日清戦争(二)甲午農民戦争(東学党の乱)

こんにちは。左大臣光永です。

先日、夢の中に足利義満が出てきて、「褒美をとらす」というので、「どがんでんよかです」と、なぜか熊本弁で言ったら、「どかんでんよかとはどがんこつか!」と怒られました。場所は金閣寺でした。怒った足利義満は、迫力ありました。

四回の予定で、「日清戦争」について語っております。

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日清戦争。明治27年(1894)-同28年(1895)主に朝鮮の支配をめぐって、日本と清国との間で戦われた戦争。日本軍は各地で連戦連勝し、下関でむすばれた日清講和条約で台湾・遼東半島・澎湖諸島の割譲、賠償金2億テール等を清国に認めさせました。しかし直後に、ドイツ・ロシア・フランスからの三国干渉を受け、遼東半島を、放棄することになりました。

本日は第二回「甲午農民戦争(東学党の乱)」です。

前回配信 第一回「条約改正への遠い道のり」はこちら
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甲午農民戦争

明治26年(1893)10月、小村寿太郎は清国公使参事官として清国に赴任しました。

小村が赴任した頃、日清関係は安定していました。

かつて朝鮮で1882年に壬午(じんご)事変、1884年に甲申(こうしん)事変という二度の政変が起こり、いずれも日清両国が鎮圧のため出兵しました。

甲申事変の時は清軍と日本軍の間で戦闘が行われました。朝鮮はいつも日清間の争いの種でした。

しかし甲申事変の翌年1885年に結ばれた天津条約で、今後朝鮮で騒乱が起こって派兵する場合、事前に通知しあい、平定後は即時撤兵することなどが決まりました。

これが抑止力となり、日清間の緊張は鎮まりました。

いわゆる「天津条約体制」という安定した状態が10年ほど続いていました。

ところが、小村の赴任半年後、事態が一変します。

日清戦争の勃発です。

きっかけは朝鮮で起こった「甲午農民戦争(東学党の乱・東学農民運動)」でした。

朝鮮は1876年、日本と「日朝修好条規」をむすんで開国して以来、日本を介してイギリス製の綿製品を輸入し、日本へは金や米殻・大豆などを輸出していました。このため朝鮮国内では米殻が不足し、米価が高騰し、下層民の生活に深刻な打撃を与えていました。

朝鮮政府は彼等を救済するになんら策を持たず、各地で反乱が多発していました。

この頃朝鮮の民衆にもっとも影響を持っていたのが東学という宗教です。東学とは儒教・仏教・民間信仰を取り入れた宗教でキリスト教の「西学」に対して「東学」と称しました。

「人乃(すなわち)天」「天人合一」として人間尊重と平等性を説きました。

1894年(明治27)2月、朝鮮半島西南部の全羅道(チョルラド)の穀倉地帯古阜(コブ)で、東学党の指導者全琫準(チョンボンジュン)が、地方官の厳しい取り立てに対して決起しました。

決起はすぐにおさまりますが、4月末に再決起し、各地の農民も呼応して6、7000人の農民軍が組織され、5月末には全羅道全域を陥落させました。

これを「甲午農民戦争(東学党の乱・東学農民運動)」といいます。

(彼らの目的は、首都漢城(ハンソン)にのぼり、閔氏政権を打倒し、国王太宗(コジョン)に窮状を訴えることでした。この頃、朝鮮国王は26代高宗ですが、実際には王妃である閔氏の一族が国政を牛耳っていました。だから閔氏政権を打倒し、国王に直接、よい政治を行ってもらおうとしたようです)

朝鮮から清への派兵依頼

5月31日、朝鮮政府(閔氏政権)は、清国に反乱鎮圧のための派兵を要請することを決議しました。

(反対意見もありましたが、東学党が4月27日に全州(チョンジュ)を占領すると、朝鮮政府は清国への派兵依頼を決意しました。全州は朝鮮王李氏の発祥の地と信じられていたためです)

