韓国併合

こんにちは。左大臣光永です。

本日は長いです。

「韓国併合」について。

30分ちょっとしゃべります。

韓国併合。

1910年(明治43)8月22日調印の「日韓併合ニ関スル条約」で韓国を日本に併合したこと。

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日露戦争中の1904年2月23日の韓国議定書に続き、1905年11月17日(正確には18日深夜)、第二次日韓協約を締結。この協約によって日本は韓国の外交権を奪い、韓国統監を置くことを決めた。

初代統監伊藤博文は保護政策をすすめたが効果は薄かった。

1907年ハーグ密使事件が起こると日本は皇帝高宗を退位させ、第三次日韓協約を結び内政を完全に掌握。

1909年伊藤博文が暗殺されると、日本は第三代統監寺内正毅(まさたけ)により韓国併合を断行。

以後、第二次世界大戦終結の1945年(昭和20)まで、韓国は日本の一部となった。

条約調印

1910年(明治43)5月30日、寺内正毅(まさたけ)陸相が第三代韓国統監に任命されました。韓国併合に備えた人事でした。

寺内は7月23日、韓国に到着。皇帝純宗に挨拶をすませると、韓国政府と交渉を進め、8月22日、韓国併合に関する条約大韓帝国の首相・李完用(りかんよう、イワンヨン)との間に調印しました。

条約は二点から成っていました。

一、韓国皇帝は、韓国全部に関する一切の統治権を、完全かつ永久に天皇に譲渡する

ニ、天皇は、譲与を承諾し、韓国を日本に併合することを承諾する

条約は、当時の国際法と国内法にのっとり、平和裏に締結されました。

アメリカがハワイを併合した際は、国王を退位させ、武力で屈服させました。

イギリスがビルマを併合した際は、ビルマ王と王妃をとらえてセイロン島に流し、王子たちは皆殺しにし、王女たちは皆インドの兵士に与え、なぐさみ者としました。

しかし日本はアメリカ・イギリスのやり方に習わず、もっとも平和な、イギリスのスコットランド併合のやり方に習いました。

そして併合は韓国側がみずから望んだことでした。

李完用以下、韓国政治首脳部の中に併合に反対したのは1名のみでした。

10月1日、統監府を廃して朝鮮総督府が創設され、寺内正毅が初代総督に就任しました。

以後、第二次世界大戦集結の1945年(昭和20)まで、韓国は日本の一部となりました。

李氏朝鮮という悪夢

併合は日本側が一方的に押し付けたのではなく、韓国側も望んだことでした。李完用以下の大臣は1名を除き全員が併合に賛成しました。

なぜ韓国側は併合を望んだのか?

それを理解するには、李氏朝鮮のざっくりした歴史を知っておけば足ります(李氏朝鮮の歴史はあまりにも不毛でつまらないので、詳しく学ぶ必要はないと思います)。

李氏朝鮮が建国されたのは1392年です。その前の王朝を、高麗といいました。

高麗の将軍・李成桂(りせいけい・イソンゲ)は平民の出身ながら当時の中国…元が高麗に侵攻してきた時にこれを撃退して功績を立てて将軍になりました。

一方、中国では貧農出身の朱元璋が洪武帝を名乗り、1368年に明が建国されました。

明が建国されると、高麗は元につくか、新興国の明につくかでもめます。

その、「親元派」と「親明派」の争いの中、

1388年、李成桂は高麗国王の勅命を受け、明から遼東半島を奪還するために出撃しました。

が。途中、鴨緑江河口の威化島(イファド)でにわかに軍勢を引き返し、首都開京(ケギョン)にもどって上官の将軍を逮捕・殺害しました(威化島回軍)。

こうして李成桂はクーデターを起こすと高麗王を廃し、別の王を立て、さらに別の王を立て、1392年、王から禅譲される形で、みずから王位につきました。

翌1393年、明国から許可を得て、「朝鮮」の国号を名乗りました。

このような国の成り立ちですので、李氏朝鮮は終始、明の属国たることを余儀なくされました。清が建国されて1637年以後は清の属国となりました。

16代朝鮮国王の仁祖(インジョ)は清国皇帝に土下座して平伏しました。仁祖は清国皇帝をたたえ、みずからを卑下する文章を石碑に刻まされました。「恥辱碑」と呼ばれる石碑が今もソウル市内に立ちます。

