関東大震災

こんにちは。左大臣光永です。

庭に来るスズメやヒヨドリを毎日観察しています。面白いです。土日は明らかに数が少なく、来る時間帯もずれています。人間世界のスケジュールにあわせて、鳥たちにも一週間のサイクルがあるのだなと実感します。

本日は「関東大震災」について。

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関東大震災。1923年(大正12)9月1日、相模湾沖を震源として発生したマグニチュード7.9の地震とそれに伴う災害。震災後の混乱の中「朝鮮人が暴動を起こす」といったデマが流れ、朝鮮人や社会主義者が虐殺された。

背景

第一次世界大戦によって日本では軍需品の輸出がふえて、大戦景気が訪れました。

これにより日本は日露戦争以後の長い不況を脱することができました。しかし大戦が終わると反動で恐慌に陥ります。

1921年(大正10)、原敬首相が東京駅で暗殺され、後任の高橋是清内閣は半年で総辞職。

さらに後任の加藤友三郎は1923(大正12)8月24日病死し、8月28日、薩摩閥の山本権兵衛に組閣命令が下っていました。そんな折、

震災発生

1923年(大正12)9月1日土曜日、関東地方では昨夜からの雨も午前10時頃にはやみ、強い南風の吹く蒸し暑い日をむかえていました。

午前11時58分32秒、相模湾北西部で強い揺れが始まりました。

12秒後の11時58分44秒、中央気象台(現気象庁)と本郷の東京帝国大学地震学教室に設置された地震計の針が記録を開始しました。

が、激しい揺れのため、数秒で地震計の針は飛び散りました。

「関東大震災」の幕開けです。

40秒ほど揺れがつづいた後、おさまっかたと思うと、第二、第三の余震が襲いました。

地震の規模は最初の本心がM7.9、つづく2つの余震はM7.2、7.3と記録されます。

のべ死者数は内務省社会局の調査では9万1344人、重軽傷者5万2084人、行方不明者1万3275人、家屋全壊12万8200戸、半壊12万6200戸、焼失家屋44万7100戸と記録されます。

震源に近い神奈川県ではとくに被害が甚大で、小田原や平塚などでは全家屋の8、9割が倒壊しました。

東京

帝都東京の被害状況は、とくに詳しく伝わっています。

浅草の象徴であった通称「十二階」…凌雲閣が、八階から上が折れるように崩れ落ちました。

(十階までが煉瓦、十一、十二階は木造)

