「平民宰相」原敬

こんにちは。左大臣光永です。

庭にメジロが来ます。庭木にミカンをさしているので食べに来るのです。メジロの食べ方は優雅です。ちっ、ちっと、つつしみ深く食べます。まるでお公家さまの食事です。

それに比べてスズメは、ガツガツガツ、パリポリパリと、いかにも育ち悪そうに食べます。そこがスズメのよさですが。

本日は「平民宰相」原敬についてです。

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1918年(大正7)9月、立憲政友会総裁の原敬が、内閣総辞職した寺内正毅にかわって新しい首相に就任しました。

藩閥に属さず爵位も持たない衆議院議員が首相になったのは初めてのことで、「平民宰相」として庶民から期待されました。

外務大臣・陸軍大臣・海軍大臣をのぞくすべての国務大臣に立憲政友会会員をあてたため、原内閣は「日本初の本格的政党内閣」と言われます。

原敬内閣

1918年(大正7)9月27日、立憲政友会総裁で盛岡出身の原敬が、総辞職した寺内正毅にかわって新しい首相に就任しました。

原は米騒動の間は盛岡で注意深く世の成り行きをうかがいっていましたが、9月2日に寺内正毅首相の辞任表明をうけて上京。元老山県有朋と会い、首相就任の許可をえました。

(原は前々から元老山県とのパイプを強化し、根回しを続けていました)

こうして、

1918年9月29日、原内閣が誕生しました。前の寺内正毅内閣が米騒動で総辞職に追いやられたことを考えると、米騒動があったればこそ生まれた内閣といえます。しかも原は、みずからは手を汚さずに、米騒動の生んだ果実を手に入れたのでした。

原敬この年62歳。盛岡出身で薩長の藩閥に属さず爵位も持たない衆議院議員が首相になったのは初めてのことで、「平民宰相」として庶民から期待されました。

(ただし、原敬は古河財閥の代表であり、傘下の各大臣も、主に三井系の財閥と強いパイプを持っていました。
また叙爵の話もみずから断ってきたものです。「平民宰相」とはキャッチフレーズていどのことで、実際は「平民」には程遠いです。社会主義者の中には原内閣のことを「金持内閣」と呼びました)

原は外務大臣・陸軍大臣・海軍大臣をのぞくすべての国務大臣に立憲政友会会員をあてたため、原内閣は「日本初の本格的政党内閣」と言われます。

※立憲政友会…1900年、伊藤博文の主導で結成された政党。同年成立の第四次伊藤博文内閣は立憲政友会会員を中心に組織された。原敬は立憲政友会結成当時から加わり、1914年(大正3)(第一次世界大戦の勃発直前)、同会総裁となる。

原敬 その人物

原は子供の頃から理屈ぽく自説を曲げず協調性がなく、負けず嫌いで覇気にあふる性格でした。

薩長がなんでも幅を利かせる世の中で、戊辰戦争にやぶれた東北出身者などは「白河以北一山百文【しらかわいほくひとやまひゃくもん】(白河の関より北の土地は一山あたり百文の価値しかない)」とバカにされました。

そこで盛岡出身の原は、「一山百文」の言葉をもじって「一山」「逸山」と号しました。これは卑下しているのではなく、なにくそという反骨精神のあらわれです。

ただしこのような尖った性格は、大正3年に政友会総裁となった後は、しだいに丸くなっていきました。

後年の回想では、政友会の党員はじめ、いろいろな者が東京芝公園にあった原の自宅を訪れる。そして延々と天下国家を論じて、最後には「時に…」といって金の無心をする。

その間、原は腕組みをしたままで黙々ときいている。

それを見ていて付き人が、

「あいつらどうせ金がほしいだけです。早く金をやって追い返せばいいじゃないですか」

すると原は、

「彼らも金だけもらって追い返されたんじゃ身も蓋もない。それじゃあんまり気の毒だから、聞くふりだけしてやってるのだ」

そう答えたと、そんな逸話が伝わっています。

原は澄んだ細い声で早口で話し、野党の質問に揚げ足を取り、舌鋒するどく切り込みました。

答弁の要所で白いハンケチを取り出し、鼻や口をこするので、細い声がますます聞き取りにくくなる。

「声高に願いますッ」

と野党側から言われると、

「声が低いのは生まれつきだッ」

とやり返し、それは憎々しい態度だったと伝わります。

反対意見に対しては敵意をむき出しにし、そういう時は口を曲げた表情をしたそうです。

原内閣の四大政綱

1918年(大正7)10月11日、東京商業会議所主催の内閣成立祝賀午餐会にて、原敬は四大政綱(国民に対して約束する基本政策)をかかげました。

一、教育の改善
二、交通通信機関の整備
三、国防の充実
四、産業の奨励

一、教育の改善は、中等教育・高等教育の充実をはかり、大学令を出して慶應義塾大学、早稲田大学、明治大学、法政大学など私立の専門学校を大学に格上げしました。

二、交通通信機関の整備は鉄道網を拡充・整備し、道路法を定めて国道・県道などの道路区分と管理責任を定め、鉄道敷設法を改正し、149路線の建設を決定しました。これは十数年費やして実現しました。

三、国防の充実は海軍の八・八艦隊(戦艦八、巡洋艦八)の建造や、陸軍の二十一師団の充実、軍備の近代化など。

ようは(第一次)大戦下の好景気を利用してさらなる経済成長をはかり、帝国主義政策をすすめるため軍拡を行うというものでした。

おお学校ができるのか!

道路ができるのか!

いいじゃねーか。さすがは平民宰相と、

当初、原敬は人気が出ました。

1910年、第2次桂内閣の時、選挙法改正で選挙資格は直接国税で10円以上おさめている者とされましたが、原はさらに条件を引き下げて、直接国税3円以上としました。これにより有権者の数は143万人から286万人に倍増しました。

また現行の大選挙区制を小選挙区制にあたらめ、議員定数を381議席から466議席にふやしました(目的は政友会会員を衆議院に大勢入れて、政友会の発言力をますこと)。

それでも、普通選挙には至りませんし、まして女性の参政権などははるかの夢物語でした。

「中学高校?うちの子は小学校にも行けないんですけど」

「税金3円も払えねーぞ」

不満の声が世に満ちます。

ドイツの革命

折しもヨーロッパでは、第一次世界大戦が終結に向かっていました。

ドイツではキール軍港の水兵たちが出動命令を拒否したのをきっかけに、ドイツ国内の大都市で革命が起こり、

革命の波はついにベルリンに及び、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命しました。共和国首相に社会民主党のエーベルトが就任しました。

1918年11月11日、連合諸国とドイツの間に休戦協定が結ばれ、4年4ヶ月にわたった第一次世界大戦は終わりました。

ロシア革命につぐドイツ革命、そして第一次世界大戦終結と、デモクラシーの波は日本にも押し寄せてきました。

次回「パリ講和会議とベルサイユ条約」に続きます。

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伊藤博文暗殺事件(8分43秒)
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韓国併合(32分11秒)
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解説:左大臣光永

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