日清戦争(三)開戦

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こんにちは。左大臣光永です。

先日、賤ヶ岳に登ってきました。天正11年(1583)「賤ヶ岳の合戦」で、羽柴秀吉と柴田勝家が戦った時、秀吉が本陣を置いた山です。よく晴れた日で、山頂から、余呉湖と琵琶湖が見渡せました。琵琶湖にうかぶ竹生島もよく見えました。

ボランティアの方が、賤ヶ岳合戦のもようを解説してくれました。あの山の向こうの越前から、柴田軍が攻めてきたのだと。

思いました。こんな山々が連なるところで、何万人も率いて戦争する。たいへんなことだなと。一人、二人の人間を使うのさえ大変なのに!羽柴も、柴田も、たいしたもんだなと実感しました。

四回の予定で、「日清戦争」について語っております。

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https://roudokus.com/mp3/Meiji_Nisshin3.mp3

前回は、朝鮮で勃発した「甲午農民戦争(東学党の乱)」と、それにともなう日清両国の朝鮮出兵、その前後の日清間の交渉について語りました。

本日は第三回「開戦」です。

第一回「条約改正への遠い道のり」
https://history.kaisetsuvoice.com/Meiji_Nisshin1.html

第ニ回「甲午農民戦争(東学党の乱)」
https://history.kaisetsuvoice.com/Meiji_Nisshin2.html

条約改正

東アジアの情勢が混沌しているちょうどその頃、

ロンドンでは駐英公使兼駐独行使・青木周蔵が、イギリスとの条約改正交渉を進めていました。

日本国内での世論(条件なしの対等条約しかないという声)と、列強の思惑とをかんがみ、青木はこの時点で最良の落とし所を模索しました。

1894年(明治27)7月16日、日英通商航海条約が調印され(日本側青木公使・イギリス側キンバレー外相)、8月25日、東京で批准書が交換されました。

ここに領事裁判権は撤廃され、関税自主権は完全には得られなかったものの、すべての調印国の同意があれば、関税率を変更できると定められました。ただし新しい条約が発効されるのは5年後の1899年(明治32)のこととされました。

キンバレー外相は調印後、

「この条約は、日本が清国の大軍を撤退させたことよりすぐれたことであろう」

といって笑ったといいます。

その後、他の諸外国とも同様の条約をむすびました。安政5年(1858)以来の悲願であった、不平等条約改正が、いちおう達成されたわけです。

条約の発効開始が遅れること、期限が定められていること、不十分な点もあります。関税自主権の完全回復は、12年後の桂太郎首相・小村寿太郎外相まで待たねばなりませんでした。

平時であれば民党や国民から批判の声が上がりそうな結果でした。しかし、すでに日本は戦時下に入っていました。民党も国民も戦争に目を取られ、条約改正のことは、あまり騒ぎませんでした。

ここに到りイギリスはじめ諸外国が条約改正を認めたのは、なぜか?

ひとつは日本が近代化に向けて努力していること(憲法制定・議会開設など)が欧米から見てプラス評価になったこと。

もうひとつはイギリスは東アジアにロシアが進出しているのを見て危機感を抱き、日本を軍事上のパートナーと期待したことが挙げられます。

つづいて11月に日米通商航海条約が調印され、12月にイタリア、翌明治28年6月にロシア、明治29年4月にドイツ、8月にフランス、明治30年2月にオーストリアとの間に新条約が調印されました。

日清開戦へ向けて

条約改正なった以上は、これまでのように列強の目を気にする必要はなくなりました。以後、陸奥外相は遠慮なく、開戦に向けて突き進んでいきます。

明治27(1894)7月19日、大本営は派兵中の陸海軍に対し、清の陸海軍と遭遇すれば戦闘状態に入れと指令しました。しかしこの時点でも明治天皇と伊藤博文は清との講和の可能性をさぐっていました。

明治天皇の不信感

明治天皇は戦争にむけてつき進む陸奥宗光外相に対して、不信感を抱いておられました。

大国清と戦って勝てるのか、不安であり、できるなら戦争を避けたいとのお考えでした。対立や分裂をあおって利権拡大をはかる陸奥のやり方を信用されていませんでした。まして陸奥には西南戦争の時政府に反逆した前科があります。

ついに開戦となった時は「今回の戦争は朕素より不本意なり(『明治天皇紀』)」とまで言われました。

そこで、陸奥宗光は、明治天皇には日清開戦についてなるべく説明せず、情報を与えないという消極策で、開戦までこぎつきました。ペテンといえばペテンです。

しかし実際に開戦してみると勝ちまくったため、明治天皇も満足され、陸奥への不信感などは吹き飛びました。

朝鮮王宮の武力制圧

7月20日午後、大鳥公使は朝鮮政府に対し、7月22日を期限として二通の照会を送ります。

・清国政府に対して撤兵を要求せよ
・清朝間の条約規則を廃止せよ

いずれも朝鮮が聞き入れるとは思っていません。「開戦理由をさがせ」という陸奥宗光外相の指示に従ったものでした。陸奥は交渉が決裂すること前提で、駐清行使・大鳥圭介に打電します。

