勢いをのばす藤原良房
藤原良房 太政大臣から摂政に
「承和の変」(842年)により伴氏(=大伴氏)や橘氏が失脚すると、藤原良房は右大臣に主任し、藤原北家の権力はいよいよ大きくなっていきます。
嘉祥3年(850年)、良房の妹の子である道康親王が文徳天皇として即位。そして即位の四日目に、良房の娘の明子(あきらけいこ)と文徳天皇との間に生まれた第四皇子、惟仁親王を皇太子に立てます。後の清和天皇です。惟仁親王この時わずかに生後8ケ月。先例の無い異例の立太子でした。
勢いをのばす藤原良房
文徳天皇にはすでに第一皇子の惟喬親王がありました。惟喬親王は聡明で父天皇から愛されていました。文徳天皇は、惟喬親王をこそ皇太子に、と考えていましたが、
そこへ、藤原良房が、藤原氏の血を引く第四皇子の惟仁親王を強引にねじこんできたのです。
文徳天皇は良房の手助けで即位できたこともあり、良房に逆らえませんでした。
また文徳天皇は生来病弱でした。その上皇太子もまだ幼子です。これでは政治などしようもない。では私が補佐いたしましょう。ぐぬぬ…何でもそのほうの思うがままか。しかし、今は仕方ない…。
ということで藤原良房は、太政大臣に任じられます。
太政大臣て何?という方のために説明します。
当時日本は律令制度という政治システムに基づいており、その律令制度における最高機関が太政官(だじょうかん・だいじょうかん)といいました。いわば国会と内閣をあわせたようなものです。
その太政官で一番えらい人が太政大臣というわけです。ただし、太政大臣は具体的に職務を行うというより名誉職の側面が強かったようです。よほどすぐれた人が出ない限り、空席となりました。これを「則闕(そっけつ)の官(かん)」といいます。
史上はじめて太政大臣になったのは天智天皇の息子の大友皇子です。人臣で太政大臣になった例は藤原良房以前には藤原仲麻呂と僧道鏡がいます。しかし藤原仲麻呂は朝廷に反旗をひるがえし764年藤原仲麻呂の乱を起こし、道鏡は769年宇佐八幡宮神託事件で失脚しました。
いずれも評判のよくない人物で、藤原良房も先例としたいとは思わなかったことでしょう。
天安2年(858年)、病弱の文徳天皇が崩御すると、皇太子惟仁親王が即位して清和天皇となります。9歳の天皇です。9歳で政治は行えないので、良房が摂政…幼少の天皇を補佐する役について、清和天皇を支えます。これも人臣初の摂政です。
こうして藤原良房は、着実に権力地盤を固めていきます。
その後の惟喬親王
9歳の幼帝が即位する一方、皇位継承に敗れた第一皇子の惟喬親王を惜しむ声も多くありました。
惟喬親王
「あの聡明な惟喬親王がご即位なされば、さぞ世の中はよくなったろうに…」
「何もかも藤原良房の思うがままか…」
惟喬親王はこの年15歳。皇位継承に敗れたことでしだいに政治にかかわる意欲を失っていき、風流の遊びに没頭していきました。水無瀬の離宮で狩に興じたり歌を詠んだり…それでも惟喬親王の心は慰められず、ついに出家して洛北の小野に隠棲します。
歌人として有名な在原業平は惟喬親王にお仕えしました。業平は19歳年下の惟喬親王のことを、主君として尊敬し、またあわれに思い、弟のようにも、友人のようにも思っていたようです。業平と惟喬親王の友情の物語は『伊勢物語』の中に美しくつづられています。