パリ講和会議とベルサイユ条約

こんにちは。左大臣光永です。

久しぶりに飲みに行ってきました。飲みながらぼーっと赤提灯をながめていると、楽しかったあの飲み会、あの飲み会…二十歳くらいからの数々の宴会の記憶が走馬灯のように頭をよぎります。ことに春の宵は、

「花に飽かぬ思ひはいつもせしかども今日の今宵に似る時ぞなき」『伊勢物語』の歌が思い起こされ、しみじみします。

本日は「パリ講和会議とベルサイユ条約」について。

長いです。

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1919年1月から、第一次世界大戦の講和条約について審議する「パリ講和会議」が開催され、33カ国の代表が集まりました。

アメリカのウィルソン大統領は国際連盟の設立を提案するも、ドイツに対する賠償、領土割譲をめぐって各国の思惑がすれ違いました。

ドイツの降伏

ドイツのUボートによる無差別攻撃は1917年アメリカの参戦を招き、ドイツの敗北を決定づけました。

1918年9月末、ドイツ軍指導部は同盟国が次々と脱落することに危機感をつのらせていました。

さらに西部戦線の一部が連合国によって破られ、いよいよドイツは追い詰められていきました。

1918年9月28日、ベルギーのスパ(Spa) に置かれた大本営で、ドイツ軍参謀本部次長エーリヒ・ルーデンドルフ(Erich Ludendorff)および参謀総長パウル・フォン・ヒンデンブルク(Paul von Hindenburg)が皇帝ヴィルヘルム2世(Wilhelm II)に奏上します。

「連合国に即持休戦の申し入れをいたしましょう」

「負けか…」

「つきましては、講和交渉を行うにあたり議会主義に基づく新しい政府を開く必要がございます」

その時皇帝は、

「もっと早ければよかったのだが…」

と漏らしたといいます。

ウィルソン大統領は前々から民族自決にもとづく平和条約を訴えていました。ドイツのような立憲君主国家では相手にされない可能性もありました。

だから形だけでも、議会制の政府をつくっておく必要が出てきました。

急遽、バーデン大公国公子マクシミリアン・フォン・バーデン(Prinz Maximilian Alexander Friedrich Wilhelm von Baden)(マクス)が宰相に任じられ、責任内閣制をみとめる憲法改正が行われます。

そして誕生したばかりのバーデン内閣によりアメリカ大統領ウィルソンに講和の申し入れが行われました。

ドイツ革命

休戦直前の10月末、ドイツ海軍司令部は、無謀な作戦を立てます。

全艦隊をもってイギリス艦隊に総攻撃をかけようというのです。

もう休戦は目の前なのに。ほっとけば戦争は終わるのに。しかし、このまま戦争が終わっては、ドイツ艦隊の名誉が損なわれる。

だから最後に華々しく玉砕して、ドイツ艦隊の栄光を後世に示そうというわけです。

勇ましい話ですが、実際に戦う水兵たちにとってはたまったもんじゃないです。

「くだらねえ!」
「自己満足じゃねーか!」

作戦はすぐに水兵たちに知られます。

「俺たちそんな、ムダな戦いはしないぞ!」

水兵たちはストライキを起こし、出撃をボイコットしました。

「キール軍港の反乱」です。

これをきっかけに、

ドイツ国内の大都市で革命が起こります。

革命の波はついにベルリンに及び、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命しました。共和国首相に社会民主党のエーベルトが就任しました。

休戦協定

1918年11月11日、ドイツ新政府代表団は、パリ近郊のコンピエーニュで、連合国側との休戦協定に調印しました。ここに4年以上にわたった第一次世界大戦は終わりました。

(休戦協定はベルサイユ条約の先取りともいえるもので、ドイツに対して過酷な内容でした。

■フランス・ベルギー占領地とアルザス・ロレーヌからの15日以内の撤兵、

■砲5000門、機銃25000丁、全潜水艦、軍用機1700機、機関車5000両、貨車15万両、トラック500台の引き渡し、

■捕虜の無条件釈放

■ブレスト・リトフスク条約、ブカレスト条約の破棄

パリ講和会議

講和条約作成のため、パリ講和会議が開催され、33カ国の代表が集まることになりました。

アメリカからウィルソン大統領、イギリスからロイド・ジョージ首相、フランスからクレマンソー首相、イタリアからオルランド首相と、各国代表が集まります。

フランスのクレマンソー首相が議長をつとめました。

敗戦国であるドイツは呼ばれませんでした。

日本の全権大使は元老で元首相の西園寺公望がえらばれました。西園寺はパリ大学留学中にフランスのクレマンソーと下宿をともにした縁もあります。

次席全権は元外務大臣で枢密顧問官の牧野伸顕(まきの のぶあき)。それに駐英大使珍田捨巳(ちんだ すてみ)、駐仏大使松井慶四郎および駐伊大使伊集院彦吉(いじゅういん ひこきち)が加わりました。

