伊藤博文暗殺事件
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熊本市内の江津湖という湖で、スズメに餌をやってきました。スズメに餌をやっていると鳩が集まってきて、鳩とスズメで、競い合うように餌を取り合いました。スズメは鳩に邪魔されて、なかなか餌にありつけず、ぶくーと膨れて、ふてくされるのが可愛かったです。
本日は「伊藤博文暗殺事件」について語ります。
1909年(明治42)10月26日、ハルビンで伊藤博文枢密院議長が安重根に暗殺された事件。これを機に日本は韓国併合を決定しました。
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第二次日韓協約
極東の小国日本が大国ロシアを負かせたことは全世界に衝撃を与えました。
日露戦争中、清国からの独立をめざす孫文の中国同盟会が東京で結成されたことをはじめ、アジア各地で民族運動に火がつきます。
「白人には勝てないと思ってたけど、やれるじゃないか!日本もやったんだ、俺らだってがんばるぞ!」というわけです。
しかし当の日本は欧米列強の植民地政策にならい東アジアにおける勢力拡大を進めていきました。
日露戦争中の1904年2月23日に締結された日韓議定書に続き、1905年11月17日(正確には18日深夜)、第二次日韓協約(乙巳保護条約)を締結。この協約によって日本は韓国の外交権を掌握しました。
1906年2月、韓国の日本公使館を韓国統監府とあらため、3月、伊藤博文(64歳)が初代韓国統監として現地入りししました。
これに対して韓国各地で反日運動が起こりますが、日本は軍隊を出動させ鎮圧しました。
大韓帝国皇帝・高宗はアメリカのルート国務長官に条約の無効を訴えましたが、アメリカ政府は日本政府と交わした桂・タフト協定に基づき、この訴えを無視しました。
※桂・タフト協定
アメリカは大韓帝国における日本の支配権を確認し、日本は米国のフィリピンにおける支配権を確認したもの。
伊藤博文の穏便路線
初代統監伊藤博文は当初、韓国併合に反対でした。伊藤の考えは、韓国が自力で近代化を成し遂げ、独立するのでなければ意味がない。日本はその手助けをするのだと。
そこで伊藤は日本政府から3000万円の無利子・無期限の借金をして、韓国の道路・水道・学校・病院などを整備することに当てました。
中央政府の大臣と地方長官に韓国人を起用し、日本人は韓国人の下につかせました。
伊藤が特に力を入れたのが教育でした。李氏朝鮮時代は名ばかりの公立学校が4つあるだけでした。伊藤は日本の費用で100校以上を建てました。伊藤の死後も学校の建設はつづき、1943年までに朝鮮の学校の数は5000校に達しました。
また、韓国を「円通貨圏」に取り込んで、経済の安定をはかりました。朝鮮で貨幣が流通したのはこれが初めてのことでした。
ハングルは、李氏朝鮮下では特権階級の両班から蔑視されていましたが、それを必須科目として普及させました。
武力で支配しても反発を招くばかりだ。それに軍事費もかさむ。それよりも韓国にとってよいことをして、日韓がともに栄えればいいじゃないか。
それが伊藤の考えでした。
しかし2年たち、3年たっても、韓国の政情は安定しませんでした。伊藤は辞任することを考えはじめます。
そんな中、事件が起こります。
ハーグ密使事件
1907年6月15日、オランダのデン・ハーグ(Den Haag)で第二回万国平和会議が開かれました。
大韓帝国皇帝・高宗はひそかに李相萵(イサンソル)らの使節を派遣し、イギリス・アメリカ・ロシア・フランスの全権に日本が韓国の主権を侵害していると記した大韓帝国皇帝の信任状を手渡そうとしました。
ハーグ密使事件です。
しかしロシア代表の平和会議議長は韓国には外交権がないといって韓国人の出席を拒否しました。
事件はすぐに韓国統監府の知るところとなります。
第三次日韓協約
「かくのごとき陰険なる手段を以て日本の保護国化を拒否せんとするよりは、むしろ日本に対して宣戦せらるる方が捷径(しょうけい。手早い方法)でありましょう」
伊藤博文がそう言って激怒すると、高宗は「私は何も知らない」といって李相萵らを非難しました。
首相李完用(イワンヨン)以下、大韓帝国の官僚全員が、高宗の退位を希望した結果、
7月19日、高宗は退位し、王世子(皇太子)の純宗が即位しました。同24日、第三次日韓協約が調印され、日本は韓国の内政を完全に掌握しました。
8月1日、漢城(現ソウル)で韓国軍の解散式が行われた際、二個大隊が決起し、鎮圧まで3時間半を要しました。その後も各地で民族運動が起こり、そのたびに軍隊が鎮圧しました。
6月14日、伊藤は韓国統監を辞任し、副統監の曽禰荒助が第二代統監に就任しました。
伊藤博文暗殺
1909年(明治42)10月14日、伊藤博文枢密院議長は、随員数人とともに汽車で大磯を出発。15日、下関の春帆楼にて一泊。16日、門司港にて船に乗り出帆しました。
18日、大連に上陸。満州各地で視察や講演を行い、日露戦争の戦場を訪ねたりしながら旅順、遼陽、奉天、撫順、長春と北上し、
10月26日午前9時、伊藤一行を乗せた汽車はハルビンに到着しました。
ハルビンでの目的はロシアのココーフツォフ蔵相と会見することでした。ココーフツォフ蔵相は汽車が到着するとすぐに汽車の中に入り、伊藤を歓迎しました。
伊藤はフロックコートに厚い外套、黒い山高帽という姿でホームに降り立ちました。それから伊藤一行は守備隊を謁見し、各国領事団が整列した位置まで進み、ココーフツォフと伊藤は握手を交わしました。
9時30分。軍隊の一番後方より青年があらわれ、伊藤に近づくと、銃弾を数発撃ちました。
三発が右から伊藤に命中し、随員の森泰次郎秘書官、川上俊彦総領事、田中清二郎満鉄理事には左から命中しました。
伊藤はすぐに汽車の中に運びこまれ、主治医とロシア人医師の手当を受けます。しかし二発が肺を貫通したのが致命傷となり、午前10時、死去。享年68。
瀕死の伊藤が、撃ったのは誰かと尋ねると、随行の室田義文が韓国人ですと答えました。すると伊藤は「馬鹿な奴ぢや」と答えた、それが伊藤の最期の言葉となりました。
ほかの三人は一命はとりとめました。
犯人の安重根(あんじゅうこん・アンジュングン)はすぐにロシア憲兵に逮捕されますが、その時「コレア、ウラー(韓国バンザイ)」と三度叫びました。
安重根は取り調べに際し、冷静に応えました。
犯行の目的は、伊藤によって韓国は「政治上の名誉を汚されたる」ため、伊藤を殺害していくぶんかその名誉を回復しようとしたこと。
一個人として伊藤に恨みはないが、自分の友人の中には伊藤のために重刑にされた者が数人いること。
自分は何の政党にも属さないまったく独断の犯行であること。
などを語りました。安重根はカトリック教徒であり、検事の前に引き出された時、ひざまづいて「上帝」に感謝したといいます。
ただし安重根には誤解があったと思われます。韓国併合にギリギリまで反対し、韓国人の自主独立を重んじたのが伊藤博文だったのですが。
殺す相手をまちがったとしか言いようがないです。
伊藤博文暗殺を機に、日本の国論は一気に韓国併合に進みます。
次回、「韓国併合」について、詳しく語っていきます。