大正時代の社会運動・労働運動

こんにちは。左大臣光永です。

先日、スーパーに行ったら、レジのおばちゃんが、「某君が来ない」いきなり言い始めて、「どうしよう、某君がまだだわ。私5時で終わりなのに」「某君がこないから私帰れない」と騒ぎ出しました。

そういう内輪もめは客からわからないところでやれようという気持ちと、思いがけない人間ドラマに遭遇してウキウキする気持ちが、半々でした。

本日は「大正時代の社会運動・労働運動」について。

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大正時代には社会運動・労働運動がさかんになりました。

労働者、農民、女性、被差別部落民、社会主義者といった人々が、社会の改善をもとめて声を上げました。

背景

第一次世界大戦中のロシア革命・ドイツ革命、そして国内の米騒動によって庶民は自分たちの力を自覚しつつありました。

「なんだやれるじゃないか」
「ロシアでもドイツでもやれたんだ。日本だって…」

米騒動が女性によって始まったことはとくに注目に値します。

1918年(大正7年)の米騒動は、女性のエネルギーを世に実感させた事件でした。

シベリア出兵にともなう米価の高騰に対して、各地で庶民が決起したのです。そのさきがけとなったのは富山の魚津町の主婦たちでした。

新聞はこれを「越中女一揆」と報じました。

労働運動 鈴木文治

こうしたこともあり、女性、労働者、被差別部落民といった、それまで抑圧されてきた人々も声を上げ始めました。

鈴木文治(すずき ぶんじ)はキリスト教徒の立場から労働者の待遇改善のために「友愛会」を結成。

後に「大日本労働総同盟友愛会」「日本労働総同盟」と名を変えながら、社会主義を支持し、普通選挙の実現をめざし、社会民主党の創設に参加しました。

1920(大正9)5月2日、日本初のメーデーが東京の上野公園で開催されました。5000人の労働者が集まりました。

会場には赤インクで書かれた大きな幟が翻り、

「治安警察法第十七条撤廃」(ストライキを制限する内容)
「失業防止」
「最低賃金法の制定」
「八時間労働制」
「シベリア即時撤兵」

など訴えていました。

鈴木文治による開会宣言につづき、労働者が次々と登壇し、労働者の自由を訴えて演説し、最後に「万国の労働者バンザイ」が三唱され、日本初のメーデーは幕をおろしました。

農村解放運動 杉山元治郎

農村でも小作人争議が増えました。杉山元治郎(もとじろう)は大阪出身の牧師。1922年(大正11)には賀川豊彦とともに日本農民組合を結成し、小作人の待遇改善をめざしました。

女性解放運動 平塚らいてう

女性解放運動も進みました。

1911(明治44)に平塚らいてう(明はる)は青踏社を築き、雑誌『青踏』を創刊しました。

「元始(げんし)、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光に依って輝く、病人のような蒼白い顔の月である」(『『青鞜』創刊号における平塚らいふうの文章)

1911年(明治44)9月、雑誌『青鞜』創刊。中野初子、保持研子(やすもち よしこ)(愛媛)、木内錠子(きうち ていこ)(東京)、物集和子(もずめ かずこ)(東京)、平塚明子(ひらつか はるこ=らいふう)ら日本女子大同窓生五人が発起人となりました。

『青鞜』は創刊時、あくまで文芸雑誌であり社会問題などを扱うものではありませんでした。

が、男性中心の社会にしいたげられた女性たちの共感をよび、しだいに女性開放運動と結びついていきます。

与謝野晶子、長沼智恵子、伊藤野枝といった女流文学者や女性活動家も『青鞜』の趣旨に賛同し、原稿を書いたり援助しました。

創設者の平塚らいてふ自身、当時の女性の理想とされた「良妻賢母像」からはかけ離れた女性です。

3年前の1908年(明治41)年、心中騒ぎを起こしています。相手は夏目漱石門下の若き文学者、森田草平(そうへい)。

平塚と森田は九段の教会で開かれた文学の会で知り合い、後に平塚が『愛の末日』という小説を書いた時、森田が感想を送ったことで、二人の距離は縮まり、やがて恋仲となります。

しかし、森田には妻子がいるため、一緒にはなれない。そこで、平塚と森田は心中しようと那須塩原花峠に逃避行しますが、心中は未遂に終わりました。そんなスキャンダルも乗り越えた末の『青鞜』創刊でした。