地震についで火事が襲いました。

東京市内15区だけでも130箇所から出火し、市街地の44%が焼失しました。

中でも下谷、浅草、本所、深川などの下町の出火が甚大でした。

炎はおりからの強風にあおられ、町から町へ広がり、火の帯となって下町全域をなめ尽くしていきました。

ちょうどお昼前に地震が起こったため、家庭や飲食店ででかまどや七輪で火を起こしていたところに地震が起きたので、

火を消す暇もなく、燃え広がりました。

学校の実験室や化学工場などで薬品が落ちて出火した例も多くありました。

本所区横網町(よこあみちょう)の被服廠跡地は陸軍省被服廠の跡地が東京市に払い下げられた2万数百坪の広大な空き地でした。

地震が起こると避難民が押し寄せよせました。

避難民ははじめおにぎりを食べるなど、のんびりしていました。しかし一時間ほどで人がどんどん増えていったところに、

周囲から火の粉が降りかかり、家財や荷物に火がつき、大混乱となりました。

炎によって上昇気流が発生して空気が薄くなっているところに周囲から熱風が吹き込んで、竜巻のように舞い上がりました。火災旋風です。

人も、荷物も、馬も、熱風で空に巻き上げられ、やがて地面に叩きつけられました。そこに炎が襲い、多くの人が焼け死にました。

この本所の被服廠跡地の火災旋風による焼死者は、4万4000人といわれ、関東大震災全体の被害者の4割をしめます。

現在、その跡地には都立横網町公園があり、関東大震災で亡くなった方を悼む慰霊堂があります。

江戸時代からの井戸は多くが衛生上の理由で埋められ、水道管は地震で破裂したことから、消火活動が行えなかったことも、火事の被害を大きくしました。

隅田川では両国橋と新大橋をのぞくすべての橋が焼け落ち、ある者はふみつぶされ、ある者は川に墜落し、多数の死者が出ました。

隅田川下流の永代橋では、橋の両側から避難民が押し寄せ、中央でひしめきあっているうちに、炎が両方から襲いかかったため、川に飛び込んで、多くの人が溺死しました。

関東一円

横浜市中心部は煉瓦や石造りの建物が多く、官庁や裁判所が倒壊しました。グランドホテルも倒壊し、200人のうち助かったのは8人でした。

横浜中華街では多くの在日中国人も圧死しました。

小田原では5000あまりの建物がすべて倒れ、各地で地割れがし、小田原城の石垣も崩落しました。

千葉の館山では家屋の99%が倒壊しました。

津波や土砂崩れの被害も甚大でした。

伊豆半島東岸から相模湾一帯、房総半島南端まで大津波が襲いました。

鎌倉や逗子では5-6メートルの津波が起こり、海に面した家屋がほとんど津波に呑まれました。

由比ヶ浜海水浴場にいた約100人と、江ノ島の弁天橋をわたっていた約50人が行方不明となりました。

円覚寺舎利殿などが崩れ、高徳院の大仏は前にせり出しながら、30センチほど沈下しました。

箱根や丹沢山地では土砂災害が甚大でした。

丹沢山地は緑で覆われていた山の表面が崩れおち、あちこちに白い地肌が露出する姿となりました。

国鉄東海道線、熱海線(現東海道線)、箱根登山鉄道は崩れ落ちた土砂で線路があちこち埋まったため、機能不全となりました。

小田原の南、熱海線の根府川(ねぶかわ)では巨大な山津波(岩屑(がんせつ)なだれ)が起こりました。

箱根外輪山の一角をなす大洞山(おおほらやま)が崩壊し、崩れた部分が白糸川(しらいとがわ)の谷を流れて、根府川の集落を、64戸、406人とともに呑み込みました。

白糸川にかかる根府川鉄橋は山津波の直撃を受けて、海に飛ばされました。

ちょうど上り列車が根府川鉄橋にさしかかったところで、運転士は揺れを感じるとトンネルを抜けたところで停車しました。

そこへ山津波が襲いかかり、先頭の機関車が土砂に呑まれ、機関士と火夫の二人が犠牲になりました。しかし客車はトンネルの中だったので助かりました。

根府川の駅に停車していた下り列車は土砂に押し流され、乗客約200人、ホームで上り列車を待っていた約50人もろともに、約45mの崖下に転落しました。そこに大津波が襲いかかり、100人あまりが死にました。

根府川の南の真鶴でも、建物が倒壊・炎上して、海岸付近では津波に押し流されました。

流言飛語と朝鮮人虐殺

地震の直後から、さまざまな噂が飛び交いました。

「富士山が噴火した」

「秩父連山が噴火した」(秩父連山に火山はない)

「東京の下町に大津波が来る」

など。

地方新聞が東京から脱出した人からきいた噂話などを紙上で取り上げたため、さらに噂は拡散していきました。

9月1日午後3時頃から、横浜本牧町(ほんもくちょう)あたりで、

「社会主義者と朝鮮人が放火している」という噂が流れました。

夜になると、

「朝鮮人が井戸に毒を入れている、放火、強盗、強姦をしている」

など、噂は変化していきます。

翌2日になると噂さらに具体的になり、

「保土ヶ谷の朝鮮人労働者300人が襲ってくる」
「工事現場のダイナマイトをもって襲ってくる」

などとなりました。

これら朝鮮人についての噂はやがて横浜全市に広がり、避難民をとおして東京でも広がりました。

2日午後から、警察にも朝鮮人暴動についての通報が相次ぎました。

警視庁では警戒態勢を取り、厳重な取締を各署に命じまし、自動車、メガホン、ポスターなどで「朝鮮人来襲」の報を東京市内各地に知らせました。

警察も、相次ぐ通報によって朝鮮人暴動はほんとうだろうと考え始めました。そこで朝鮮人や社会主義者を保護の名目のもと、拘束しました。このことも噂に真実らしさを加えました。

