張作霖爆殺事件

本日は「張作霖爆殺事件」について語ります。

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張作霖爆殺事件。

昭和3年(1928)6月4日、満州奉天(ほうてん)郊外、瀋陽(しんよう)駅近くで張作霖(ちょうさくりん)の乗った列車が爆破された事件。張作霖はほどなく死亡した。

犯行は関東軍大佐河本大作(こうもと だいさく)による独断であったが、関東軍首脳部も満州での権益拡大をもくろみ河本の計画を黙認していたと思われる。

田中義一首相はこの一件により昭和天皇から不信任を受け、内閣総辞職に至った。

前回「済南事件」から続きです。
https://history.kaisetsuvoice.com/Syouwa05.html

張作霖爆殺事件

昭和3年(1928)6月1日午後、大元帥張作霖は諸外国の北京駐在使節を集めて離別の言葉をのべ、6月3日、北京駅で特別列車に乗りこみました。

張作霖のそばには側近の呉俊陞(ごしゅんしょう)と軍事顧問の日本人、儀我誠也(ぎが せいや)少佐がいました。

列車も、軍服も、きらびやかに飾り立ててはいましたが、これは負け戦による「都落ち」でした。

蒋介石の北伐軍との戦いに破れた張作霖は、故郷奉天へと引き揚げていくのでした。

軍楽隊の演奏鳴り響く中、列車はゆっくりと北京駅のホームを離れます。

北京から奉天(現瀋陽)まで約700キロの道のりです。

列車の行く京奉(けいほう)線沿線には要所要所に関東軍の諜報員が待機していました。

諜報員は列車の通過を確認すると、旅順の関東軍本部に打電します。

「張作霖をのせた列車は二十両編成で、北京を出発」

「山海関(さんかいかん)を通過。奉天着は午前4時ないし午前5時頃のみこみ」

「天津を通過」

と。

6月4日午前5時頃、張作霖をのせた列車は薄明かりのさしはじめた奉天の町に入ります。

奉天は南満州第一の都市です。1625年、清の太祖ヌルハチが明の都北京にならって都を建設し(当初は盛京)、北京に首都が移ってからも奉天は南満州の中心地として栄えました。

日露戦争では奉天周辺で日露両軍が激しい戦いを繰り広げました。

張作霖を乗せた列車は目的地・瀋陽駅に近づくと徐行をはじめます。

やがて高架線上を南満州鉄道の線路の走る立体交差地点に差し掛かかった時、

ドゴオン

轟音が鳴り響き、

テケテケテケ、テケテケテケ…

機関銃の音が響きました。

レンガで支えられた南満州鉄道の高架線は崩れ落ち、列車は燃え上がりました。午前5時23分でした。

張作霖の乗る展望車と、それに続く食堂車の中間にねらいを定めて爆弾を炸裂させ、火災を引き起こすという、正確な仕事でした。

展望車は車輪と床だけを残し、窓も壁も吹き飛びました。機関銃を撃ったのは、南軍によるテロと見せかけるためでした。

張作霖は瀕死の重症を負い、自動車で奉天城まで運ばれました。

側近の呉俊陞は即死。軍事顧問の儀我誠也少佐は制服はボロボロながら命に別状はなく、奉天特務機関に駆け込むと、「ひどいことをするやつだ」と言いました。

張作霖の息子、張学良が知らせを受けて北京から戻ります。張学良はすぐに、

(これは関東軍の謀略だ…)

と見抜きますが、日本側を刺激することをさけて、たんに「負傷」と発表しました。

6月21日になってはじめて張作霖の死亡が発表されました。

張作霖はなぜ殺されたのか?

事件の2年前。

大正15年(1926)4月、張作霖は奉天軍を率いて北京入し、昨日までの敵・呉佩孚(ごはいふ)と手を結び、北京を中心とした華北全域の政治・軍事を握りました。

しかし、蒋介石の南京政府が中国統一をねらって北伐を開始し、張作霖・呉佩孚の華北連合政権を脅かしていました。

そんな中にも張作霖は昭和2年(1927)大元帥を名乗り、北京を中心に覇をとなえました。

さて張作霖は権力を打ち立てる過程においては日本の操り人形であるようにつとめました。

しかし華北に権力を樹立すると、張作霖は日本から離れ独自の道を歩み始めます。

中にも南満州鉄道周辺に独自の鉄道の敷設をおしすすめた「満蒙五鉄道問題」は、日本政府を刺激しました。

ただしこの鉄道問題は昭和2年(1927)7月、政友会幹事長の山本条太郎が満鉄社長に就任し、張作霖と話し合った結果、

鉄道の建設は満鉄が請け負うなどの条件で決着がつきました(山本・張協約)。

その後、田中首相もふたたび張作霖支持にまわっていました。

が、それは政府間の話。

民衆レベルでは日中の対立は深まる一方でした。

張作霖の政策に反対して満州の在留日本人がデモを起こし、その反動で中国人による排日運動が起こりました。

昭和2年(1947)9月4日、奉天で2万人の学生・商工業者がデモを行い、

「打倒田中内閣」
「打倒帝国主義」
「取消二十一箇条」

を訴えました。これまでも排日運動は何度もあったものの、「打倒田中内閣」と、総理大臣の名前まで名指しで攻撃することは、異例でした。

張作霖もこの時ばかりは日中関係の悪化を懸念し、「示威運動厳禁」の命令を出しました。

しかし田中首相は張作霖に対して表立って抗議せず、様子見を続けました。

関東軍、張作霖を見限る

田中内閣がグズクズしている一方、関東軍はとっくに張作霖を見限っていました。

4月20日、関東軍は日本の陸軍中央部に打電しました。

今後、奉天軍(張作霖)や南方革命軍(蒋介石)が満州に北上し日本人が危険にさらされるなら、関東軍は武力をもってその侵入を阻止し、武装解除させるべしと。

5月に入ると張作霖の負けはもはや時間の問題となりました。

各地で北軍は破られ、南軍は破竹の勢いで北京まで迫っていました。

日本政府が芳沢謙吉(よしざわ けんきち)公使を送って張作霖に北京から撤退するよう説得すると、張作霖ははじめしぶっていたものの、その間も次々と負け戦の報告が届くので、5月23日、ついに奉天帰還を承諾しました。

