普通選挙法と治安維持法

こんにちは。左大臣光永です。

今年は桜咲くのが全国的に早いそうですね。京都は18日頃開花ということで、今からワクワクしています!

本日は「普通選挙法と治安維持法」について。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

https://roudokus.com/mp3/Taisyou_Chianijihou.mp3

1925年(大正14)加藤内閣のもと、普通選挙法が発布されました。選挙権は25歳以上の男子とされ、納税額の条件はなくなりましたが、選挙権被選挙権を失う条件(欠格条項)が定められたこと、女性と植民地の人々は除外されたことなど、課題を残すものでした。

同時期、治安維持法が発布されました。無政府主義・共産主義を取り締まるのが目的でしたが、しだいに拡大解釈され、国民の権利と自由をおびやかす悪法となっていきます。

虎の門事件(摂政宮狙撃事件)

1923年(大正12)12月27日、摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が第48通常議会の開院式に出席するため、お召自動車で虎の門外にさしかかりました。

(大正天皇の体調が悪いため、1921年11月より皇太子裕仁親王が摂政をつとめていた)

そこに、躍り出た青年が、ステッキ式の仕込み銃を摂政宮に向けて発射しました。

弾丸は車の窓を射抜き、入江為守侍従長が顔に傷を負いました。車はフルスピードで走り出し、貴族院の表玄関に横付けしました。

摂政宮に怪我はなく、そのまま開院式に臨まれました。

犯人は「革命万歳」を叫び、走り出したところを警官や憲兵に取り押さえられました(虎の門事件)。

犯人は難波大助25歳。長州の名門出身。代議士難波作之進の息子でした。

難波大助は名家のボンボンでありながら、いつからか小作人や貧しい者に同情し、共産主義革命を夢想するようになりました。

そして革命のためには皇族を殺さなくてはならないと思いつめ、実行を試みたのでした。

第二次山本内閣はこの「虎の門事件」の責任をとって、1923年(大正12)12月29日、総辞職しました。

第二次護憲運動

かわって、清浦奎吾内閣が発足したのが翌1924年(大正13)1月7日。

政党政治は時期尚早とする元老・西園寺公望の意向にそった内閣で、外務大臣と陸海大臣をのぞくすべての国務大臣が貴族院議員という、時代に逆行する内閣でした。

「なんだこりゃ」
「時代錯誤もいいとこだ」
「これじゃー普通選挙なんて無理だな」

世論は清浦内閣をはじめから見捨てていました。清浦内閣親任式の時、東京の新聞はひとつも号外を出しませんでした。

政界からも清浦内閣への反発が起こります。議会政治・政党政治を否定する内閣なら、いらないと。

加藤高明らの憲政会、犬養毅らの革新倶楽部、高橋是清らの立憲政友会の「護憲三派」が、「反清浦内閣」の旗印の下、手を組みました。

「時代に逆行する清浦内閣はいらない」
「我ら手を取り合い」
「やりましょう!」

「第二次護憲運動」の始まりです。

一方、政友会の中でも清浦内閣を支持する者は分かれて、政友本党を結成しました。

※憲政会…1916年、立憲同志会、中正会、公友倶楽部が合同して結成した政党。

※革新倶楽部…1922年、立憲国民党など非政友会系の政党が合同して結成した政党。

2月2日、上野精養軒で開かれた三派懇親会には約1000人が集まり、

「今日は政党主義が勝つか、官僚主義が敗るるか、専制主義が勝つか立憲主義が敗るるか、関ヶ原の戦いである」(政友会 秦豊助)

と演説されました。

衆議院解散総選挙は5月1日に行われ、護憲三派が圧勝。

6月7日、清浦内閣は総辞職し、憲政会の加藤高明に組閣命令が下り、6月11日、三派の連立で首相に就任。加藤内閣が発足しました。

加藤内閣は、外務大臣に幣原喜重郎、内務大臣に若槻礼次郎、大蔵大臣に浜口雄幸(おさち)、農商務大臣に高橋是清といった顔ぶれで、

清浦内閣よりはるかに国民よりの内閣と期待されました。

「天皇機関説」で有名な美濃部達吉東京帝大教授は、三派連立内閣を評して、

清浦内閣がやめて加藤内閣がこれに代ったのは、長い間の梅雨がようよう晴れて、かすかながらも日光を望むを得たのと、同じような快い感じがする。閣員の顔ぶれから言っても前内閣とは比較
にならぬ程に国民の信頼をつなぐに足りる。