さらに、

噂は新聞記事によって拡散していきます。東京の新聞社は震災でつぶれていましたが、地方新聞が朝鮮人による暴動事件を大きく報じました。

噂はさらに独り歩きしていきます。

「朝鮮人を裏で扇動しているのは社会主義者やロシアの過激派だ」など。

ついに2日夕刻、東京市と東京五郡に戒厳令がくだり、戒厳令の範囲はその後も順次拡大され、軍隊が出動するさわぎとなりました。

これら朝鮮人暴動についての噂は、事実無根のデマだったというのが現在の定説です。

しかし恐怖にかられた人々は、自警団を組織し武装しました。

そして通行人を呼び止めては尋問し、朝鮮人とわかると竹槍、棍棒、鳶口などで暴行したり殺害しました。

日本人や中国人が朝鮮人と間違えられて殺された例もあります。

社会主義者や労働運動家も殺されました。

犠牲者の数は例によって諸説ありいまだ判明していません。

ただ言えることは、

朝鮮人が暴動したり放火したり井戸に毒を投げ入れたのを「自分の目で見た」という証言は2021年の今日まで一つも見つかっていないということです。

ここからも、実際に朝鮮人が暴動したり放火したり井戸に毒を投げ入れた可能性は「きわめて低い」といわざるをえません。

3日以降、新聞は誤報を順次訂正し、朝鮮人暴動の噂は誰も信じなくなっていきました。

「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち

さて現在、ごく少数の方が「関東大震災における朝鮮人虐殺はなかった」と主張しています。

彼らは「朝鮮人暴動」を報じる新聞記事を根拠に「朝鮮人が暴動を起こしたのは事実だ」「朝鮮人虐殺はなかった」と主張しています。

しかし、「朝鮮人暴動」を報じる新聞記事は震災直後の誤報であり、9月3日以降、記事は訂正されていきます。

「なかったことにしたい人たち」は、9月3日以降の訂正記事を故意に無視して、震災直後の誤報だけを切り取って「ほら見ろ朝鮮人は暴動を起こしたんだぞ」というのです。

歴史はこうやって捻じ曲げられるのかという、興味ぶかい事例です。

たしかに韓国のいうことは信用できません。

現在、韓国は慰安婦の強制連行だ、徴用工の強制連行だと、根も葉もない妄想歴史をわめき散らし、金金金金と日本にタカリ続け全世界で失笑を買っているのは周知の通りです。

こうした韓国の性質からみるに、「どうせ関東大震災後の朝鮮人虐殺の話も捏造だろう」と思うのは無理からぬことです。

(実際、韓国の発表する犠牲者数は年々増え続けており、数はまったく信用できません)

しかし、だからといって虐殺そのものが「なかった」というのは不可能です。

関東大震災後に朝鮮人虐殺が起こったことは膨大な証言、内務省の公式文書、裁判所の起訴記録に裏付けられた「事実」であり、まともな歴史学者で朝鮮人虐殺が「なかった」と主張している方は(右・左をとわず)一人もいません。

もし朝鮮人虐殺が「なかった」とすると、警察も、裁判所も、新聞も、政府も、口裏をあわせて大量の嘘を記録に残したことになります。あまりにも現実ばなれしています。荒唐無稽です。

保守派の論者ですら、朝鮮人虐殺そのものが「無かった」と主張する者はありません。

よくよく、歴史を直視せねばなりません。

詳しくはこちらの著書をお読みください。

TRICK トリック 「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち

「歴史を捻じ曲げる」ということがどのように行われるのか?徹底検証した、良書です。

甘粕事件

犠牲になったのは朝鮮人だけではありません。朝鮮人に間違えられた日本人や中国人も殺されました。

また社会主義者や労働運動家も殺されました。

「甘粕事件」はとくに有名です。

アナーキストの大杉栄と妻の伊藤野枝、甥の橘宗一の三人が、麹町憲兵分隊長・甘粕大尉率いる憲兵隊により拉致され、殺害された事件です。

事はすぐに発覚し、甘粕憲兵大尉は軍法会議にかけられます。

甘粕の供述では、三人を取り調べをよそおって殺害した後、死体を憲兵隊構内の古井戸に投げ入れ、煉瓦で埋めたと。

動機は、アナーキストが震災後の混乱に乗じて、政府の転覆をはかるかもしれない。だから、

「憲兵分隊長としてではなく、一個人として国家のために殺害しなければならないと感じた」

と、甘粕は供述しました。

当時の新聞は「陸軍の大汚辱」と報じました。しかし誰が甘粕に指示を出したかは判明しませんでした。軍法会議はあくまで甘粕の単独犯ということにして、黒幕については一切追求しませんでした。

