日清戦争(一)条約改正への遠い道のり

おはようございます。左大臣光永です。

土曜日の朝、さわやかにお過ごしでしょうか?

今朝、気づいたんですが、私の家のまわりにはゴミ収集所というものが、無いんですよ。各家庭の門前にゴミを出すんです。ゴミ屋さんは一件一件こまかにゴミを収集しているんですよ。ご苦労なことです。うちはマンションなので、マンション入り口にゴミ収集所があるため、今まで気づきませんでした。どういった経緯でこうなったのか、気になります。

本日から四回の予定で、「日清戦争」について語ります。

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日清戦争。明治27年(1894)-同28年(1895)主に朝鮮の支配をめぐって、日本と清国との間で戦われた戦争。日本軍は各地で連戦連勝し、下関でむすばれた日清講和条約で台湾・遼東半島・澎湖諸島の割譲、賠償金2億テール等を清国に認めさせました。しかし直後に、ドイツ・ロシア・フランスからの三国干渉を受け、遼東半島を、放棄することになりました。

本日は第一回「条約改正への遠い道のり」です。

第二次伊藤博文内閣

明治25年(1892)8月8日、第二次伊藤博文内閣が成立しました。首相伊藤博文以下、司法相山県有朋、内相井上馨、逓信相黒田清隆、陸相大山巌、外相陸奥宗光という、いわゆる「黒幕総揃(そうぞろい)」の内閣でした。


伊藤博文像(萩市)

これだけ豪華なメンバーを集めたのは、

強力な内閣のもと、不平等条約の改正という国家的課題を一気に解決してしまおうという、伊藤博文の覚悟のあらわれでした。

幕末の「不平等条約」

不平等条約とは、どういうことか?

嘉永6年(1853)6月、ペリー率いるアメリカ艦隊が来航し、開国を求めました。翌安政元年(1854)3月、日米和親条約が締結されました。日本に寄港するアメリカ船に食料・燃料を提供することと、漂流民の救助と保護などを定めていました。

安政5年(1858)6月、日米修好通商条約が締結され、日本は本格的に「開国」しました。神奈川、長崎、函館、新潟、兵庫の開港と自由貿易が定められ、領事裁判権を認めること、関税自主権が日本側にないことが決まりました。

領事裁判権とは外国人が日本国内で犯罪を犯した場合、その国の領事が裁き、日本側が裁けないこと。

関税自主権とは関税を自主的に決められる権利のことです。領事裁判権を認めること、関税自主権がないこと。このふたつが「不平等条約」と言われるゆえんです。

ただし、当時の日本には西洋的な裁判制度はなく、幕府も外国に領事裁判権を行使してもらうのは好都合と考えました。また外国としても、近代化の進んでいない日本に裁判を任せるわけにはいきませんでした。

また関税自主権がないといっても、20%という高い関税率が約束されていました。

なので当初は、言うほど「不平等」であったわけではありません。

しかし明治維新を経て「領事裁判権」「関税自主権がないこと」は「不平等条約」と位置づけられ、これらの撤廃が外交上の中心課題となっていきます。

つづいて日本は同様の条約をイギリス、フランス、オランダ、ロシアとも締結しました。

慶應元年(1864)長州藩は英米仏蘭四国連合艦隊を砲撃して、負けました。負けてその賠償金を要求されました。

しかし長州は賠償金の支払いを延期しました。幕府はその代償として、関税を5%引き下げる要求をのまされました。長州一国の暴走で、ひどいことになりました。以後、日本は貿易赤字に苦しむことになります。

条約改正への動き

幕末の動乱を経て、明治新政府が成立しました。

しかしなお世情は安定せず、明治7年(1874)佐賀の乱、明治9年(1876)神風連の乱、秋月の乱を経て、明治10年(1877)西南戦争まで、いわゆる「不平士族の反乱」が相次ぎました。

板垣退助、大隈重信らは野に下り、国会開設、憲法制定をめざして自由民権運動を進めました。政府はこれを弾圧するも、運動は大きくなる一方でした。

明治18年(1885)内閣制に移行し、明治22年(1889)大日本帝国憲法が発布され、翌明治23年(1890)第一回帝国議会が開催されました。

この間、日本は不平等条約解消に向けて、あがき続けていました。

明治4年(1871)から明治6年(1873)まで、岩倉米欧使節団が派遣されたのは、条約改正に向けて欧米の意向を確かめることが目的のひとつでした。

第一次伊藤博文内閣のもと、外相井上馨(いのうえ かおる)は、外国人に日本国内の居住を許す(内地雑居)かわりに領事裁判権を撤廃するという改正案を出しました。

しかし、そのかわり、外国にならった法典を編纂することと、外国人が被告となる裁判では外国人の裁判官を起用するという条件がついていました。

これには国内で反発が高まります。

また井上は条約改正のために欧化政策を取りました。風俗や習慣を西欧化して、条約改正をうまく運ぼうとしました。明治16年(1883)東京日比谷に建てられた鹿鳴館では、夜毎、西洋風の舞踏会が開かれました。

これにも国内で反発が高まります。

そんな中、

明治19年(1886)10月24日、ノルマントン号事件が起こります。紀州沖でイギリスの船が座礁沈没し、イギリス人は全員脱出し、日本人船員は全員が溺死した事件です。イギリス領事館の裁判で船長が無罪になりました。

なんだそりゃ!
外国にやられ放題じゃないか!