同日、朝鮮に駐在していた李鴻章の代理人・袁世凱に派兵要請の旨が伝えられました。

(東学党の乱は背後に袁世凱が手を引いており、清国が朝鮮に進出する口実をつくるため、あえて反乱を起こさせたとも)

日本の出兵

同日午後、駐韓代理行使・杉村濬(ふかし)は、日本に機密電文を送ります。

「全州(チョンジュ)が昨日、反乱軍の手に落ちた。朝鮮政府は支那に援助を求めたと袁世凱が語った」

という内容でした。

日清韓の運命を変えたこの電報は、翌6月2日には日本に届いたと思われます。

同日(6月2日)、閣議が開かれ、昨年末につづき二度目となる帝国議会の解散と、朝鮮への派兵が決議されました。

同日、伊藤博文は参内して、朝鮮出兵・議会解散を明治天皇に上奏し、許可されます。

ただちに明治天皇から大山巌陸相らに勅語が下されました。

「朝鮮に居留するわが国民保護のため、出兵する」と。

6月3日、参謀本部は8035人からなる「混成一個旅団」を組織しました。「居留民保護」という目的に対しては、大きすぎる兵力でした。

6月4日より、順次出兵開始。5日、参謀本部内に「大本営」が設置され、参謀総長有栖川宮熾仁(ありすがわのみや たるひと)親王が総責任者となりました。

この日から日本は「戦時体制」に入りました(大本営は後に広島に進出)。

日清の交渉

6月7日、清国政府より1500の兵力を牙山(アサン)に上陸させたと、日本に通告がとどきます。

(※日清両国には1885年(明治18)に交わした天津条約があり、朝鮮で有事の場合、日本と清国のいずれかが派兵する場合は、事前通告をすることが定められていた)

すぐさま、陸奥宗光外相は清国公使館に指示を出し、小村を動かします。小村は、公使館を警護するため、日本も朝鮮に派兵する旨、清国政府に通知しました。

これに対し、清国政府は2つの点から反論してきました。

・清国は朝鮮が清国の属国であるから派兵するのだ。日本の場合とは事情が異なる
・自国民保護が目的なら、兵力は少なくしろ

6月12日、小村は陸奥宗光の意向をもとに、清国政府に反論します。

・日本は朝鮮が清国の属国と認めたことは一度もない
・日本の派兵は天津条約に基づくものであり、派兵する軍隊の数は、日本政府が決める。
・仮に言葉の通じない外国の軍隊とはちあわせても、日本の軍隊は規律があるので、問題は起きない

ここに日清間の緊張が一気に高まりました。

「全州和約」はあったか?

この間、朝鮮政府と東学党の間で和平交渉が進んでいました。6月11日、東学党は27箇条の嘆願を朝鮮国王に上奏することを条件に、全州(チョンジュ)から徹底したとされます。

(東学党が和約に応じた理由は、農繁期が近づき農民軍の士気が低下したこと。日清両軍の朝鮮派兵を知り、農民軍も政府軍も危機感を高めたせいとされます)

ただしこの「全州和約」には一次資料が発見されていないため、ほんとうに朝鮮政府と東学党の間で和約が成立したのか、不明です。

日清開戦に向けて

6月12日午後、日本軍は仁川(インチョン)に上陸しました。「全州和約」がもし事実なら、日本軍が上陸した時点で、すでに農民反乱は終わっていたことになります。

駐韓公使大鳥圭介からは、6月11日以降、漢城(ハンソン・現ソウル)は平穏である。これ以上の派兵は見合わせよ。でなければ欧米諸国からの疑いを招くと、くりかえし要請が届いていました。清国も、日本に朝鮮からの撤退を求めていました。

