光明皇后(八)大仏造営の詔
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区役所に住民票の写しを取りに行ったんですよ。そこで、ふと気づきました。職員が皆、ラフな服装をしていることに。Tシャツ、ジーンズ、スウェット、などです。ネクタイにYシャツ姿は、ぜんぜんいませんでした。自治体にもよるんでしょうが、京都は服装の決まりが、ゆるいみたいです。着流しに下駄はいて出勤しても許されそうな、自由な空気をかんじました。
全10回の予定で「光明皇后」について語っています。本日は第八回「大仏造営の詔」です。
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光明皇后(一)父と母
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光明皇后(七)藤原広嗣の乱と恭仁宮遷都
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光明皇后=光明子。父は藤原不比等(ふひと)。母は県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)。首皇子=後の聖武天皇に入内し、聖武天皇即位後、夫人(ぶにん)を経て、神亀6年(729)長屋王の変の後、皇后となる。
娘の孝謙天皇が即位すると宮中に「紫微中台(しびちゅうだい)」を設置して朝廷内の権力を掌握。仏教に篤く帰依し、国分寺・国分尼寺の造営、大仏造営をすすめ、施薬院(せやくいん)・悲田院(ひでんいん)を設けるなど社会事業にもつとめました。
前回は、天平12年(740)藤原広嗣の乱のさなかに聖武天皇が平城京を抜け出し、伊勢→美濃→近江と行幸したあげく、恭仁宮に遷都したところまで語りました。本日は第八回「大仏造営の詔」です。
紫香楽宮の造営
天平14年(742)2月、恭仁宮(くにのみや)の造営はまだ続いていましたが、
恭仁宮から東北へ30キロばかり、近江国甲賀(こうか)郡にのびる道路が作られました。8月、聖武天皇は「紫香楽(しがらき)村に離宮を作れ」と命令を出し、はじめて紫香楽宮(しがらきのみや)に行幸。以後、翌年の冬まで聖武天皇の紫香楽宮行幸は計4回におよびました。
紫香楽宮跡(滋賀県信楽 宮町遺跡)
その間、聖武天皇は恭仁宮の造営と同時進行で、紫香楽宮の造営を進めていきました。
五節の舞
天平15年(743)5月5日、恭仁宮の内裏で五節の舞が披露されました。聖武天皇・光明皇后が見守る中、群臣を前に、皇太子の阿倍内親王が五節の舞を舞いました。
そもそも五節の舞のはじまりを言えば、天武天皇が天下に「礼と楽の2つを並べるため」はじめたとされます。五節(1月1日、1月7日、1月16日、5月5日と新嘗祭の翌日)に行われるため五節の舞といいます。
天武天皇ゆかりの五節の舞を阿倍内親王が舞うということは、阿倍内親王が天武天皇の正当な後継者であることを天下にしめす意味がありました。
舞終わって、元正上皇が歌を詠みました。
そらみつ 大和の国は 神からし 尊くあるらし この舞見れば
(大和の国は神かがって尊くあるようだ。この舞を見ると。「そらみつ」は大和にかかる枕詞)
大仏造営の詔
天平15年(743)10月15日(16日)、聖武天皇は四回目の紫香楽宮行幸中、「大仏造営の詔」を出します。
「国中の銅を尽くして像を鋳造し、大きな山を削って仏殿を建て、広く仏法を広め、これを朕の智識(仏に導くための働き)としよう。…天下の富を持っているものは朕である。天下の権勢を持っているのも朕である。この富と権勢をもってすれば大仏を作ることはたやすい。しかし、それでは願いが成就するのは難しい。…一枝の草、一にぎりの土であっても助力したいものはこれをゆるす」
聖武天皇・光明皇后が大仏を造りたいと思い立ったのは、これに先がける3年前、天平12年(740)2月、難波宮に行幸した際、河内国知識寺の盧遮那仏を見て、影響を受けたせいとされます。
河内国知識寺は今は廃寺になっており、道端に石碑が立っているだけです。だから大仏といってもどんなものだったか不明です。近くの石(いわ)神社境内にあるのが、知識寺東塔跡の礎石と伝えられます。
わざわざ平城京から遠く不便な紫香楽に大仏造営を思い立ったのは、中国の竜門石窟の大仏にならったためと言われます。竜門石窟は唐の副都洛陽の郊外にあります。この竜門石窟にならって、都から近すぎず、遠すぎず、適当な距離(平城京からも恭仁からも一日で行ける)の紫香楽に、聖武天皇は目をつけました。
それにしても恭仁宮・紫香楽宮というふたつの宮を同時進行で造り、全国に国分寺・国分尼寺を建て、さらに大仏まで造るというのです。大変なことです。
10月16日、東海道・東山道・北陸道、三道の25カ国の今年の租庸調(税)をすべて紫香楽宮に集めるよう命令しました。いよいよ紫香楽宮で大仏造営にとりかかるための準備でした。
10月19日、聖武天皇は紫香楽宮に行幸。大仏を建立するため甲賀寺(こうかでら)の土地を開きました。またこの時、行基が弟子たちを率いて民衆に参加するよう呼びかけました。
