日清戦争(四)下関条約と三国干渉

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こんにちは。左大臣光永です。

最近、朝早くからスズメが来て、チュンチュン鳴くようになりました。玄関にも、ベランダにも来て、チュンチュン鳴きます。夏の間はほとんどスズメの声はきこえなかったんですが、やっぱりスズメも、涼しいほうがいいみたいですね。

四回にわたって「日清戦争」について語ってまいりました。

前回は、日清開戦までのいきさつ、開戦後、日本軍が勝ちに勝ちを重ねたところまで語りました。

本日は第四回(最終回)「下関条約と三国干渉」です。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

https://roudokus.com/mp3/Meiji_Nisshin4.mp3

第一回「条約改正への遠い道のり」
https://history.kaisetsuvoice.com/Meiji_Nisshin1.html

第ニ回「甲午農民戦争(東学党の乱)」
https://history.kaisetsuvoice.com/Meiji_Nisshin2.html

第三回「開戦」
https://history.kaisetsuvoice.com/Meiji_Nisshin3.html

倍賞条件の検討

明治27年(1894)10月、イギリスが日清間の講和条件について日本に打診してきました。日本が戦争をやめるなら、列強諸国は朝鮮の独立を保証する。賠償金を清に支払わせるようにすると。

イギリスは清国における利権拡大をねらっており、清国本土に戦争がおよぶことを嫌ったためです。

イギリスの申し出に対して日本は、イギリスの友誼には感謝するが、いまだ講和条件について公表する段階に至っていないと、断りました。ただしこれを機に、外務省では講和条件の検討が行われるようになりました。

講和条件の検討、とひとことで言っても、日本国内の意見もバラバラでした。

海軍は台湾譲与をもとめ、陸軍は遼東半島割譲をもとめ、あるいは土地よりも賠償金を重視する意見もあり、民間はおおむね清国にたいして過剰なまでの倍賞を求めていました。意見の調整が、大変でした。

講和に向けて

日本軍は各地で連戦連勝し、11月末に旅順を落とすと、講和に向けての動きが出てきました。明治28年(1895)1月、山東半島に上陸した後、

日本と清に駐在する米国公使の仲介で、日清間の講和交渉がはじまりました。

明治28年(1895)1月31日、清国から「全権委員」二人が広島に派遣され、講和に向けての会合が持たれました。

しかし日本側は清の代表者の権限があいまいであるとして、談判は破断となりました。

2月はじめ、日本軍は威海衛を占領すると、北京付近の直隷決戦に向けての準備をすすめました。日本国内のほぼすべての軍事力を動員した、総力戦になるはずでした。

李鴻章の帰還

清国北洋大臣李鴻章(りこうしょう)は、旅順陥落後、軍隊指揮権をうばわれ、北洋大臣・直隷総督の地位も奪われ、天津に追放されていました。

しかし広島での講和談判が失敗し、威海衛が占領され、北洋艦隊も壊滅すると、光緒帝および主戦派は李鴻章を天津から呼び戻し、御前会議を開いて、講和問題について議論します。