(後に国際連盟脱退演説で有名になる松岡洋右、後に首相になる近衛文麿、吉田茂、芦田均らも随行していました。各新聞社からも多くの記者が随行していました)

日本代表団は自国の権利に関することであれば活発に発言するが、そのほかは発言も少なく、大勢のなりゆきにまかせました。ために各国代表やメディアは日本代表団のことを「サイレント・パートナー」といって揶揄しました。

パリ講和会議第一回総会は、1919年1月18日、パリのフランス外務省内の「時計の間」で開催されました。

33か国の代表が参集、といっても、やはり力をもっているのは、大国でした。

米英仏伊日の五大列強による最高会議=10人委員会がすべての問題を審議し、ほかの国は自国に関係ある議題のみ参加を許されました。

個別問題のためには58の小委員会がもうけられました。

ウィルソンは開口一番、

「「14か条の平和原則」に基づく、「恒久平和のための国際連盟の設立」を提案しました。

今大戦のような悲惨なことが二度と起らないよう、国の枠を超えて手を取り合いましょうという建前です。

ただしウィルソンは連邦政府の公務員から黒人を排除するなど、ガチガチの差別主義者でした。

ウィルソンのいう民族自決だの、平和だのというは、あくまでも白人にとってね民族自決、白人にとっての平和である、ということに注目しなくてはなりません。

アジア・アフリカなどはなから国とも人間ともウィルソンは思っていません。

人種差別撤廃規約

日本政府はウィルソンの提案にとまどいます。

国際連盟?どうせ白人中心だ。白人以外にはソンになるに決まってる。

だから日本は当初、国際連盟に反対するつもりでしたが、大勢は賛成している様子である。日本だけ反対するのもかえって不利になる。

そこで、日本は国際連盟規約に「人種差別撤廃規約」をつけくわえることを提案しました。

これは国際連盟が白人主導で運営されて有色人種に不利になることへの予防線でした。

と同時に、

アメリカで起こっていた日本移民排斥運動への牽制でもありました。

当時、カルフォルニア州では日本移民の流入規制をおこない(1907年連邦移民法)、日本人の土地所有規制(1913年加州外国人土地法)をおこなっていました。

こうした動きを、人種差別反対の掛け声で、くつがえせると日本は考えたのです。

しかし。

アメリカでは、日本の出した「人種差別撤廃規約」に批判がおこります。

「人種差別をいうなら、日本だってやってるじゃないか」と。

この頃、日本統治下の朝鮮でウィルソンの「平和14原則」に刺激されて、いわゆる「三・一独立運動」が起こりました。

運動の実態は、朝鮮のキリスト教宣教師らが朝鮮人を扇動して暴動を起こしたものです。

運動は朝鮮全土に広がり、満州にある朝鮮民族居住地・間島地方にも飛び火しました。

この状況に対して、欧米のメディアは日本を批判しました。

「日本は人権人権言うが、朝鮮や台湾で人権無視を続けているのは日本ではないか」

と。

もっともアメリカ・イギリスが植民地で行っていた圧政は、日本のそれとは比べ物にならないほど酷いものだったのですが。

繰り返しますが、

ウィルソンはガチガチの差別主義者でした。

ウィルソンのいう「民族自決」とは、あくまでも白人にとっての「民族自決」であり、

アジア・アフリカはウィルソンのいう国家にも、人間にも入っていませんでした。

結局、国際連盟の原案には、もともとあった宗教的差別の撤廃規約も、人種差別の撤廃規約も、はぶかれました。

(だって大好きな人種差別がやれないなら、ウィルソンちゃん、国際連盟つくる意味がないですからね…)