張作霖の満州引き揚げが決まると、関東軍は独自に張作霖軍を武装解除させようと、主力を奉天に集中させ、ついで錦州まで進出をはかります。田中内閣も関東軍に出動命令をいったんは下しました。

しかしこの動きに対してアメリカから抗議があり、外務省も反対したため、田中首相は出動命令を引き伸ばして、関東軍をなかなか出動させませんでした。

そうこうしているうちに、奉天引き揚げの期日が迫ります。

ここに、関東軍高級参謀、河本大作(こうもと だいさく)大佐は張作霖の暗殺を決意します。

おそらく河本はこう考えたでしょう。

このまま張作霖が奉天に引き揚げれば、張作霖は独自の政権を満州に築く。日本政府は張作霖を裏からあやつるなんて遠回しなことを言ってるうちに、張作霖は日本との関係を切り、満州における日本の権益は失われる。

ならば今、張を殺ってしまうしかない。

河本大作は前々から張作霖の暗殺計画を練っていました。

河本の計画とは、張作霖の乗った列車が南満州鉄道との立体交差にさしかかったところで爆破し、南軍のスパイがやったように見せかける。

そして事件後の混乱に乗じて南満州を占領し、日本がこれを支配する、というものでした。

河本はあらかじめ中国人浮浪者二人を殺し、これを南軍の便衣隊に仕立て、ニセの密書を抱かせ、ロシア製の爆弾を握らせて、死体を現場近くに転がしておきました。犯行を南軍のしわざと見せるための小細工でした。

※便衣隊…民間人と同じ服装で敵地に潜入し諜報活動を行うスパイ。

そして件の爆破事件が実行されるわけですが…

事件の後

河本の計画は、事件後そうそうにバレます。

事件後、関東軍は陸軍省に、張作霖の爆殺は南軍がやったことで、関東軍は関与しないと打電しました。

しかし日本側ははじめから関東軍のしわざであろうと見ており、田中首相は報告を受けたとき「親の心子知らずとはこのことだ!」と言って憤慨しました。

やがて中国側の調査がはじまると、あやしい点がいくつも見つかります。

現場に日本側が敷設した爆弾の導線が残っていたこと。

爆薬の量が多く、便衣隊に扱える規模を超えていること。

決定打は、雇っていた三人の浮浪者のうちの一人が事前に逃げ出し(他二人は河本の命令で日本兵により殺された)情報を伝えたことでした。

こうして関東軍の犯行は白日のもとにさらされ、諸外国の新聞はこぞって書きたてました。

犯行は河本大作の独断で行われたものですが、関東軍首脳部も河本の計画をうすうす知りながら、満州の権益拡大のため、黙認していたようです。

田中内閣総辞職

9月には秦真次憲兵司令官が奉天に派遣され、調査が行われました。10月には陸軍省も関東軍のしわざと認め、これを田中義一首相に報告しました。

田中首相ははじめ、犯人を軍法会議にかけ厳罰に処す方針を立て天皇にも上奏しましたが、陸軍からの猛反発をくらい頓挫すると、

今度は言論弾圧にかかりました。

新聞の報道を規制し、「張作霖爆殺事件」ではなく「満州某重大事件」と書かせました。

昭和4年(1930)6月27日、田中首相は河本大作を退役処分にし、村岡長太郎関東軍司令官を予備役にする旨、天皇に上奏しました。

この時、天皇は大いにお怒りになったそうです。

前に田中は犯人を厳罰に処すると上奏したのに、行政処分のみとは何たることか。違約であると。

そして「ふたたび田中から話をきく気はない」とまでおっしゃったといいます。

昭和4年(1930)6月28日の閣議後、天皇にふたたび拝謁を申し出たが許されなかった田中は、辞表を提出し、ここに田中内閣は総辞職しました。内閣が天皇の信任をうしなって総辞職したのは初めての例でした。

7月2日、浜口雄幸民政党内閣が発足。

田中義一は張作霖支持者であったのに、張作霖殺害事件の責任を問われる形で内閣総辞職となったのは歴史の皮肉というべきでしょうか。

浜口内閣のもと、前の田中内閣のスキャンダルが次々と暴露され、世を騒がせますが、

当の田中義一は辞任後2ヶ月で急死しました。65歳。狭心症ということですが自殺という説もあります。

張学良、国民党に入党

張学良は事態が落ちつくのを待って、昭和3年(1928)12月、満州各地に国民政府の青天白日旗を掲げ、南軍に降伏しました。そしてすぐに南京政府より東北辺防総司令官の辞令を受けます。

ここに蒋介石の北伐は完了し、全中国がほぼ統一されました。

張学良はこれまで戦ってきた蒋介石の南京政府と手を結び、今後は日本を共通の敵としてねばり強い反日運動を続けていくこととなります。

次回「世界恐慌下の日本」に続きます。

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解説:左大臣光永