孝謙天皇と藤原仲麻呂
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史上唯一の女性皇太子
聖武天皇と光明子の間に生まれた第一皇子基皇子(もといのみこ)は
生後一年ほどで夭折してしまいました。
聖武天皇が亡き基皇子を弔うため建立したのが東大寺です。
738年に第一皇女の安倍内親王(あべのひめみこ)が皇太子に立てられます。史上唯一の女性皇太子です。この時20歳です。
【安倍内親王】
安倍内親王は藤原不比等の曾孫であり、一族の期待はいやが上にも高まります。
「これで皇太子が即位なされば、藤原氏も安泰ですなあ」
「いやまったく…楽しみなことです」
743年5月5日、恭仁京の内裏において、阿部内親王は元正上皇の前で「五節の舞」を舞います。元正上皇以下、高位高官たちは、若い内親王が衣をたなびかせてひらり、ひらい舞い踊る姿に、うっとりします。
阿部内親王に五節の舞を舞わせたのは、聖武天皇による、「この娘を皇太子に立てるぞ」という宣言でした。
かつての女帝…持統天皇も元明天皇も元正天皇も、皇太子に立つことなく即位しています。わざわざ皇太子に立つ必要も無いともいえるのですが、あえて外に向けて「次の天皇だぞ」と示さなければならないほど、女帝というものに対する抵抗が、強かったのです。女帝など認められん。せいぜい次の天皇までの中継ぎだという考えが強かったのです。
そこで聖武天皇は、いやこの娘は中継ぎなどではない。正式な天皇として即位するのだという意思表示の意味で、皇太子に立て、五節の舞を舞わせたのでした。
吉備真備の教育
安倍内親王の東宮学士(皇太子の教育係り)を務めるのは、遣唐使として中国へわたったことのある、吉備真備(きびのまきび)。主に『漢書』『礼記』を教えました。
「よいですか中国では皇太子たるもの…」
(はあ…真備はなんて頭がいいんだろう。それにいい男ぶり)
そんな感じだったかどうかわかりませんが、後年藤原仲麻呂が反乱を起こした際、孝謙上皇となった安倍内親王がまっさきにたよったのが吉備真備でした。
孝謙天皇の即位
749年、聖武上皇が阿部内親王に譲位します。
なぜこの時期にということですが、同年、陸奥国で黄金が産出しています。大仏建立は聖武天皇が長年にわたってきて取り組んできた大事業ですが、黄金が不足しているのが心配事でした。
それが陸奥国で黄金が出たことで、どうにか大仏建立の目途が立ったのです。ようやく一安心して、聖武天皇は娘の阿部内親王に譲位することにしたようです。
こうして749年即位したのが孝謙天皇です。20歳で皇太子に立てられてから11年。31歳になっていました。
その最初の仕事は父聖武天皇が長年にわたって取り組んでいた大仏を完成させ、大仏開眼供養を行うことでした。
「父の志を、なんとしても形にしないといけない」
その覚悟の下、孝謙天皇は即位早々、百官を引き連れて河内国知識寺に行幸します。かつてこの寺で父聖武天皇は盧舎那仏像を見て、大仏建立を思いついたのでした。
「ああ…この盧舎那仏象が父の御覧になったものですか。
素晴らしい。平城京にも、これのもっと大きなものが、
鎮座ましますことになるのだわ。どんなに素晴らしいことでしょう」
と、父ゆかりの盧舎那仏像を前に、即位したての孝謙天皇はさまざまな感慨にかられたことでしょう。
開眼供養
752年4月9日、大仏開眼供養の儀式が開かれます。743年に発願してから9年目のことでした。すでに娘の孝謙天皇に位を譲っていた聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇以下、高位高官が並び、華やかな儀式でした。
インドの僧菩提僊那(ぼだいせんな)が、大きな筆を持って足場に登ります。筆の緒を、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇が握られます。