日清戦争後の1895年、日本によってようやく清国からの独立がかないました。「朝鮮」あらため「大韓帝国」となり、第26代高宗(コジョン)王が、中国の臣下を意味する「王」を廃して初めて「皇帝」を称しました。

その後、韓国併合まで、李氏朝鮮はのべ518年間続きました。

李氏朝鮮518年間の歴史は「悲惨」の一言です。

李成桂は国を建てると、仏教を徹底的に弾圧しました。仏教は1000年にわたる朝鮮人の心の支えであり高麗の国教でしたが、李成桂は寺を壊し、仏像を破壊し、財産を没収し、僧を賤民の身分に落としました。

僧侶や寺は山に逃げ込みました。

かわって儒教の原理主義ともいうべき朱子学を国教としました。朱子学とは、ただでさえつまらない儒教の中でももっともつまらない、「机上の空論」という言葉を額に入れて飾ったような学問です。

中国が世界の中心であるという「中華思想」に基づき、中国につくすことが善であると説く、バカな学問です。

朝鮮は朱子学にもとづき明を宗主国として仰ぎ、みずからを「小中華(ソチュンファ)」と称して、徹底して中国に媚びへつらいました。

李成桂は首都を開京(ケギョン)から漢陽(ハンニャン)に移し、旧高麗の官僚たちを大量に虐殺しました。土地を没収して国有化し、みずからの王権簒奪に手を貸した者たちに分配しました。