賠償金支払い・領土割譲に応じるのか、それとも北京から遷都してでも徹底抗戦するのか、喧々諤々の議論の末、

3月2日、李鴻章は日本との講和交渉についての方針を、光緒帝に上奏します。すなわち、賠償金支払い、領土割譲もやむなしと…

日清講和会議はじまる

明治28年(1895)3月19日、清国全権・李鴻章以下が門司に到着。

翌20日から、下関の料亭「春帆楼(しゅんぱんろう)」で、日清講和会議が始まりました。

日本側全権伊藤博文・陸奥宗光、清国側全権李鴻章以下、両国の代表11名が参加しました。

李鴻章はまず休戦した上での交渉を望みましたが、日本側が厳しい休戦条件を出したので断念し、戦争状態が続いている中での交渉となりました。

戦争はまだ続いている。前線では兵士が死んでいるぞという圧力のもと、少しでも高い条件を認めさせようという日本側の意図でした。

ところが。

李鴻章狙撃事件からの休戦条約

3月24日、清国全権李鴻章が第三回談判からの帰り道、狙撃され、顔面に負傷しました。

犯人は小山豊太郎(こやま とよたろう)という日本人でした。

和平交渉のための全権大使が狙撃されたとなると、

列強からの批判と干渉がくることは、確実でした。

日本に有利な条件で講和に持ち込むとか、軍事的圧力の下、交渉を有利にすすめるとか、そういう日本側の思惑はパーになってしまいました。

日本側は急遽、方針を切り替え、休戦に応じることにしました。

3月30日、日清間に21日間を期限とする休戦条約が結ばれました。

4月1日、日本側は李鴻章に講和条件を提示しました。李鴻章はグズグズいいましたが、伊藤博文はいっさい聞かず、強引に日本側の要求を押し通しました。

実は日本側は李鴻章と清本国との暗号電信を解読しており、そこには、「ギリギリまでゴネて、わずかでも譲歩させろ。しかしもはや協議の余地がないなら条約を結んでもよい」と読み取れました。だから伊藤は強気で責めました。結果、日本側の要求はほぼ全て通りました。

下関条約

4月17日、下関で講和条約が調印されました。

日本は清国に、以下の条件を認めさせました。

一、朝鮮の独立
二、台湾・遼東半島・澎湖諸島の割譲
三、賠償金2億両(テール)の支払い(当時約3億1000万円)
四、杭州・蘇州・重慶・沙市の開港

朝鮮が清国の「属国」であることを否定させた日本は、以後、朝鮮半島における影響力をのばしていくこととなります。またこの条約により日本はアジアで唯一の植民地保有国となりました。2億両の賠償金は当時の日本の国家予算以上であり、以後の日本の経済発展に大きく役立ちました。

三国干渉

下関条約締結から三日後の4月20日、駐日ドイツ公使が外務省を訪ねて来ました。陸奥宗光外相も林董外務次官も留守であったため、小村寿太郎が応対しましたが、至急、外相に相談したいことがあるからとだけ言い残して、去りました。

そして4月23日、ドイツ・ロシア・フランス三国の公使が外務省を訪れ外務次官林董に面会。遼東半島の返還要求をしました。いわゆる「三国干渉」です。

翌24日、広島で明治天皇臨席のもと、御前会議が開かれました。参加者は伊藤博文、山県有朋、西郷従道でした。

三国干渉に対して、3つの案が検討されました。

1 拒否する
2 列国会議に判断をゆだねる
3 要求にしたがい遼東半島を放棄する

の三案が検討され、結局、第二案「列国会議に判断をゆだねる」に決まりました。

25日、伊藤博文は兵庫県舞子で療養中の陸奥宗光を訪れ、列国会議開催の旨を伝えました。陸奥が言うことに、

「問題を国際化すれば、さらなる干渉を受ける恐れがある」

「虻も蜂も捕獲しえざる愚を招く」

と説きました。

つまり、欲張ると他も失うことにもなるから、遼東半島は黙って手放すしかないと。

5月5日、干渉受諾、遼東半島放棄を通知しました。11月8日、遼東半島還付条約に調印して、かわりに3000万両(4500万円)を得ました。

「せっかく手に入れた遼東半島を!」
「憎きロシアめ!」

日本国民の落胆と怒りはたいへんなものでした。

当時、従軍記者として遼東半島の旅順にいた徳富蘇峰は、しるします。

帰って見れば、出発当時の形勢とは打って変わり、あたかも火の消えたる状態で、これは何事であるかと聞けば、いよいよ遼東還付であるという事にて、予は実に涙さえも出ない程口惜しく覚えた。予は露日亜や仏蘭西が憎くは無かった。彼等の干渉に腰を折った、吾が外交当局者が憎かった。一口にいえば、伊藤公及び伊藤内閣が憎かった。

『蘇峰自伝』

1898年3月、ロシアが清国との間に結んだ旅順・大連咀嚼条約で、ロシアが当の遼東半島を手に入れるにおよび、日本国民のロシアに対する怒りは頂点に達します。

「臥薪嘗胆」を標語として、かならずロシアに報復せんの気を高めていきました。

次回は「義和団事変」について語ります。

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元寇3年(1333)5月8日、足利高氏によって六波羅探題は陥落した。翌9日、上野国新田庄(群馬県新田郡新田町)で新田義貞が兵を挙げる。

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モンゴル襲来・元寇とも。モンゴル・高麗による日本侵攻。文永11年(1274)「文永の役」と弘安4年(1281)「弘安の役」の二回あった。執権北条時宗のもと、鎌倉の御家人たちは未曾有の国難にいかに立ち向かったのか?

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解説:左大臣光永

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