山東問題

中国は戦勝国代表として、パリ講和会議に参加しました。

当時、中国には国際社会に認められた段祺瑞(だんきずい)の北京政府と、孫文の広東政府が並立していましたが、

パリ講和会議には北京政府、広東政府の両方から代表が参加しました。

1月27日の10人会議で、日本の牧野全権が、

・膠州湾租借地と山東省のドイツ利権と
・赤道以北の南洋諸島の譲渡

を主張しました。

ここで、

北京政府代表で在米大使でコロンビア大学修士号をもつ顧維鈞(こいきん)が、流暢な英語で訴えました。

「山東省のドイツ利権は日本にではなく、直接、中国に返還されるべきだ」と。

日本代表団は驚きます。

1915年の「対華二十一箇条要求」とそれに基づく「日華条約」で、中国は山東半島の利権にかんする日本とドイツの取り決めを承認するとしていたためです。

日本側がそれを主張すると、顧維鈞は、

「対華二十一か条要求は、最後通牒を伴う脅迫であるから、無効である」

と主張しました。顧維鈞の演説は各国のメディアで報道されました。

……

「中国の土地は中国に直接返還すべき」という中国側の主張は、どう考えても、「理にかなっている」、と言わざるをえません。

そして日本が中国につきつけた「対華二十一箇条要求」は今日の倫理観に照らしても、当時の社会背景においても非道なものであったことは確かです。

ただし、山東半島の利権については一つ事情がありました。

日本は大戦中に地中海に駆逐艦隊を派遣するに際し、英仏伊と裏取引を交わしていました。日本の艦隊を地中海に派遣するかわりに、山東半島における日本の利権を認めるとしたものです。

ウィルソンはこの、日本と英仏伊との間で交わされた山東半島についての裏取引を、知りませんでした(ウィルソンの立ち回りには、こうした迂闊さが目立ちます)。

結局、

ウィルソンは山東半島における日本の利権を消極的に認めました。中国のいいぶんは却下され、「対華二十一か条要求」はそのまま残りました。

こうして所謂「山東問題」はパリ講和会議では未解決に終わり、1921年のワシントン会議に持ち越されることになります。

「なんだそれは!」
「ふざけんな!」

中国国民は失望し、ますます反日感情を高めていきます。ついに日貨排斥・反政府運動「五・四運動」につながっていきます。

分断されたドイツ

このようにパリ講和会議では国際連盟の創設にはじまり、さまざまな議題が話し合われました。

が、なんといっても一番の議題はドイツの敗戦処理でした。

・ドイツ軍の縮小
・賠償金
・領土割譲

の3つです。

とくにフランスは、ドイツをとことん追い詰める構えでした。

普仏戦争(1870-71)についで今回の大戦でも「フランスはドイツから祖国を蹂躙された」という国民感情があります。

だからフランス国民の多くはドイツに対する徹底的な報復を望んでいました。そこでフランス政府としては、

・普仏戦争でドイツに奪われたアルザス・ロレーヌ地方の返還

・ラインラント地方の独立と中立化

・ドイツ軍が破壊したフランス北西部の炭鉱の見返りとしてザール地方の石炭を要求

といった厳しい条件を出しました。

さらにフランスはドイツ領の一部をポーランドに割譲し、ポーランドの再建を支援しました。

これはドイツの東側からもドイツの動きを監視するためでした。

ハプスブルク帝国は解体され、「オーストリア」なる小国だけが残されました。しかも同一民族であるドイツとの統一は認められませんでした。

ベルサイユ条約

1919年6月28日、ベルサイユ宮殿鏡の間で、対ドイツ講和条約(ベルサイユ条約)が調印されました。

賠償額はこの時点では決まっておらず、1922年に決定しました。

それは実に1320億金マルクという天文学的数字でしたが、実際にドイツが支払ったのは191億金マルクていどと言われます。

しかも、1932年のローザンヌ会議で賠償金は超消しとなりました。

ベルサイユ条約440条の中でドイツがもっとも抵抗したのが「戦争責任条項」です。

大戦勃発の責任はすべてドイツとその同盟国にある、という内容です。

ドイツはこれに公式に反論して「すべてのヨーロッパ列強に戦争責任があると信ずる」と主張しました(ドイツは講和会議に招かれなかったので別の場で)。

が、ドイツの主張は容れられず、「戦争責任条項」は残りました。

それでも、ベルサイユ条約が「戦勝国による一方的なドイツいじめ」だったかというと、そうは言えないです。

ヴィルヘルム2世を戦犯として処罰することはできなかったし、901人の戦争犯罪人リストをドイツ政府によるライプツィヒ裁判にゆだねましたが、起訴されたのはたった12人、実刑判決を受けたのは2人で、その2人は逃亡したので、結局、誰ひとり裁かれずに終わりました。

「ベルサイユ条約によってドイツは一方的に処罰された。それがきっかけでインフレが起こり、失業者があふれ、やがてナチスの台頭につながった」とよく言われますが、

この言い方にはドイツ人による自己正当化が多分にふくまれていると思います。

実際にはこのように、一人のドイツ人も戦犯として処罰できなかったし、賠償金請求も中途半端に終わりました。何もかも戦勝国の思いのままになったわけではないです。

次回「普通選挙運動」に続きます。

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