その後も李王朝27代518年の間、数人の名君は出たものの、概して悲惨な歴史が続きました。

王室と両班(ヤンバン)とよばれる貴族階級が血で血を洗う骨肉の争いを繰り返し、浪費を繰り返し、農民たちから財産・農作物を奪い、民衆は貧困と飢餓に苦しみました。

法律はなきに等しく国王の気分しだいで刑罰が決まり、

518年の間、まともな道路は一本も(一本も!)作られず、河川には橋もかからず、産業もなく、毎年の国家予算すら作成できる者はおらず、

韓国併合時、公立学校が4つある以外は、各地に書院と呼ばれる寺小屋ていどのものがあるだけでした。

しかもそこで教えられる学問はカビの生えた朱子学のみでした。

国防は軽んじられ、まともな軍隊もなく、国防は明国に頼りきっていました。

始祖である李成桂が軍事力で国を簒奪したため、軍事力は警戒されたためです。

そのため、豊臣秀吉が朝鮮に侵攻した1592年・1597年の文禄の役・慶長の役(朝鮮側の呼称は壬辰倭乱(イムジンウエラン)・丁酉再乱(ジヨンユゼラン))では、

軍事の素人である文官の両班が兵士を指揮するしまつでした。日本軍を撃退できたのは、明国からの援軍と、李舜臣(イスンシン)将軍の働きによってでした。

その李舜臣も、政敵の恨みを買って無実の罪で死刑宣告をされ、死刑はまぬがれたものの、一兵卒の地位に落とされました。

慢性的に百姓一揆が多発し、

道端には餓死者の死体が転がり、片付ける役人もないので、犬と狼に食われるにまかせ、

ちょっとでも「近代化」を口にする者が現れれば毒殺されるか、強制収容所に送られました。

李氏朝鮮で女性に人権はなく、奴隷同然でした。

嫁いだ後は一歩も家を出ることを許されず、他の男性と話すことは
もちろん、見ることも許されず、

もし他の男性に触られると、腕を切断され、家から追放され、あるいは死刑になりました。

男子を産まなかったり、重い病にかかると家を追放されました。夫と死別したら、再婚は許されず一生を後家として過ごすことを強いられました。

夫がどれだけ妾を迎え入れても嫉妬してはならず、

追い返されて実家に戻ると、一族の恥といって冷遇され、

50代になってはじめて、女性は家から出ることが許されました。

もし美人に生まれれば、さらに悲惨な運命が待っていました。

美人は問答無用で強制連行され、「貢女(コンニョ)」といって、中国高官への貢物にされました。

朝鮮は中国の属国でしたが、ロクな資源がないため、一番の貢物が美女だったのです。

だから親は、美人が生まれると隠したり、顔に劇薬を塗ってただれさせました。足を引きずり、障害のあるふりをさせたりして、あるいは出家させ、なんとか「貢女狩り」を逃れようとしました。

しかし娘を隠していたことがバレると、一族全員が残酷な罰を受けました。

地方官の給料は、ゼロでした。まったくの無給です。それでも高額の賄賂をわたして、地方官になろうとする者がたえなかったのは、

いったん地方官になれれば、領民から好きなだけ搾り取れるからです。

中国にならった科挙制度がありましたが、試験とは名ばかりで、受験資格は両班に限られており、合格は金を積んで買うものでした。

李朝の末期には宮中の蓄え金が底をついたため、官職を金で売買ようになりました。

民主国家の皮をかぶった現在の韓国でも、社会のすみずみまで賄賂が横行しているのは、李氏朝鮮からの伝統です。

大統領任期中は不正・汚職のやり放題で任期が切れるとすぐに逮捕されるのも、李氏朝鮮からの伝統です。

『朝鮮日報』はじめ韓国のマスコミは自国のことを「腐敗共和国」と呼んでいます。

李氏朝鮮に私有財産の概念はありませんでした。どんな家に住めるか?どこに住めるかは、権力と地位しだいでした。

たとえば今日豪邸に住んでいても、明日、支持してた権力者が政争に敗れると、ぜんぶ取り上げられるという、不安定なものでした。

世襲や身分の売買によって、李朝末期には両班が全国民の50%をしめていました。

想像してください。

労働もせず、納税もせず、怠惰と贅沢を貪るだけのクズが、全国民の50%を占める。そんな国家を。それが、李氏朝鮮でした。

両班は労働を軽蔑し、体を動かすことすら恥としていました。李朝末期に、皇帝高宗がアメリカ公使館を訪れると、職員がテニスを楽しんでいました。

それを見て高宗は「あのような仕事はなぜ召使いにやらせないのか」と言ったそうです。

このように李氏朝鮮の歴史は、あまりにアホらしく、くだらなく、腐敗臭がただよい、細かく話す気になりませんし、細かく話す価値はないと言えます。

ようするに怠惰・驕慢・軽蔑・足の引張りあいが全てであり、「こうなってはいけない」という教訓以外、李氏朝鮮518年間には、何ひとつ学ぶべき点がありません(あったら教えてください)。

早い話、李氏朝鮮は、現在の北朝鮮とまったく同じ、犯罪集団でした(日本統治時代の遺産を破壊し否定しつくした上で、すべてを李氏朝鮮時代に戻したのが現在の北朝鮮です)。

李完用はじめ大臣たちは、日本の協力のもと、韓国をまともな近代国家にしようという愛国心から、併合に合意したのでしょう。

しかも、李完用は日本に阿諛追従するような人物ではありませんでした。韓国人であることに生涯、誇りを持ち、日本語はけして使いませんでした。名筆家としても知られ、明治天皇から親筆の依頼をされたほどでした。

韓国にとって、李完用ほど誇るべき愛国者はいないと言えます。

にも関わらず、いまだに韓国では、李完用は祖国を売り渡した売国奴という話になっています。

土地調査事業

日韓併合における諸政策について見ていきます。いずれも韓国では「日本が韓国から収奪した。酷いことであった」という話に書き換えられ、反日プロパガンダの材料にされています。

