義和団の乱

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こんにちは。左大臣光永です。

夢の中で面接を受けていて、面接官から「特技は何ですか?」ときかれたので「岐阜を守ることです」と答えました。「岐阜が毎日守られているのは私のおかげです」とも。しかもその時、頭の中にある岐阜は、近未来都市のような、遊園地のような、実際の岐阜とはかなりちがう岐阜でした。なぜ夢で岐阜にこだわっていたのか、我ながらわかりません。

本日は「義和団の乱(義和団事変・北清事変)」について語ります。

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義和団の乱。義和団事変、北清事変とも。1899年(明治32)-1900(明治33)に中国でおこった民衆反乱。日清戦争後、欧米列強による中国侵略が激化した。

これに対抗して1899年、山東省でおこった反キリスト教闘争が発端となり、義和拳という拳法と白蓮教という宗教をかかげる「義和団」が決起。北方諸省や満州にも飛び火した。

「扶清滅洋」を掲げ北京に入り、清国政府は義和団を容認する形で列強に宣戦布告するも、敗れ、義和団も鎮圧された。

義和団事変

1894年-95年の日清戦争に日本が勝利したことは、欧米列強にも衝撃でした。

これまで「眠れる獅子(sleeping lion)」として恐れられていた中国が、いざ戦ってみると、小国日本にすら敗れた。

ならば日本だけにいい思いをさせるわけにいかないと、欧米列強は「租借」と称して次々と中国の要地を手に入れていきます。

はじめに動いたのはドイツでした。1897年(明治30)ドイツ人神父が殺害されたことをきっかけに膠州湾(山東半島の南側)を占領し、翌98年3月、99年間の租借権をえました。

これをはじめとして、ロシアが旅順・大連を、イギリスが九龍半島と威海衛を、フランスが広州湾(広東省南部。ドイツの租借地「膠州湾」と音が同じなので注意)を租借しました。

それぞれ、鉄道敷設権や鉱山採掘権も獲得して、中国における自国の利権をのばしていました。

清国では、こうした欧米の動きへの反発がおこりました。

1899年、山東省でおこった反キリスト教闘争が発端となり、義和団(ぎわだん)よばれる武術集団が決起しました。

彼等は義和拳という拳法を使い、「扶清滅洋(ふしんめつよう)」のスローガンのもと、鉄道や電線を破壊し、外国人宣教師を殺害し、教会や病院に放火しました。義和団の乱は各地に広がりました。

西太后は義和団の乱を支持して、1900年6月21日、欧米列強に宣戦布告しました。

日本とロシアを中心とする八か国連合軍(日露英仏独墺米伊)が居留民保護と暴徒鎮圧のため、清国北部に出兵しました。

日本軍がもっとも多く8000人、ついでロシア軍4500人、イギリス軍3000人、アメリカ軍2500人、フランス軍800人が続きました。

7月14日、天津を攻略。8月14日、北京を占領。各国の公使館街を解放。

連合軍は北京で破壊や略奪を行いました。西太后は西安に逃げました。

追い詰められた清国政府は9月14日、義和団鎮圧令を出します。ほどなく義和団は鎮圧されますが、諸外国による中国植民地化の動きは義和団事変を機に、いよいよ露骨になってきます。

10月2日、ロシアは中国における利権拡大を目論見、満州全域を占領。さらに朝鮮への影響力を強めていきました。ドイツも、「義和団の残党狩り」と称して、清国北部に攻撃を加え続けました。

講和会議と北京議定書

10月15日、清国と列強との講和会議が始まりました。しかし各地で混乱が続いており、話はまとまりませんでした。

当初、日本の全権は西徳二郎(にし とくじろう)公使でした。しかし西は欧米列強に対して弱腰だったので陸軍はこれを嫌い、あらたな外交官をよこすよう本国に要請します。そうして呼び出されたのが小村寿太郎です。

小村は明治33年(1900)10月23日、辞令を受けて、1901年1月6日、北京につきました。

清国に、日露英仏独墺米伊の八カ国、それにベルギー・オランダ・スペインも加わり、計12カ国による大規模な国際会議でした。

会議は11ヶ月にわたって長期化しました。11カ国もの国々の要求を調整し、賠償を配分するのは困難な作業でした。

小村は清国と列強の間にあって熱心に交渉にあたりました。

痩せて小柄。堪えず駆け回って交渉する小村のことを、各国行使は「ねずみ公使」とあだ名しました。

1901年(明治34)9月7日、清国全権慶親王(けいしんのう)・李鴻章と、日本と欧米列強11カ国全権委任の間に「北京議定書」が調印されました。全12箇条からなりますが、とくに重要な点は2つです。

一、清国に賠償金4億500万両の支払を課すこと
配分率は、満州を占領したロシアと、公使を殺害されたドイツがもっとも多く4分の1。日本はアメリカと同じ7%。

ニ、北京に公使館区域を設け、北京周辺の警備には外国の軍隊が当たること
これに基づき日本が送った軍隊がのちに支那駐屯軍となり、1937年(昭和12)7月、盧溝橋事件で中国軍と衝突することになります。

これは諸外国による中国植民地化の第一歩でした。

出兵した各国軍隊のうち、日本軍はもっとも勇敢で、規律が取れていたとで、国際的評価を得ました。以後、日本の清国に対する権勢は高まっていきます。

次回「日英同盟」に続きます。

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解説:左大臣光永

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