と評しています。

しかし護憲三派は心底、民主化を目指したわけではありません。このままでは革命が起こって世の中がひっくり返るから、少しだけ民衆に歩み寄ってやり、不満のガス抜きをしようということでした。

普通選挙法

加藤内閣(護憲三派内閣)にとって最大の課題は普通選挙法でした。もはや普通選挙法の実施は免れない。だが具体的にどうするのか?という話です。

政府案は25歳以上の男子に選挙権と被選挙権をあたえる、というもので、加藤首相はこれを議会に提出し、

「国民の知識や政治能力が上がったから、広く政治上の責任を負わせるのだ」と説明しました。

(暗にこれは民主化ではない、国民を甘やかすものでなく、むしろ義務を負わせるのだということを強調し、貴族院からの反発にそなえたものです)

衆議院ではおおむね賛同をえられたものの、貴族院からの反発が強く来ました。

とくに年齢と、選挙権をうしなう場合の条件(欠格条項)の二点でもめました。会期は2回延長し、衆議院・貴族院の両院協議会にもちこまれ、ようやく落とし所をえました。

1925年(大正14)3月29日の議会で普通選挙法は成立しました。同時に小選挙区制を廃して中選挙区制が導入されました。

普通選挙法により二十五歳以上の「帝国臣民たる男子」に選挙権が与えられ、これまで328万人だった有権者は1240万人に増えました。

「やった!普通選挙!普通選挙実現!」
「われらの勝利だ!」

各地で祝賀会や提灯行列が催され、宣伝ビラがまかれました。

新聞は普通選挙の実現を祝う一方、「まだまだ問題は解決されていない」と釘をさしました。

解決されていない問題とは、

普通選挙法の「欠格条項」により、「貧困により公私の救助または扶助を受けている者」は選挙権者からはずされたこと、

女性と植民地(朝鮮、台湾、樺太)の人々は除外されたことです。

治安維持法

普通選挙法成立の10日前の3月19日、治安維持法が成立していました。7条からなり、その第一条に、

「国体を変革し、または私有財産制度を否認することを目的として結社を組織し、または情を知りてこれに加入したる者」を十年以下の懲役としたのをはじめ(第一条)

未遂、実行のための協議、扇動、金銭その他の供与についても十年ないし五年の懲役としました。

5月8日に出された「勅令175号」により、治安維持法は朝鮮、台湾、樺太でも施行されることになりました。

治安維持法の意図は、この頃活発化していた無政府主義・共産主義を取り締まることにありました。

平和的なデモや労働運動を取り締まるものではないと説明されましたが、いずれは拡大解釈して取り締まるだろうと、野党や民間から懸念の声が上がりました。

しかし、法案は賛成246人、反対18人の圧倒的多数で衆議院を通過し、貴族院に上程され、3月19日に可決しました。

結果は、野党や民間の心配した通りになりました。

治安維持法はしだいに拡大解釈され、国民の権利と自由をおびやかす悪法となっていきます。

(取り締まる条件がフワッとした曖昧なものだから、取り締まろうと思えば誰でも何でも取り締まれる)

1945年10月にGHQの命令で廃止されるまで治安維持法は続きました。

次回「大正時代の社会運動・労働運動」に続きます。

youtubeで配信中

伊藤博文暗殺事件(8分43秒)
https://history.kaisetsuvoice.com/Meiji_Ito.html

韓国併合(32分11秒)
https://history.kaisetsuvoice.com/Meiji_KankokuHeigo.html

関東大震災(20分)
https://history.kaisetsuvoice.com/Taisyou_Kantoshinsai.html

新発売

1話2分スピード解説『古事記』
https://sirdaizine.com/CD/speedMyth.html

『古事記』(日本神話)を、【1話2分】ていどで、【簡潔に】解説したものです。

聞き流しているだけで『古事記』の物語が頭に入り、覚えられます。

詳しくは
https://sirdaizine.com/CD/speedMyth.html

解説:左大臣光永