しかし実態はまったく違います。

※韓国には現状、まともな「歴史学」も「歴史教育」も存在せず、ただ為政者の「妄想」ないし「創作」が、教科書に書かれ、教えられています。ほんとうのことを教えると「親日派だ」といって弾圧を受けます。

まず土地調査事業について。

朝鮮総督府は1910年から1918年まで朝鮮の土地調査事業を行いました。これについて韓国の教科書では「土地を収奪することが目的だった」ということを書いています。

しかし事実はまったく違います。

土地調査事業の目的は土地の所有権をあきらかにし、近代的土地制度を確立することでした。

李氏朝鮮の支配下では、土地の所有権という概念はありませんでした。両班は庶民の土地を好き放題に強奪しました。

今日すんでいた土地が明日は奪われているという状態でした。庶民にとっては安全がなく、国家にとっては税収が安定しませんでした(李氏朝鮮は中国の「属国」であり「国家」ではありませんが)。

総督府はこれを正し、土地調査事業の目的は土地の所有権をあきらかにし、近代的土地制度を確立しようとしました。

1918年までに確定された朝鮮全土の土地は442万町歩、うち朝鮮人所有地391万町歩、国有地27万町歩、日本人所有地24万町歩でした(文春新書『韓国併合への道 完全版』呉善花)。

調査により課税対象の土地がはっきりし、インフラ整備の基盤が整いました。

所有権の申告のなかった土地や所有権不明の土地は総督府が接収しました。それは全体の3%でしたが、韓国の教科書には「40%が総督府に接収された」と、根拠のない妄想数字を載せています。

韓国には現状、まともな「歴史学」も「歴史教育」も存在せず、このような妄想数字が平気でまかり通っています。

創氏・改名

1940年(昭和15)、朝鮮総督府は朝鮮戸籍法を改正し、朝鮮人が日本名を名乗れるようにしました。

「創氏・改名」とよばれる措置です。

韓国の教科書では「朝鮮人の名を奪い日本人の名を押し付けた」という話になっています。

事実はまったく違います。

「創氏」とは文字通り「氏を創る」ことです。それまでの朝鮮式の「本貫(一族の発祥地)と姓」に加えて、新しく「氏」を創設し、朝鮮人に適用したのです。

「氏」とは「家族単位の名前=ファミリーネーム」のことです。現在は「姓」と同化している概念です。

欧米や日本では結婚すると夫婦で同じ「姓」になります。

しかし儒教思想の強い中国や朝鮮では「一族」を重んじますので、結婚してもそれぞれ別の「姓」を名乗り続けます。

総督府はこれでは戸籍をつくるのに、ややこしいということで、新たにファミリーネーム=氏を創設したのです。

これは義務であり、6ヶ月の期限を設けた届け出制の届け出がなかった場合は従来の朝鮮式の姓(金・李・朴など)がそのまま氏として登録されました。

80%の人が届け出て新たな氏を名乗り、20%の人が届け出ず、もとからの姓(金・李・朴など)を氏としました。

あらたに氏を創設した場合も、もとの「姓」が消滅するわけではありません。もとの「姓」はそのまま戸籍に残りました。

一方、「改名」は、従来の名前を日本式の名に任意に変更できるというものです。これは強制ではなく、期限も定められていませんでした。

「創氏」は義務であったが、「改名」は任意だったのです。

日本式の名を名乗ることは朝鮮人からの要望でした。

朝鮮人は中国人や満州人からひどい差別を受けていました。商売をやらせてもらえず、家を燃やされたり殺されたりしました。なにしろ中国は朝鮮の元宗主国ですので、中国人は朝鮮人をバカにしていました。

そこで日本名を名乗れば日本人とみなされて差別されなくなる。だから日本名を名乗らせてほしいと朝鮮総督府に朝鮮人が要望してきたのです。

総督府はそれに応えたものです。しかも改名は許可制であり、改名する時は役所に金をおさめる必要がありました。なにか日本側が勝手に名前を決めて、今日からお前は太郎と名乗れ、なんてやったわけではありません。

