大正時代の新しい文化・芸術(一)島村抱月・松井須磨子・竹久夢二

こんにちは。左大臣光永です。

仁和寺で金堂と五重塔の内部を公開中なので、見てきました。どちらも寛永年間、徳川家光時代の造営です。

五重塔内部の真ん中を天井から地面まで貫く「心柱」が礎石に接する部分が見えました。ただつっぱってるだけで五重塔を支えており、東京のスカイツリーも同じ技術です。

観音開きの扉の内側に、昭和25年、昭和30年とか、修学旅行生がイタズラしたとおぼしき書き込みがあり、ほほえましかったです。

本日は「大正時代の新しい文化・芸術(一)島村抱月・松井須磨子・竹久夢二」です。

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島村抱月 師と決裂した演劇人

島村抱月は東京専門学校(現早稲田大学)で坪内逍遥に師事し、卒業後は雑誌編集、新聞記者、母校の講師などをつとめつつ、欧州に留学して演劇や心理学、美学を学びました。

帰国後、師の坪内逍遥とともに文芸協会を設立。演劇活動をはじめました。坪内逍遥と島村抱月は理想の師弟関係といえましたが、やがて両者は決裂します。

シェークスピアの古典演劇を志向する坪内に対し、島村抱月はイプセン、トルストイ、メーテルリンクなどの近代劇、社会劇を志向し、

イプセンなど話にならん。

坪内はきく耳もちませんでしたが、やがて島村が演出したイプセンの『人形の家』やズーデルマンの『マグダ』が大ヒットとなり、師の坪内より人気が出てきました。

こうなるといよいよ師弟関係はぎくしゃくします。

そこへ追い打ちをかけるように、

島村と松井須磨子の恋愛が噂となりました。

演出家が女優に手を出すとはけしからんと、坪内は島村を呼び出し事の真偽をたずねると、

「愛しています」

「そうか」

坪内が松井須磨子を追い出すと、その後を追って島村抱月も脱会し、ここに文芸協会は崩壊。

1913年(大正2)7月、松井須磨子と島村抱月はあらたに「芸術座」を創設しました。

もう師の坪内に邪魔されんとばかり、イプセンやトルストイの社会劇をさかんに上演しました。

1914年(大正3)東京の帝国劇場で上演したトルストイの『復活』は大ヒットとなり、松井須磨子の歌う劇中歌「カチューシャの歌」も話題となりました。

『復活』は全国で上演され、台湾、満州、朝鮮でも上演されました。

しかし劇団の運営はトラブルつづきでした。資金繰りが苦しかったことと、松井須磨子が人気を鼻にかけて他の団員ともめること、島村抱月は惚れた弱みで須磨子を注意できないという具合で、ガタガタでした。

1918年(大正7)島村は第一次世界大戦末から流行していたスペイン風邪に肺炎を併発して亡くなりました。

東京明治座で上演される『緑の朝』の初日をひかえ、舞台の手直しに遁走していた矢先の死でした。

臨終を看取る者はなく、松井須磨子も間に合いませんでした。島村の死の二ヶ月後、松井須磨子は島村の後を追って首吊り自殺しました。

松井須磨子 田舎娘が大女優に

松井須磨子は長野松代出身。上京して坪内逍遥の文芸協会付属演劇研究生第一期生となりました。

初舞台は1911年(明治44)『ハムレット』のオフェイリア役で注目をあび、ついでイプセン『人形の家』主人公ノラ役で、新しい女性像をしめし、一躍スターとなりました。

松井須磨子と島村抱月が女優と演出家という枠をこえて愛人どうしになったのは、イプセン『人形の家』の稽古中だったといいます。

やがて二人の関係が師の坪内逍遥にばれると、二人とも脱会。1913年(大正2)7月、あらたに「芸術座」を創設しました。

1914年(大正3)上演のトルストイ『復活』は大ヒットとなり、カチューシャ役の須磨子が歌う主題歌「カチューシャの歌」は田舎の娘まで歌うほど、人気となりました。

しかし愛人かつ相棒の島村抱月は、第一次世界大戦末からのスペイン風邪の流行で、亡くなりました。

島村抱月を失ったことに加え、劇団の運営が重くのしかかり、須磨子は精神的に追い詰められていきました。「死にたい」と口走るようになりました。

大正8年(1919)1月5日払暁、須磨子東京牛込横寺町の芸術倶楽部の自室で首をつりました。

死を決した須磨子は舞台化粧をほどこし、足を固く結んで、首に緋色のしごきをかけて、果てたといいます。

竹久夢二 大正ロマンを代表する画家・詩人・デザイナー

待てど暮せど来ぬ人を
宵待草のやるせなさ 
今宵は月も出ぬさうな

竹久夢二。大正ロマンを代表する画家・詩人・デザイナー。岡山出身。3歳から筆をもち、独学で絵画を勉強。18歳で家出して上京。苦学して早稲田実業学校を卒業し、新聞・雑誌への投稿を通して画家としてデビュー。

「憂いをふくんだ顔、今にも折れてしまいそうな嫋やかな肢体の女」、いわゆる「夢二式美人」で人気をはくしました。

明治42年(1909)妻の岸たまきをモデルにした『夢二画集-春の巻』が出版され、ベストセラーに。

しかしたまきとは二年後、離婚。夢二はたまきと別れた後も女性遍歴を繰り返し、そのたびに相手の女性から着想を得て、作品を描きました。

また詩歌や童話においても活躍しました。

『宵待草』は大正2年(1913)発表(詩集『どんたく』に収録)。後にこれをもとに多忠亮(おおのただすけ)が作曲して大ヒット。今に歌い継がれています。

1914年(大正3)日本橋呉服町に「港屋絵草紙店」を開店。離婚した妻たまきに運営させました。

夢二デザインの版画や封筒、カード、絵葉書などを売り、女性の間で人気をはくしました(現在、東京都中央区八重洲に「竹久夢二港屋跡」の碑が立つ)。

同年1914年(大正3)、笠井彦乃(かさいひこの)と出会い、同棲。大正9年に彦乃がなくなるまで、京都を転々としたり、有頂天の日々を過ごします。笠井彦乃は「夢二式美人」の代表である「黒船屋」のモデルとして知られています。

ほかにも夢二の活躍は、

『月刊夢二 ヱハガキ』を創刊し、絵葉書の世界に新風をもたらし、本の装丁や『婦人グラフ』など雑誌の表紙を手掛け、関東大震災後の東京をスケッチした「東京災難画信」を『都新聞(みやこしんぶん)』に連載するなど、幅広いです。

竹久夢二の描く、憂いをふくんだ、たおやかな、懐かしく、青春の輝きにあふれる女性たちは、まさに大正ロマンそのものであり、

一瞬の輝きを放った後、金融恐慌とファシズムの闇に飲まれていった、大正という時代そのものを象徴しているかのようです。

次回「大正時代の新しい文化・芸術(ニ)」に続きます。

左大臣光永の語る「大正通史」youtubeで配信中!

明治から大正へ(明治天皇崩御・大正政変・シーメンス事件)
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第一次世界大戦の勃発と日本の参戦
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対華21ヶ条要求
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ロシア革命とソヴィエトの成立
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第一次世界大戦 アメリカの参戦
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シベリア出兵と米騒動
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「平民宰相」原敬
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パリ講和会議とベルサイユ条約
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普通選挙運動と原敬の最期
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ワシントン会議
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関東大震災
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大正時代の社会運動・労働運動
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普通選挙法と治安維持法
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解説:左大臣光永