鴨長明(一)出生から父の死まで
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本日から六回にわたって、鴨長明の生涯を語っていきます。
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鴨川河川敷
鴨長明(1155-1216)。
下鴨神社正禰宜(しょうねぎ…神社長)・鴨長継の次男として生まれるも、30代で家を出て、鴨川のほとりに庵を結び、49歳で洛北の大原へ、ついで京都近郊の日野に移住。方丈(3メートル四方)の庵を結び、隠遁生活の中『方丈記』を書きました。
その間、後鳥羽上皇が復興した「和歌所(わかどころ・おうたどころ)」の寄人(よりうど。職員)として抜擢され、歌人・飛鳥井雅経(あすかい まさつね)と交流。
平清盛による福原京遷都や、平家一門の都落ち…いくつかの歴史的大事件を長明は間近に見ています。また鎌倉に下り将軍源実朝と会見しています。
鴨長明の生涯をたどることは、単に『方丈記』という一つの作品を読み解くことでなく、平安末期~鎌倉初期の大きな時代の流れを追体験することにもなるでしょう。
出生
鴨長明は久寿2年(1155)下鴨神社正禰宜・鴨長継の次男として生まれます。兄に長守がいますが、どんな人物だったか不明です。母についても何も伝わっていません。
鴨長明が生まれた久寿2年(1155)は、近衛天皇が亡くなり後白河天皇が即位した年です。翌保元元年(1156)7月、長年にわたり院政を行ってきた鳥羽法皇が亡くなります。すると鳥羽の二人の息子・崇徳上皇と後白河天皇の対立から保元の乱が起こります。
鴨長明と同じ年に生まれた慈円は歴史書『愚管抄』に有名な言葉を記しています。
鳥羽院失せさせ給ひて後、日本国の乱逆と伝ふことはおこりて後、武者(むさ)の世になりにけるなり。
貴族の支配、古いモラルが崩壊し、武士が軍事力を背景に力を伸ばしていく歴史の転換点をいった文章です。
その保元の乱は下鴨神社のすぐ南・鴨川東の白河北殿で戦われました。京都大学熊野寮敷地の北西角に、石碑が建っています。
白河北殿付近(京都大学熊野寮)
合戦は四時間で終わり、崇徳方の総大将・藤原頼長は戦死し、崇徳上皇は捕らえられて讃岐へ島流しとなりました。鴨長継は朝廷にかかわる者として、ハラハラして事の成り行きを見守ったことでしょう。
保元三年(1158)二条天皇即位。翌平治元年、後白河上皇の二人の側近・信西と藤原信頼の対立から平治の乱が起こります。
結果、信頼方は負けて、信頼についていた源義朝は死に、源氏が没落したことはよく知られている通りです。
物心ついたばかりの鴨長明にはこうした世の中の混乱も、戦争も、縁遠いことでした。後日物語にきいた程度でしょう。
糺の森
鴨長明が少年時代を過ごした下鴨神社は、川と森に囲まれた中にあります。賀茂川が高野川と合流する所であり、下鴨神社に付属して広大な糺の森が広がります。
鴨川河川敷
糺の森
糺の森には東に泉川、西に御手洗川(別名瀬見の小川)が並行して流れ、ちろちろと清水の音が響いていました。
現糺の森 泉川
賀茂川と高野川。泉川と瀬見の小川。そして糺の森。鴨長明はまったく、川と森に囲まれて少年時代を過ごしたわけです。神社の手伝いの合間なんかに、糺の森を一人散歩したでしょう。
後年「方丈記」の冒頭に
行く河の流れはたえずして、しかももとの水にあらず。
淀みにうかぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし。
あの名文は、鴨長明の子供の頃からの原風景からにじみ出たものと言えます。
叙爵
永暦2年(1161)10月17日、鴨長明は正五位下に叙せられます。7歳でした。これが鴨長明の最終官位です。以後、官位は上がりませんでした。
平家一門の繁栄
平治の乱の後、二条天皇→六条天皇→高倉天皇と目まぐるしく代替わりしますが、戦はなく世の中は穏やかでした。
この間、平家一門が勢いを伸ばします。仁安2年(1167)平清盛は太政大臣従一位に至り、人臣として最高位を極めました。
翌年、病にかかった清盛は出家して浄海と名乗ります。家督は嫡男の重盛が継ぎました。しかし清盛は出家後もいよいよ盛んで、一門官位も上がり、朝廷の重要な役職を平家一門が占めます。清盛の義弟、平時忠は「この一門にありざる人は、皆、人非人なるべし」と言い放ったと、有名な話ですね(『平家物語』「禿(かむろ)」)。
承安元年(1171)清盛の娘徳子が高倉天皇に入内。ついに平家は天皇家の外戚となり、いよその地盤を確かなものにしていきます。
父の死
平家一門が繁栄している頃、鴨長明を取り巻く環境も少しずつ変化していました。嘉応2年(1170)年頃、父長継が31歳で禰宜を引退。
かわって長明のまたいとこの鴨佑季(すけすえ)が禰宜となります。31歳で引退とは早すぎますね。よほど病弱だったのでしょうか。
そして承安2年(1172)かその翌年に、長継は死にます。享年34・5。鴨長明18-9歳の時でした。
鴨長明は亡き父を惜しんで心痛めて、歌を詠んでいます。
父みまかりてあくる年、花を見て詠める
春しあれば今年も花は咲きにけり散るを惜しみし人はいづらは(『鴨長明集』)
春ともなれば今年も花は咲くのだ。しかし花が散るのを惜しんだ父はどこへ行ってしまったのか。
父の死によって鴨長明の生活は大きく変わります。それまで禰宜の息子さんということで周囲からもチヤホヤされ、可愛がられていたでしょう。
しかし父が死ぬと。これまでもてはやしていた者たちも一人去り、二人去り。若き長明は人の心の軽薄さを実感したことでしょう。かといって自力で生活の糧をさがすほどのパワーも無い。
鴨長明はヤケクソになり、自殺を考えたりもしたようです。こんな歌のやり取りが残っています。
住みわびぬいざさは越えん死出の山さてだに親の跡を踏むべく
これを見侍りて、鴨の輔光
住みわびていそぎな越えそ死出の山この世に親の跡をこそ踏め
と申し侍りしかば
情けあらば我まどはすな君のみぞ親の跡踏む道は知るらん
『鴨長明集』
私はもう人生がイヤになりました。さあ越えましょう。死出の山を。それは親の生き方にならうために
これを見て鴨の輔光が
人生がイヤになったといって急いで死出の山を越えますな。親の生き方にならうのは、この世でやるべきことです(お父さんのように現世で頑張って出世なさい)。
と申したところ、
情けがあるなら私を惑わせないでくれ。君は本当に親の生き方に習う道を知っているだろうから(そんな生きろなんて言いながら、本当は死んだほうがいいことはわかってるだろう)。
ほかにも長明は自殺をほのめかす歌を何首か詠んでいます。しかし死ねず、長明はなお40年あまりの歳月を生きることとなります。
次回「安元の大火」に続きます。お楽しみに。
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