曽義仲が平家方の笠原頼直(かさわらよりただ)を越後に追放。

10月20日、富士川で源頼朝の率いる軍勢に平家軍が大敗。踏んだり蹴ったりです。平家の内部からも不満の声が上がります。

富士川河川敷
富士川河川敷

「こんな、都遷しなんて、どだいムリだったんです。話にならないッ!」
「なにッ!!」

普段はおとなしく清盛に逆らわない三男の宗盛が、今度ばかりは清盛と激しく言い争い、平家一門の人々を驚かせました
(『玉葉』治承4年11月5日条)。

さらに、遷都に不満をいだく比叡山延暦寺が脅迫をかけてきます。平安京に都を戻さないと、山城と近江を占領すると!

とうとう清盛も折れて、京都に戻ることに同意します。11月24日後白河法皇、高倉上皇、安徳天皇以下、平家一門の人々こぞって福原を出て26日、京に戻ります。

こうして福原遷都計画は、わずか半年で挫折しました。平清盛晩年の愚行として歴史に記憶されています。

ことゆえなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これ(遷都)を世の人安からず憂へあへる、げに、ことわりにも過ぎたり。

『方丈記』

理由なくかんたんに遷都すべき平安京ではないのに、今回の遷都を世の中の人は心乱し残念がった。まったく、もっともである。

南都焼討

平安京に都を戻した後も、時勢はあわただしく動きました。12月28日、平家による南都攻撃が行われます。大将軍には清盛の五男重衡・副将軍には清盛の甥通盛4万騎が、奈良興福寺に派遣されます。前の以仁王の乱に加担したことへの報復でした。

興福寺
興福寺

早朝からはじまった合戦は一日中続き、死屍累々。そして夜に入って、

「火を放てッ!」

大将軍の重衡が命じます。火は燃え広がり、興福寺・東大寺の堂塔伽藍を焼き尽くします。

灼熱、大灼熱、無間阿鼻の炎の底の罪人もこれには過ぎじとぞ見えし
『平家物語』

東大寺の大仏もこの時に燃えてしまいました。焼き討ちが平重衡の指示であったか、過失であったのか諸説ありますが、以後、平家は仏敵とされ、人心が離れていきます。

東大寺 毘盧遮那仏
東大寺 毘盧遮那仏

次回「養和の大飢饉・元暦の大地震」に続きます。お楽しみに。

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本日も左大臣光永がお話ししました。ありがとうございます。
ありがとうございました。

解説:左大臣光永

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