1913年(大正2)2月、神田のキリスト教青年会館で「新しい女講演会」が開かれました。平塚はみずからのことを「私は【新しい女】である」といっていたのです。1000人の聴衆が集まりました。

「新しい女?何をバカな…」

と、男性の中には反発する者、揶揄する者もありました。が、『青鞜』は多くの女性たちの共感をよび、以後4年6ヶ月の間、52冊刊行されました。

筆者たちは、小説で、エッセイで、思い思いに女性の解放、女性の自立を訴えました。

1920(大正9)には平塚らいてう・市川房枝・奥むめおらが新婦人協会を結成。女性が政治演説を聴くことを禁じた警察法第五条の改正をうったえ、二年後に実現させました。

協会はさらに婦人参政権運動をおしすすめましたが、当の平塚らいてふは体調を崩し、一時、東京郊外の砧村に隠棲しました。

部落解放運動 全国水平社

部落差別に苦しんできた人々も立ち上がりました。

1923年(大正11)3月、部落解放運動の全国組織として全国水平社(単に水平社とも)が結成され、創立大会で西光万吉(さいこうまんきち)起草による水平社宣言が読まれました。

水平社ははじめ、部落開放・差別反対をとなえていましたが、しだいに労働運動や農民運動とむすびつき、戦争中はファシズムとも結びつき、はじめの趣旨からずれていきました。

そのため内輪もめがたえず、戦争中の1942年(昭和17)解散しました。

社会主義運動・共産主義運動

社会主義運動は、1910年(明治43)大逆事件で幸徳秋水らが処刑されてから、下火になっていました。

しかし第一次世界大戦中にロシア革命、ドイツ革命が起こり、国内では米騒動が起こったことで、デモクラシーへの気運が高まっていました。

労働者、農民、被差別部落民、女性、学生、市民なども声を上げ始めました。

そのきっかけとなったのが吉野作造の唱えた「民本主義」でした。

民本主義。

『中央公論』に発表した論文にある言葉で、政治はすべて民衆の利益のために行うべきだとし、この民本主義こそが近代的立憲政治の根本だと論じます。

吉野はこの民本主義にのっとり、普通選挙運動、言論の自由、政党内閣制による議会中心政治の実現をうったえました。

吉野作造の「民本主義」に勢いを得て、日本の社会主義者たちは活動をさかんにします。大逆事件以来の長い社会主義冬の時代を、ようやく脱したのでした。

1920(大正9)、この年はじめてメーデーが開かれ、堺利彦が発起人となり日本社会主義同盟が結成されました。

堺はその後、大正11年(1922)7月、山川均(やまかわ ひとし)らとともにコミンテルンの指示にもとづき秘密裏に(第一次)日本共産党を結成。委員長に就任しましたが、翌年に検挙され、日本共産党も一時解散となりました。

しかし日本共産党は1926年(昭和元)に再結成され、紆余曲折をへて戦後合法化され、今日まで続いているのは周知のとおりです。

私個人の意見としては、日本共産党を合法化してはいけなかったと思います。テロを肯定し、テロを実行する組織を合法化することは近代国家としてありえないからです。

テロを肯定し、テロを実行するのをテロリストというのです。左・右にかかわらず、どこの国がテロリストを政治の舞台に上げるんでしょうか。

日本共産党が合法化されていることは、近代国家の恥辱です。

※コミンテルン 1919年モスクワで創設され1943年まで存続した、共産党の国際組織。

新潟出身の国家主義者、北一輝(きた いっき)は、『日本改造法案大綱』をあらわし、国家主義の観点から国家の改造をときました。

天皇を奉じ、軍隊の力で国を改造し、領土拡張し、軍備を増強せよととく過激な内容で、青年将校たちに強い影響をあたえました。

226事件に参加した青年将校たちも、北一輝の『日本改造法案大綱』をバイブルにしていました。

ために、226事件後、北一輝は直接関与していないにも関わらず逮捕され銃殺刑に処せられました。

次回「大正時代の新しい文化・芸術(一)」に続きます。

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伊藤博文暗殺事件(8分43秒)
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韓国併合(32分11秒)
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ロシア革命とソヴィエトの成立(6分14秒)
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解説:左大臣光永

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