しかし。

6月13日、陸奥宗光外相は漢城の日本公使館に打電しました。

「もし何事をも為さず又は何処へも行かずして終に同処より空しく帰国するに至らば、甚だ不体裁…」

陸奥宗光外相の考えでは、ここで撤退すれば、大規模な派兵をしたコストが回収できない。しかも朝鮮における清国の優位性は変わらない。なんとしても漢城に入京し、朝鮮における日本の利権を確保すべきだ。

そこで陸奥は大鳥に、漢城の状況がはなはだ悪く、まだ戦乱状態が続いてるという(ウソの)報告書を作らせ、軍隊派遣の口実にする案まで出しています(『日本外交文書』「外務省記録」)。

この時点で、当初の出兵目的であった「公使館と在留日本人の保護(閣議決定文書)」は、完全に吹っ飛んでいることに注目してください。

6月15日の閣議で、今後の方針が決まります。

・朝鮮の騒乱を日清共同で改良するため、両国から常設委員会を置き、指導する
・清国が拒否すれば、日本単独で指導を行う

というものでした。

6月21日、駐日清公使汪鳳藻(おうほうそう)が清国政府の回答を伝えます。

・反乱はすでに鎮圧されており共同鎮圧の必要なし
・内政改革は朝鮮自身が行うべきである。日本は朝鮮独立論をとっているのに朝鮮の内政に関与するのは矛盾している
・天津条約第三款(朝鮮での騒乱平定後の即時撤兵)に従い日本は撤兵すべき

というものでした。

どう逆立ちして見ても、清国側の主張は筋が通っています。

が、日本側はもともと拒絶されることを前提に難癖をふっかけています。

翌22日の御前会議で、

・内政改革の協定実現までは撤兵しない
・混成旅団の残りを派兵する

ことが決まり、戦争に向けて大きく舵が切られました。同日、陸奥外相は駐韓行使・大鳥圭介に、仁川駐在中の日本軍を漢城に進めるよう打電しました。

6月23日朝、駐日清国公使・汪鳳藻(おうほうそう)に対して、清国側の主張を拒否する旨、送付されました。

これを第一次絶交書といいます。

6月24日、第二次輸送部隊が広島の宇品(うじな)から出帆。27日、仁川に着き、29日、漢城郊外の龍山(ヨンサン)に到着しました。

ロシア・イギリスの介入

ここに到り、ロシアとイギリスが介入してきます。日本と清は朝鮮から同時撤退せよと。

ロシアの介入は断りましたが、イギリスからの介入は断れませんでした。ここで断れば、せっかく進めていた不平等条約改正に向けての交渉が、パーになってしまいます。日本は泣く泣く、イギリスの介入に従うことにしました。

ところが予想外なことに、清国政府はイギリスの調停案を断りました。

7月9日、駐清公使小村寿太郎に、日本が撤兵してからでないと清は撤兵しないと回答しました。日本にとって、これこそ好都合でした。

7月11日の閣議で、日清交渉を打ち切り、ふたたび開戦準備をすることが決議されます。翌12日、清国に対する「第二次絶交書」の送付が決定しました。その内容は、

「清国政府はイギリスの調停を拒否した。今後起こる事態について、日本政府は責任を持たない」

この間、小村寿太郎は欧米、特に条約改正をひかえたイギリスに気をつかいました。小村は各国公使の前で、いつものように泰然自若とふるまい、日本は戦争を望んでいないことをアピールし続けました。

次回「日清戦争(三)開戦」に続きます。

youtubeで配信中

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元寇3年(1333)5月8日、足利高氏によって六波羅探題は陥落した。翌9日、上野国新田庄(群馬県新田郡新田町)で新田義貞が兵を挙げる。

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モンゴル襲来・元寇とも。モンゴル・高麗による日本侵攻。文永11年(1274)「文永の役」と弘安4年(1281)「弘安の役」の二回あった。執権北条時宗のもと、鎌倉の御家人たちは未曾有の国難にいかに立ち向かったのか?

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解説:左大臣光永

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