・清との衝突は不可避である。朝鮮国王と政府を味方につけよ

と。

7月22日夜、朝鮮政府の回答が日本公使館に届きます。

・改革は朝鮮が自主的に行う
・乱はおさまったので日清両国は撤兵せよ

つまり、拒絶です。

これこそ日本側が待っていた答えでした。

7月23日午前0時30分。大鳥公使より大島旅団長宛に、

「計画通り実行せよ」

と電報が届きます。

7月23日午前2時、混成第九旅団は漢城(ハンソン)南の郊外龍山(ヨンサン)から出発し漢城に向かいました。午前5時頃、国王のいる景福宮(キョンボックン・けいふくきゅう)に侵入。3時間あまりにわたる銃撃戦のすえ、国王高宗(コジョン)を捕らえました。

朝鮮兵77名が死傷し、日本兵は1名が死亡したと記録されます。

そして隠居中であった高宗国王の父で、閔(ミン)氏政権と対立していた大院君(テウォングン)を担ぎ出して政府首脳とし、7月25日、日本にあてた委任状を書かせます。

「清国軍を朝鮮から追い出すために、日本からの援助を乞う」と。

ここに日本は清国に対して武力行使を行う大義名分を得ました。

豊島沖海戦

7月25日早朝、偵察のため先行していた連合艦隊第一遊撃隊の俊足巡洋艦、吉野・秋津洲・浪速が、牙山(アサン)湾豊島(プンド・ほうとう)沖で清国の巡洋艦、済遠(せいえん)・広乙(こうおつ)と遭遇し、戦闘状態に入りました。

豊島(ほうとう)沖海戦です。

日本側の史料には清国の済遠が最初に発砲したとあります。しかしすでに大本営から先制攻撃の指示が出ているので、日本側から発砲したのが自然です。イギリス・ロシアの手前、最初に撃ったのは清国ですと、記録を改ざんした可能性があります。

戦闘の末、済遠は逃亡をはかり、広乙は座礁しました。さらに砲艦操江(そうこう)に援護された英国船籍「高陞(こうしょう)号」があらわれます。操江は日本側の降伏勧告に従って降伏しました。高陞は降伏を拒んだため日本の「浪速」が撃沈して、イギリス人高級船員3名のみを救出しました。

日本海軍が宣戦布告以前に攻撃したこと、英国船籍「高陞号」を撃沈したことが、国際問題になります。しかし後日、日本海軍の英国船籍撃沈は戦時における敵対行動であり、国際法上問題がないという論文が英国の新聞で発表され、批判の声はしずまりました。

宣戦布告

同時に日本軍は、陸上での清軍への攻撃も開始しました。

7月29日、日本軍は成歓(ソンファン)と牙山(アサン)で清国軍に圧勝。

7月31日、日本政府は日清が戦争状態に入ったことを列強に通知し、8月1日付で清国政府に宣戦布告をしました。

『時事日報』の言

福沢諭吉が主催する新聞『時事日報』は、7月29日の社説で、「日清の戦争は文野(文明と野蛮)の戦いである」と題して、

幾千の清兵は何れも無辜(むこ)の人民にしてこれを鏖(みなごろし)にするは憐れむべきが如くなれども、世界の進歩のためにその妨害物を排除せんとするに多少の殺風景を演ずるは到底免れざるの数(すう)なれば、彼等も不幸にして清国の如き腐敗政府の下に生れたるその運命の拙きを自ら諦むるの外なかるべし。

このように日清戦争は多くの日本国民に「文明国による野蛮国の討伐」と解釈されていました。

戦後の長きにわたる自虐史観の反動で、最近は戦前の日本の行いはすべて正義であったとするネトウヨ史観が幅をきかせています。youtubeなどはそんな動画ばかりです。

まあyoutubeは論外としても、市販されている書籍ですら、「日清戦争は欧米列強から朝鮮の独立を守るための義戦であった」などと堂々と書いているものがあり、呆れ果てます。

日清戦争が「欧米列強から朝鮮の独立を守るための義戦」などではなかったことは、このように一つ一つの史料を丁寧に読み解いていけば、子供の目にも明らかです。日本は日本の国益のために、あえて戦争をふっかけたのです。

勝利につぐ勝利

開戦前、大国清を相手に勝てるのか?懸念がありました。

しかしいざ開戦すると、緒戦の豊島沖海戦(7月25日)、成歓(ソンファン)(7月29日)、平壌(ピョンヤン)(9月14-16日)、黄海海戦(9月17日)(中国側の呼称は大東溝海戦)と、日本軍は勝ちに勝ちを重ねました。

日本軍は装備にも訓練にもすぐれていたのに対し、清国軍は装備も古く指揮系統も乱れていたことが大きな理由でした。

次回「日清戦争(四)下関条約と三国干渉」に続きます。

youtubeで配信中

NEW! 新田義貞の挙兵と、鎌倉幕府の滅亡
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元寇3年(1333)5月8日、足利高氏によって六波羅探題は陥落した。翌9日、上野国新田庄(群馬県新田郡新田町)で新田義貞が兵を挙げる。

蒙古襲来(40分)
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モンゴル襲来・元寇とも。モンゴル・高麗による日本侵攻。文永11年(1274)「文永の役」と弘安4年(1281)「弘安の役」の二回あった。執権北条時宗のもと、鎌倉の御家人たちは未曾有の国難にいかに立ち向かったのか?

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解説:左大臣光永

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