宇佐八幡宮信託事件
重祚
764年、孝謙上皇は藤原仲麻呂の乱に加担した淳仁天皇を位からおろして淡路に幽閉し、かわってみずから称徳天皇として重祚します。
「やはり、私がいなければこの国は立ち行かない。
道鏡、私の治世を支えておくれ」
「ははっ。この道鏡、
ミカドのために全力を尽くします」
おごる道鏡
称徳天皇の道鏡に対する寵愛は、日に日に深まっていきました。藤原仲麻呂が討たれた後は、いよいよ道鏡の天下でした。称徳天皇は、何をするにも道鏡に相談するようになりました。
「道鏡、この件はどうです?」
「上皇さま、それはですね…」
(ちっ、道鏡め。上皇さまのご寵愛をいいことに
ふんぞり返りやがって…)
周囲はまゆをひそめますが、どうにもなりません。もはや道鏡の意見無しでは、国政がまったく立ち行かなくなりました。
765年、道鏡は太政大臣禅師、翌年には法王に任じられ、さらに翌年には法王の直属機関「法王宮職(ほうおうぐうしき)」を設けます。
また道鏡は政治にもかかわっていきます。鷹狩を管理する放鷹司(ほうようし)を廃止して、生き物を保護する放生司(ほうじょうし)を設けたり、
諸国の国分寺の造営をおしすすめます。土地政策では743年に定められた墾田永年私財法を改め、貴族たちの墾田を禁止しました。この時、寺院に対しては墾田を禁止しなかったので、結果として寺社勢力の力がましました。
平城京の西(右京一条三坊から四坊にかけての地)に西大寺という寺があります。称徳天皇が藤原仲麻呂の乱の平定を願って建立した寺です。その名の通り、父聖武天皇の東大寺にならって建てた寺です。この西大寺建立は道鏡が中心となっておしすすめたと言われています。
このように、道鏡が国政に大きくかかわってくることに貴族たちは反発しましたが、もはや面と向かって道鏡に逆らえる者はありませんでした。「道鏡さま、道鏡さま」と、こびへつらう者ばかりでした。道鏡を天皇に
寺社勢力も、例外ではありませんでした。769年5月、九州の宇佐八幡宮から「道鏡を帝位に就ければ天下は太平になる」とお告げが届きました。
当時大宰府を管理していた弓削浄人(ゆげのきよひと)は道鏡の弟なので、もともと仕組まれたことかもしれません。
道鏡びいきの称徳天皇も、さすがに今回は考えます。
(皇族でも無い道鏡を帝位に…そんなことができるのか)
和気清麻呂
そこで称徳天皇は腹心の尼僧和気広虫に命じて信託の真偽を確かめさせようとします。しかし女の身では九州までの旅は持たないだろうと、かわりに弟の和気清麻呂を行かせることにします。
「神託の真偽 確かめてまいれ」
「ははっ」
和気清麻呂はすぐに九州豊前の宇佐八幡に飛びます。もしかしたら出発前に道鏡に呼び出され、
「託宣のこと、よろしくお願いしますぞ。
うまく事が運んだあかつきには、貴殿にもよい席をご用意しております」
なんて酒をすすめられたかもしれません。わかりませんが。
宇佐八幡の託宣
和気清麻呂は九州豊前の宇佐八幡につくと、すぐに身を清めて神前に出て、まず宝物を奉ると天皇からの宣命を読み上げようとします。
【宇佐八幡宮】
その時、禰宜の辛嶋勝与曽女(からしますぐり・よそめ)に神が乗り移ります。降臨した神は
「いやじゃいやじゃ宣命など聞きとうない」
手足をジタバタさせてタダをこねていました。あっけにとられる周囲の神官たちをよそに、和気清麻呂は神の前でひざまづき、
「宇佐八幡さま、どうか宣命をお聞きください」
すると、
ゴワーーーッ
ものすごい風とともに身の丈三丈もある巨大な僧形の神があらわれ、
「いやじゃいやじゃ宣命など聞きとうない」
さらにダダをこねていました。
「イヤじゃありません。国家の命運がかかっているのです。
どうか神よ、宣命をお聴きいただきたい」
和気清麻呂の熱意に神も負けたのか、ようやく神は天皇からの宣命をお聴きいれになり、御言葉を下されました。
和気清麻呂の報告
「それで、宇佐八幡は何とおっしゃっていたか」
「それが…」
道鏡はじめ高位高官たちが見守る中、和気清麻呂はキッパリと言いました。
「わが国では君主と臣下の区別ははっきりしている。
皇族でない者が天皇になるなど、ありえない、とのことでした」
ざわざわざわっ…
わき立つ周囲。
道鏡は最初あっけにとられ、だんだんと怒りで顔が真っ赤になっていきます。
「でたらめだ!何を言っておるのか。帝、このような男の言うことを
信じてはなりません。おのれ、おぼえておれっ、ただでは済まされんぞ」
道鏡はドスドスとその場を立ち去りました。
道鏡の失脚
道鏡の言うとおり、和気清麻呂はただでは済まされませんでした。その名を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と変えられ、九州大隅に流されます。
清麻呂の姉法均(広虫)も還俗の上、名を別部挟虫(わけべのさむし)と改められ備後に流されます。
しかし770年、称徳天皇が五十三歳で崩御。後ろ盾を失った道鏡は下野薬師寺に左遷され、2年後、かの地で没しました。葬儀は庶民として行なわれます。権勢を極めた男の葬儀とはとても思えない、つつましやかなものでした。
道鏡の失脚後、和気清麻呂も姉の法均も罪許され、帰京しています。