「創氏改名が名前をうばい日本名を押し付けた」というのは、バカバカしいくらい事実に反しています。

繰り返しますが、

韓国には現状、まともな「歴史学」も「歴史教育」も存在していません。

教育の基盤となる教科書さえ、為政者の都合に基づく「妄想」や「ファンタジー小説」が載せられています。

近代国家とはいえません。

しかし韓国はともかく、日本ですら、「創氏改名で朝鮮人の名前をうばった」と誤解している人が多いです。よくよく、正しい歴史を伝えていかなければなりません。

内鮮一体化

日本政府の方針は朝鮮人を被征服民として支配するのではなく、日本人と同じに扱うというものでした。

内地(日本)と朝鮮を一体化する。それは日本人にも、朝鮮人にも同じ権利をもたせ、同胞として支え合っていくという方針でした。これを「内鮮一体化」とか「皇民化」といいます。

けして朝鮮人の尊厳をふみにじって、無理やり日本風にあわせさせるということでは、ありません。

そして当時の朝鮮人はこの「内鮮一体化」「皇民化」を歓迎しました。

「我々は皇国臣民なり。忠誠を以て君国に報せん」にはじまる「皇国臣民の誓詞」を書いたのは朝鮮人です。

「歴史観の違い」ではない

こういう話をすると、「日韓の歴史観の違いだよねえ」とか「価値観の違いだよねえ」とかいう言い方でお茶を濁そうとする輩が必ず出てきます。

「なるほど、Aという意見もあるし、Bという意見もある。どっちも一理あるねえ」という論法です。

これを「思考停止」といいます。

歴史学とは、一次資料にもとづき「何が事実であったか?」を真摯に厳密に追求していくことです。

逆にいえば「嘘」や「間違い」を徹底して排除することです。

「韓国併合はいいことだったのか?悪いことだったのか?」ということであれば、つまるところ主観の問題ですから、どっちの見方も成立しえます。

しかし朝鮮総督府は朝鮮全土の40%の土地を接収したとか、創氏改名が日本人の名前を強制したというのは、明確な「ウソ」であり、「間違い」です。

「歴史観の違い」とか「価値観の違い」といった、相対的な話では、ありません。

韓国の言ってることが一方的に「間違い」であり、韓国の言ってることが一方的に「ウソ」なのですよ。

歴史観の違いとか、そういう相対的な話ではありません。

韓国の言ってることが、一方的に「間違い」であり、「嘘」なのですよ。

いかにも大人の論調めかして「いろんな見方があるんですね~」なんていうフワッとした相対論に、惑わされてはなりません(よくテレビが使う論法です)。

ウソはウソと声高に言いましょう。

間違いは間違いと声高に主張しましょう。

謙譲の美徳は日本人どうしでしか通用しません。

ウソはウソと、間違いは間違いと、

声高に、主張していかなければダメです。

日本の韓国統治

日本の統治期間中、インフラは整備され、朝鮮全土に鉄道網が張り巡らされ、物流は盛んになり、教育は充実し、農作物の生産高は上がり特に主食の米は1942年までに生産高が二倍になりました。

日本統治期間を通して消費は約7倍になり、GNPは年平均3.7%向上し、特に1920年代と30年代では年平均して4%も向上しています。当時は1929年の世界恐慌もあり、GNP成長率は高くて2%ていどでした。

人口も増え続けました。1910年の人口が1312万8780名、1945年の人口が2552万5409名。94%以上も増加しています。

公立小学校は1944年には5000校まで増えました。1926年には京城帝国大学が現ソウルに創設されました。これは大阪帝国大学、名古屋帝国大学よりも早い創設でした。