この事件以後、不平等条約は撤廃せねばならぬ。それも条件つきではダメだ。完全撤廃だという声がいよいよ高まっていきました。

明治20年(1887)井上馨外相は辞職に追い込まれました。

つづく大隈重信外相、青木周蔵外相も、条約改正に向けて努力しました。

しかし大隈重信は妥協した改正案に反対する暴漢に襲われて傷を負い、条約発効まで到りませんでした。

青木周蔵は交渉を進めている時、明治24年(1891)滋賀県大津に来遊中のロシア皇太子が警備に当たっていた巡査に襲われる「大津事件」がおこり、交渉は頓挫しました。

このように、条約改正が難航する中、松方正義首相は選挙に対する妨害工作を追求されて辞任し、かわって、

明治25年(1892)8月8日、第二次伊藤博文内閣が成立したのでした。

陸奥宗光

陸奥宗光は、伊藤博文が内閣を組織すると、みずから名乗り出て、外相として内閣に加わりました。

陸奥宗光(むつ むねみつ)。

切れ者ゆえに「剃刀(カミソリ)大臣」の異名をとりました。


陸奥宗光像(和歌山市)

天保15年(1844)紀州藩士・伊達宗広の子として生まれました。父伊達宗広は紀州藩の財政をになう人物でしたが、陸奥が子供の頃、失脚し、一家は不遇でした。幕末に勝海舟の教えを受け、坂本龍馬のもと、海援隊で働きました。

維新後は、外交官や元老院議官として辣腕をふるいました。しかし薩長が幅をきかせる中、じゅうぶんな活躍の場を得られないことに、陸奥は不満だったようです。

あげく、明治10年(1877)西南戦争で政府転覆運動に関与し、4年以上の禁獄を喰らいました。

釈放後、イギリスやオーストリアに2年半学び、帰国後は政界に復帰。外務省に出仕し、駐米公司となり、明治23年(1890)第一次山県有朋内閣で、農商相に起用されました。

いったんは反逆者となったにも関わらず、陸奥が政界に復帰できたのは、ひとえに陸奥の才能を惜しむ伊藤博文の引き立てでした

陸奥は伊藤への恩を忘れず、明治25年(1892)伊藤が内閣を組織すると、みずから名乗り出て、加わりました。

小村寿太郎

そして陸奥宗光がもっとも重く用いた外交官が、小村寿太郎(こむら じゅたろう)です。

小村寿太郎。

安政2年(1855)日向国飫肥(おび)郡(宮崎県日南市)の下級藩士小村筧の長男として生まれました。


小村寿太郎生家(宮崎県日南市)


小村寿太郎生家(宮崎県日南市)

少年時代、藩校の振徳堂(しんとくどう)に通いました。口数は少ないものの、いつも読書にはげみ、成績は優秀でした。藩校のほか私塾にも通い、中国の四書(論語・大学・孟子・中庸)を学びました。

こうして培われた記憶力は寿太郎が外交官になってから大いに活かされました。寿太郎がメモを取っているのを見たことが無いという逸話が残っています。

大学南校(在学中に開成学校→東京開成学校と改称)を経て、明治8年(1875)、第一回文部省留学生となりアメリカのハーバード大学で学び明治13年(1880)帰国。はじめ司法省に、ついで外務省に入り、語学の能力を買われて8年間、翻訳局長をつとめました。しかし。

翻訳局長は地味で、陽の当たらないポストでした。しかも翻訳局長時代の小村は、おそろしく貧乏でした。

親の借金のためです。

父筧は飫肥郡の商社の社長をやっていましたが、しだいに業績が悪化し、ついに倒産しました。

寿太郎の家にも職場にも借金取りが押しかけ、家具といっては長火鉢と座布団が二枚、それと動かない時計だけでした。職場には人力車も電車も使わず、いつも徒歩で通っていました。傘もないので、雨がふるとずぶ濡れでした。

あまりの貧乏っぷりに周囲が心配すると、「苦しいのは通り越して、平気です」と答えたといいます。

そんな小村でしたが、やがて陸奥宗光外相に見いだされ、外交官としての手腕をいかんなく発揮していくこととなります。

清国への赴任

明治26年(1893)、小村寿太郎はあらたに清国公使参事官として、清国への赴任を命じられました。小村にとってはじめての外国勤務でした。38歳でした。

「アメリカ通の君には清国への赴任は不本意だろうが、しばらく北京で遊んでいてくれ。そのうち、君が得意な方面に行けるよう、計らうから」

陸奥がそう言うと小村は、

「私は欧米についてはよく知っていますが、清国のことはいまだ知らず、すべてが不可解です。私は大いに清国のことを研究してこようと思っています」

そう言ってこころよく引き受けました。

辞令が下ったのが明治26年(1893)10月10日。さっそく準備をして、10月23日、東京を発ち、郷里の宮崎に立ち寄ってから、上海を経て、11月20日、北京に着きました。以後、駐清臨時代理公司および一等書記官としての、小村の活躍が始まります。

当初、清国勤務はヒマでした。

日清関係は安定しており、差し迫った問題はありませんでした。小村はヒマを活かして、勉強しました。なにしろ清国のことは右も左もわからない。そこで清国について書かれた西洋の書物を片っ端から取り寄せて読みました。ここでも小村の抜群の語学力が活かされました。

ところが、小村の赴任半年後、事態が一変します。

日清戦争が勃発したのです。

次回「日清戦争(二)甲午農民戦争(東学党の乱)」に続きます。

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解説:左大臣光永

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