そこで菩提僊那が一声、
「でやーーっ!!」
最後の仕上げとして、大仏に目玉を描き入れると、
ワーーーッ パチパチパチパチ
大仏殿からは、一せいに拍手と歓声が上がります。インドや中国から1000人の僧侶が招かれ、集まった人の数は一万人を越えました。
儀式の後は晴れやか音楽とともに、インドや中国の踊りが披露されます。その賑わいは東大寺の外までも響き渡ります。しかし、大仏建立の一番の功労者である庶民は、当然ながらこの式典には一人も招かれませんでした。
光明皇太后と藤原仲麻呂
聖武上皇の后、光明皇太后は、若い孝謙天皇を補佐しました。
【光明皇后、孝謙天皇、藤原仲麻呂】
「よいですか。あなたは帝といってもまだ若いのです。
自分勝手な判断をしないで、何でも仲麻呂に相談なさい」
「わかりました母上…」
光明皇太后が強く推したのが藤原仲麻呂です。
「仲麻呂、娘をよろしくお願いしますね」
「ははっ。皇太后さま、この仲麻呂めにお任せを」
藤原仲麻呂は不比等の孫で、天然痘で死に果てた藤原四兄弟のうち長男武智麻呂(南家)の次男です。叔母である光明皇太后にはたいへんな信頼を受けていました。孝謙天皇から見ると従弟にあたります。
紫微中台の設置
光明皇太后は皇后時代の729年、皇后の日常生活を支える機関、皇后宮職(こうごうぐうしき)を設置していました。
749年、皇后宮職を紫微中台(しびちゅうだい)と唐風に改名し、藤原仲麻呂を長官(紫微令 しびれい)に任命します。
これにより藤原仲麻呂は光明皇太后との結びつきを強め、以後ますます権力を増大していくこととなります。
道祖王の立太子⇒廃太子
756年、聖武上皇が崩御し阿部内親王が孝謙天皇として即位しました。孝謙天皇は独身であり皇子も皇女もいなかったので、父聖武天皇の遺言により天武天皇の孫にあたる道祖王(ふなどおう)が皇太子に立てられます。
【道祖王】
しかし翌757年、道祖王は突然皇太子を廃されています。おそらく藤原仲麻呂が孝謙天皇に入れ知恵したのではないでしょうか。
「帝、お耳に入れたきことが。皇太子殿下のことで」
「何、道祖王がどうしたというのじゃ仲麻呂」
「実は…先帝(聖武天皇)の服喪期間中にもかかわらず、
あろうことか児童とみだらな行為に及んだと」
「何と!」
「それだけではありません。機密を漏洩し、夜な夜な東宮を抜け出して遊びまわり、ご本人も『俺って皇太子に向いてないんだよなー』などと
おっしゃっていると」
「許しがたいことです!!」
こうして道祖王は廃されます。道祖王が廃された後は、藤原仲麻呂の強い推薦により大炊王(おおいおう)が皇太子に立てられます。後の淳仁天皇です。
【道祖王】
大炊王は仲麻呂の亡くなった長男真従(まより)の未亡人と結婚しており、仲麻呂の館に住んでいました。仲麻呂とは結びつきの強い人物です。なので仲麻呂は大炊王を強く推したのでした。
(これでわしの地位も安泰じゃ…)
藤原仲麻呂はこうして着実に権力を拡大していきました。
橘奈良麻呂
一方仲麻呂をこころよく思わない勢力がありました。その筆頭は橘諸兄の子、橘奈良麻呂です。
【藤原仲麻呂と橘奈良麻呂】
系図を見ればわかるように、仲麻呂と奈良麻呂は、藤原不比等の孫同士です。
奈良麻呂の父・橘諸兄は聖武天皇の信任あつかったのですが、次第に藤原仲麻呂が発言力を増すと、退けられていきました。
その上、酒の上での不敬の行ないがあったと讒言され、聖武天皇はこれを問題にされなかったものの、諸兄は自ら恥じて官職を退き、失意のうちに没しました。
言わば奈良麻呂にとって仲麻呂は父諸兄を失脚させた元凶。そういった恨みも関係していたのかもしれません。
(これ以上、好きにさせておけるか。今こそ仲麻呂討つべし)
しかし、奈良麻呂の動きはすでに仲麻呂方に察知されていました…。