朝鮮人・中国人を守った日本人

一方、デマ騒ぎの中、朝鮮人・中国人をまもった日本人もいたことを覚えておきたいものです。

震災発生時、神奈川警察署鶴見分署は大川常吉分署長以下、30名が勤務していました。

9月2日正午(または夕方)ごろ、自警団が4人の男を小突きながら鶴見分署に連行してきました。

4人は朝鮮人で、井戸に毒を入れたので、殺せというのです。

取り調べの結果、四人は中国人で、持っていた二本の瓶は毒薬ではなく、ビールと醤油でした。

しかし自警団が納得しないので、大川警部は自警団の前で瓶の中身を飲んでみせました。

それで自警団は引き下がりましたが、翌2日も朝鮮人が次々と連行されてきて、署内にあふれました。

大川警部は朝鮮人をいったん鶴見ヶ丘の曹洞宗總持寺に移動させますが、

9月3日、自警団は武器をもって總持寺に集まり、朝鮮人の引き渡しを要求するので、

ふたたび鶴見分署に移動させます。すると1000人あまりの自警団はじめ群衆が、朝鮮人を殺せといって鶴見分署を取り囲みました。

その時、大川警部は怒り狂う群衆の前に立ちはだかり、

「鮮人に手を下すならやってみろ。まずこの大川常吉が引き受ける。この大川を片付けた上でやれ。我々職員の腕の続く限りは、一人だって君たちに渡さないぞ」

とすごみました。

これには群衆も驚き、大川にたずねます。

「もし警察が管理できず朝鮮人が逃げた場合、どうするのか」

大川は答えて、

「そうなったら切腹してわびる」

というので、そこまで言うならと群衆は納得して帰っていきました。

こうして朝鮮人220名、中国人70名あまりが鶴見分署に保護されました。その後保護された朝鮮人・中国人は301人に増え、

9月9日、鶴見分署から横浜港へ移され、停泊中の華山丸に収容され、海軍に保護されました。

保護された朝鮮人のうち225名は、その後、大川警部の恩に報いようと震災復興事業に従事したということです。

帝都復興

震災後、焼け出された人々は焼け跡でバラックを建てるなどして雨露をしのぎました。日比谷公園や上野公園、九段坂上には公共のバラック棟が建てられました。

復興案は、建築家、市政担当者などの専門家だけでなく、民間から公募され、140もの復興案が集まりました。

時の(第二次)山本権兵衛内閣は、震災翌日の9月2日にテントの中で組閣を行った、まさに「震災内閣」です。

この山本内閣のもと、

元東京市長で、台湾や満州で都市計画をおこなったこともある後藤新平内務大臣が指揮をとり、帝都復興計画がはじまりました。

「帝都復興院」が組織され、優秀な技術者が集められました。

銀座から南北に抜ける昭和通り、九段下から東西に走る大正通り(現靖国通り)を中心に52の幹線道路が設置され、東京駅を中心に環状線や放射状の道路が設置され、

入り組んだ町の構造を単純化し、道幅を広くして舗装し、街路樹を植え、公園や運河を整備しました。

この時の都市計画が、現在の東京の原型となっています。

隅田川には耐震・耐火の新しい橋がかかりました。各地に耐震耐火の同潤会アパートが建設されました。

同潤会アパート
同潤会アパート

(同潤会アパートは1988年以降、順次取り壊され、2013年取り壊しの上野下を最後に姿を消しました)

1930年(昭和4)3月24日、帝都復興祭が開催され、昭和天皇御臨席のもと祝賀会が開かれました。花電車が走る華やかな祝賀会は、いかにも震災から復興したの感を打ち出していました。

次回「普通選挙法と治安維持法」に続きます。

参考文献

伊藤和明『日本の地震災害』岩波新書
寒川旭『地震の日本史 大地は何を語るのか』中公新書
磯田道史『天災から日本史を読みなおす 先人に学ぶ防災』中公新書
加藤直樹 『TRICK トリック 「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち』ころから
西崎 雅夫編『証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人』ちくま文庫
今井清一『日本の歴史23 大正デモクラシー』中公文庫
成田龍一『シリーズ日本近現代史4 大正デモクラシー』岩波新書

youtubeで配信中

伊藤博文暗殺事件(8分43秒)
https://history.kaisetsuvoice.com/Meiji_Ito.html

韓国併合(32分11秒)
https://history.kaisetsuvoice.com/Meiji_KankokuHeigo.html

ロシア革命とソヴィエトの成立(6分14秒)
https://history.kaisetsuvoice.com/Taisyou_RussianRevolution.html

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