甲賀寺跡(滋賀県信楽 内裏野地区)
12月26日、恭仁京の造営は停止されました。恭仁・紫香楽と同時進行では予算がかかりすぎたためでしょう。それで恭仁京の造営は停止して、以後は紫香楽の造営に集中しようということになったのでしょう。
ところが、話はこれで終わりません。
難波宮の造営
翌天平16年(744)閏正月1日、聖武天皇はまたもおかしなことを言い出します。
「恭仁と、難波と、どちらを都と定むべきか」
また遷都するというのです。役人たちの意見は難波・恭仁で割れました(恭仁 五位以上24人、六位以下157人、難波 五位以上23人、六位以下130人)。次に市に使いをやって市民に問いかけると、ほとんどの者が恭仁と答えました。
それでも聖武天皇は、難波へ遷都しました。
難波宮跡
難波宮は大化の改新のとき孝徳天皇が宮を置きました(難波長柄豊碕宮)。現在、大阪城の隣に残るのがその跡地です。しかし孝徳天皇が亡くなった後は放置されました。天武天皇が再建に乗り出しましたが、朱鳥元年(686)正月、火事で全焼し、ふたたび放置されていました。
聖武天皇は養老8年(724)即位早々、後輩していた難波宮の再建に着手していました。その再建した難波宮を、今度は正式な都とするというのです。
安積親王の死
この行幸に、安積親王も同行していましたが、道中、体調不良を訴えました。「脚の病」であったと『続日本紀』にはあります。
「よくよく気をつけよ。安積親王は恭仁宮にもどれ」
聖武天皇に命じられて、安積親王は「桜井頓宮(大阪府枚方市南部)」から恭仁宮にもどりましたが、2日後に亡くなりました。17歳でした(藤原仲麻呂による暗殺という説も)。
基王を失い、いままた安積親王を失った聖武天皇・光明皇后。もはや残された希望は皇太子の阿倍内親王一人となりました。
難波宮入り
天平16年(744)2月13日、聖武天皇は難波宮に入ります。2月26日、勅が発せられます。「これより難波宮を都とする。人民は難波宮・平城京・恭仁京の間を自由に行き来して構わない」と。
紫香楽宮へ遷都
さて聖武天皇は難波宮を都とする一方、同時進行で紫香楽宮の造営も続けていました。
天平16(744)11月13日、甲賀寺にはじめて盧遮那仏の体骨柱を立てて、聖武天皇みずからその縄を引きました。
ところが。
天平17(745)正月1日の記事に、驚くべきことが書いてあります。
「にわかに新京(紫香楽宮)に遷都」
なんと、昨年難波宮に遷都したばかりなのに、またも紫香楽宮に遷都したのです。もうわけがわからないですね…
紫香楽宮放棄
紫香楽宮への遷都にも、大仏造営にも、不満が高まっていました。紫香楽宮では周囲の山々で放火が相次ぎました。大仏なんてとんでもない。どんだけ国民をいじめるつもりだと、抗議のあらわれだったのでしょう。
また地震も相次ぎました。当時、社会不安や災害がふえるのは帝王の徳が低いせいだという思想がありました。人々の心はいよいよ動揺しました。
平城京にもどる
天平17年(745)5月2日、太政官(奈良の朝廷における最高意思決定機関)は役人たちに問います。「どこを都を置くのがよいか」皆が答えました。平城京がいいと。
それで紫香楽宮は廃止となり、平城京に戻ることになりました。聖武天皇は紫香楽宮を出ていったん恭仁宮に入り、5月11日、平城京に帰還しました。
藤原広嗣の乱のさなかに出発してから4年半ぶりの平城京帰還でした。聖武天皇の車が木津川にかかる和泉橋にさしかかった時、人民は橋の左側からはるかに聖武天皇の車を拝して「万歳」と叫びました。
木津川(泉川)
法華寺と海龍王寺
「是の日、平城(なら)に行幸したまひ、中宮院を御在所とす。旧皇后宮を宮寺とす。諸司の百官、各(おのおの)、本曹に帰る」(『続日本紀』)
中宮院は平城京の中心部、平城宮のそのまた中心部で、聖武天皇・光明皇后はそこに入ります。
大極殿は紫香楽に移されて無くなっていましたが、おいおい再建されていきます(第二次大極殿)。
平城宮 第二次大極殿跡
旧皇后宮を宮寺とするとあるのは、もとの皇后のすまっていた建物(元藤原不比等邸)を、宮寺に変えたというのです。紫香楽宮甲賀寺における大仏造営は挫折しました。しかし、大仏は紫香楽でなければいけない決まりはない。平城京にもどったなら、平城京で大仏をつくればよいのだ。その拠点としての、宮寺でした。
法華寺(=藤原不比等邸跡=皇后宮職跡)
この「宮寺」が、確認される史料では天平19年(747)までに、大和国国分尼寺「法華寺(ほっけじ)」とあらためられ、現在に至ります。本尊の十一面観音立像は、光明皇后の姿を模したものとされます(嵯峨天皇皇后嘉智子内親王(檀林皇后)という説も)。
そして法華寺の東北の隅には「隅寺(すみでら)」とよばれる海龍王寺(かいりゅうおうじ)があります。
海龍王寺
海龍王寺は飛鳥時代に毘沙門天をまつったお堂を、天平3年(731)光明皇后が初代住寺として遣唐使帰りの玄昉を招き、海龍王寺とあらためたと伝えられます。法華寺の鬼門を守るためと、遣唐使の航海安全を祈っての建立と伝えられます。
次回「大仏開眼」に続きます。
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