「日帝統治中、朝鮮人はひたすら差別され、弾圧された」と反日論者はいいますが、事実に反しています。

併合後10年間、朝鮮人は所得税を免除され、1944年までは兵役も免除されていました。むしろ朝鮮人は優遇されていたんです。

日本は韓国のために1945年まで、総額80億ドルの資本を投入しています。資本とはもちろん、日本国民が支払った税金です。総税収の10%が、多い時は20%が「朝鮮支援金」として朝鮮に注がれました。これは最後まで、投資過剰の赤字経営でした。

アメリカはハワイの王室をつぶし、イギリスはビルマの王室をつぶしましたが、

李王朝は韓国併合後も存続し、日本の皇室と並び尊重され、

毎年150万円(後に180万円)が朝鮮総督府の財政から李王家のために支出されました。

韓国の反日教育の矛盾

たしかに外国の支配下に入ることは屈辱だったでしょう。朝鮮人に対する差別があったことも事実です。

1919年3月1日の「三・一独立運動」には朝鮮全土で200万人が参加し、日本軍の無差別銃撃により100数十名が殺害されました。

こうした負の歴史があったことは事実であり、日本側に弁解の余地はありません。反省すべき点です。

しかし韓国のいう「日帝三十六年」がそれほど酷いというなら、なぜ、それ以前の李氏朝鮮時代について一切触れないのでしょうか?

触れると都合が悪いからです。

「韓国はうまくやっていたのに日韓併合でブチ壊しになった」という「神話」を崩されると、現政権にとって都合が悪いからです。

今日、韓国政府は自国のダメさから目をそらす目的で、日本が悪い、日本が悪いと反日プロパガンダを喚き散らしています。

彼らが言うことに、

「日韓併合がなかったら李氏朝鮮が独自に近代化を成し遂げていた。それを日本が邪魔した。だから日本を恨みましょう」

「韓国の政治がうまくいってないのは日本のせいだ」

「だから日本を恨みましょう」

「韓国の国力が低いのは日本のせいだ」

「だから日本を恨みましょう」

「韓国人が世界で尊敬されないのは日本のせいだ」

「だから日本を恨みましょう」

では、日韓併合以前の李氏朝鮮518年間の支配が、いかに劣悪ものであったか?

ただ王族と両班による搾取と簒奪だけで、一般庶民にとっていいことは何一つせず、

道路も鉄道もなく、教育もなく、国家予算すら組めず、賄賂が横行し、思想学問の自由もなく、

一言でも「近代化」をいえば毒殺されたり強制収容所に入れられ、

勤労の美徳という概念すらなく、王族と両班が働きもせずに人民から搾取し、怠惰と享楽をむさぼり、女性は奴隷同然で、

はやい話、李氏朝鮮は現在の北朝鮮と同じく、まともな「国家」にはほど遠い、「犯罪集団」でした。

「韓国併合は酷いことばかりだった」「日本は韓国から搾取した」と思い込んでいる方は、李氏朝鮮時代について調べてみることをおすすめします。

考えてほしいのですが、

たとえば北朝鮮の金政権がアメリカによって打倒されたとして、その後、北朝鮮がアメリカほか諸外国の指導を一切受けずに、自力で民主国家とて歩み出せますか?

不可能ですよ。

赤子が歩み始めるには大人の指導が必要です。

「日韓併合がなければ李氏朝鮮が自力で近代化をなしとげとげていた」など、まったく事実に反した、タワ言です。

事実は、韓国が近代化できたのは日韓併合時代があったがためです。

繰り返しますが、

現状、韓国にはまともな「歴史学」も「歴史教育」も存在していません。

韓国政府が創作した「妄想」、もしくは「ファンタジー小説」が、教科書に書かれ、教えられています。

(※ここで「歴史学」とは、史書や書状といった一次資料に基づき、「事実は何であったのか?」を厳密に、真摯に追求していく学問のことをさします)

未熟な国家と言わざるを得ません。

「韓国は反省しない国である」とはよく言われますが、そもそも過去の歴史を正しく直視しないのだから、反省のしようがないのです(直視すれば韓国では社会的に抹殺されます)。

次回「辛亥革命(一)革命勃発」に続きます。

解説:左大臣光永