ロンドン海軍軍縮会議と浜口首相の遭難
「ロンドン海軍軍縮会議と浜口首相の遭難」について。
ロンドン海軍軍縮会議。1930年(昭和5)、英米日仏伊の補助艦艇の所有割合を定めた会議。幣原喜重郎の弱腰外交と、折からの軍縮ムードにより、日本の保有率は海軍の希望より低く抑えられた。この結果に海軍や右翼は大いに不満をいだいた。翌昭和6年(1931)、浜口首相は右翼テロリストにより殺害される。
前回、「世界恐慌下の日本」からの続きです。
https://history.kaisetsuvoice.com/Syouwa07.html
ロンドン海軍軍縮会議
1930年(昭和5)1月21日から、ロンドン海軍軍縮会議がロンドンのロイヤル・ギャラリーで開催されました。英米日仏伊の代表が集まりました。
主な議題は巡洋艦・駆逐艦・潜水艦といった補助艦艇の所有割合を決めること、ワシントン条約(1921-22)に基づく主力艦の制限期間を延長することでした。
主力艦についてはワシントン条約で英米日の所有割合が10・10・6と決まっていました。次はこうした割合を補助艦艇についても決めようというのが趣旨でした。
海軍は、ワシントン条約で決まった10・10・6の割合に不満を持っており、今度こそせめて7割の保有率を認めさせたいと鼻息を荒げていました。
しかし外相幣原喜重郎は相手の要求は極力受け入れて、事を荒立てたくないという弱腰外交路線でした。
日本からは主席全権として若槻礼次郎が任命されました。
会議はもめにもめた末、3月末に条件がまとまりました。
補助艦艇の所有割合を英米日で10・10・6.97とする。大型巡洋艦は1936年(昭和11)まではアメリカが保有を抑えるため10・10・7。それ以降は10・10・6とする。潜水艦は均等に5万2千トンとする。
海軍はもっといい条件を取りに行くべきだと主張しましたが、浜口内閣は強気でした。折からの軍縮ムードで、世論はロンドン海軍軍縮会議の結果を支持していました。
浜口内閣は軍部の不満を押さえつけ、1930年(昭和5)4月22日、ロンドン海軍軍縮条約に正式に調印しました。
しかし海軍首脳部や右翼の間には不満がくすぶっていました。
「なにが軍縮だ。国防を危うくするものだ」
「政治屋ごときが何様のつもりか。天皇陛下の統帥権を侵すものである」
と。
浜口首遭難事件
昭和5年(1930)11月14日、浜口雄幸首相は岡山県下で行われていた陸軍大演習に立ち会うため東京駅のプラットフォームにつきました。
午前9時発「つばめ」の前から六両目の一等車に乗るためホームを歩き、8時58分、五両目まで進んだところで、低い銃声が響きました。
「うっ…」
浜口首相は下腹部を抑えてうずくまり、
犯人は一発目を撃った後、二発目を撃とうとしていたところを周囲の手で取り押さえられ、現行犯逮捕されます。
浜口首相は秘書官らに支えられて駅長室に運ばれ、応急手当の後、東大病院に運ばれ、手術を受けました。
銃弾はへその右側から入り小腸7箇所を傷つけ骨盤で止まっていました。幸い致命傷には至らず、一命をとりとめた浜口雄幸首相は、
「男子の本懐である」
と言ったとかで、これが一時流行語になります。
犯人は長崎県出身の右翼活動家、佐郷屋留雄(さごやとめお)。23歳。
「なぜ首相を暗殺しようとした?」
「浜口は緊縮政策により不景気をまねき、社会を不安におとしいれ、陛下の統帥権を干犯した。だからやった」
それが佐郷屋留雄のいいぶんでした。状況からいって佐郷屋の単独犯とは思えず、背後関係がありそうでしたが、裁判ではほとんど追求されませんでした。
浜口首相は一命はとりとめたものの、術後の経過が悪く、8月26日、死去しました。
佐郷屋留雄は死刑宣告を受けるも、恩赦で無期懲役になり、15年後に仮出獄しました。
首相不在の一年間、幣原喜重郎が臨時首相代理をつとめましたが、相変わらず与野党の不毛な足のひっぱりあいに終始しました。何ら建設的な議論はなく、国民は議会政治そのものに失望するばかりでした。
昭和6年(1931)4月13日、浜口内閣は総辞職し、翌14日、第二次若槻礼次郎内閣が発足しました。
次回「満州事変」に続きます。