行基の生涯(三)大仏造営の詔

■解説音声を一括ダウンロード
■【古典・歴史】メールマガジン
■【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル

こんにちは。左大臣光永です。

さっき北野天満宮に行ったら、小雨ふる中を紅梅・白梅咲き乱れ、雨にとけこんだ梅の香が強烈に漂っていました。服に梅の香が染み付くかと思うほどでした。本殿の檜皮葺の屋根も、雨にじっとり濡れて、黒々して、よかったです。

本日は「行基の生涯(三)大仏造営の詔」です。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

http://roudoku-data.sakura.ne.jp/mailvoice/Nara_Gyouki3.mp3

聴いて・わかる。日本の歴史~飛鳥・奈良
http://sirdaizine.com/CD/AsukaNara.html

語り継ぐ 日本神話
http://sirdaizine.com/CD/mythDL3.html

「おくのほそ道」現代語訳つき朗読
http://hosomichi.roudokus.com/CD/

過去配信分
行基の生涯(一)出家から民間伝道へ
https://history.kaisetsuvoice.com/Nara_Gyouki1.html

行基の生涯(ニ)平城京から恭仁京へ
https://history.kaisetsuvoice.com/Nara_Gyouki2.html

行基教団の活用

天平13年(741)より恭仁宮(くにのみや)の造営が始まりました。畿内を中心に多くの人員が徴収され、都づくりに駆り出されます。


恭仁宮跡(山城国分寺跡)

前年の藤原広嗣の乱につづく、急な都づくり。しかも飢饉や疫病が流行している中です。なんでこんな時期に…ぶつぶつ…人々の不満は高まりました。

聖武天皇の下、実際の政権運用にあたったのが橘諸兄(たちばなの もろえ)です。

橘諸兄は必死でした。どうしても恭仁宮の造営を押し進めないといけない。そこで目をつけたのが行基の教団です。

四半世紀にわたる弾圧に耐えた行基の精神力。教団の結束力。すばらしい。これを活用しない手はない。橘諸兄はそう考えたようです。

そこで、賀世山(鹿背山。かせやま。京都府木津川市)の東の川(木津川)に橋を作らせました。7月に着工して10月に完成しました(『続日本紀』天平13年10月16日条)。


木津川(泉川)

畿内および諸国の優婆塞(出家しないで戒を受けたもの)を徴収し工事にあたらせ、工事がすすむにつれて750人を得度させたとあります。おそらくこの750人の中に、行基の信者が多くふくまれていたと思われます。

沢田川
袖漬くばかり 浅けれど
はれ
浅けれど
恭仁の宮人 高橋わたす
あはれ そこよしや

と、催馬楽(さいばら)に歌われています。沢田川(木津川=泉川の部分名?)は袖がひたるほど浅いのに、恭仁宮の役人どもは高い橋を渡していると。つまり政府主導の工事はうまくいっていないとバカにしてます。そして、政府主導の工事がうまくいってないからこそ、橘諸兄は、民間の力に頼ったのでしょう。

恭仁大宮

恭仁宮の造営はすすみ、天平13年(741)11月21日、「大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)」と名づけられました。
(『続日本紀』天平13年11月21日条)


恭仁宮跡付近

恭仁宮があるのは山城国ですが、木津川を越えて奈良坂を超えればすぐ大和(大養徳)なので、こういったものでしょう。川口は埼玉だけど東京に近いからギリギリ東京の一部みたいな理屈ですね。『万葉集』には高丘河内連(たかおかのかわちのむらじ)が詠んだ歌として、

故郷(ふるさと)は 遠くもあらず 一重山 越ゆるが故(から)に 念(おも)ひぞわが為(せ)し(巻6-1038)

奈良の宮古は遠くもないのだ。それなのに一山越えてここ恭仁宮に来てしまったばかりに、愛しい人と会うことができなくなり、私は恋い焦がれる思いにかられることになった。

年明けて天平14年(742)正月の朝賀は、恭仁宮で行われました。ただしまだ大極殿は完成していなかったので、仮に「四阿殿(あづまやどの)」(仮設の幕屋のようなもの?)を建てて、そこで朝賀を行いました。

また石上(いそのかみ)氏および榎井(えのい)氏が大楯と槍(ほこ)を立てました。これは首都であることのしるしです。いよいよ恭仁宮は正式に都になりました。

正月16日、恭仁宮の「大安殿」で宴が催され、宴たけなわの時、五節の田舞(節句と新嘗祭の翌日に行われる田植えなどを模した舞)が奏上されました。それが終わると少年・童女に踏歌(とうか。足をふみならす踊り)をさせました。

また天下の位ある人々と各役所の職員に宴を賜りました。ここで六位以下の人々が琴を奏でて、歌いました。

新(あらた)しき年のはじめに かくしこそ つかえまつらめ 万代までも

(新年のはじめにこのように、お仕えしよう。そして万代の未来までも)

このように恭仁宮の造営はまったく安定し祝福に包まれていたかに見えました。ところがここに、別の動きがあらわれます。

紫香楽宮の造営

天平14年(742)2月、恭仁京の造営はまだ続いていましたが、

恭仁京から東北へ30キロばかり、近江国甲賀(こうか)郡にのびる道路が作られました。8月、聖武天皇は「紫香楽村に離宮を作れ」と命令を出し、はじめて紫香楽宮に行幸。以後、翌年の冬まで聖武天皇の紫香楽宮行幸は計4回におよびました。


紫香楽宮跡(滋賀県信楽 宮町遺跡)

その間、聖武天皇は恭仁京の造営と並行して紫香楽宮の造営を進めていきました。ただし紫香楽宮ははじめ正式な都ではなく「離宮」でした。

大仏造営の詔

天平15年(743)10月15日(16日)、聖武天皇は四回目の紫香楽宮行幸中、「大仏造営の詔」を出します。

「国中の銅を尽くして像を鋳造し、大きな山を削って仏殿を建て、広く仏法を広め、これを朕の智識(仏に導くための働き)としよう。…天下の富を持っているものは朕である。天下の権勢を持っているのも朕である。この富と権勢をもってすれば大仏を作ることはたやすい。しかし、それでは願いが成就するのは難しい。…一枝の草、一にぎりの土であっても助力したいものはこれをゆるす」

聖武天皇が大仏を造りたいと思い立ったのは、これに先がける天平12年(740)2月、難波宮に行幸した際、河内国知識寺の盧遮那仏を見て、気に入ったためです。自分も造りたいと思ったのです。

河内国知識寺は今は廃寺になっており、大仏といってもどんなものだったか不明です。

それにしても恭仁宮・紫香楽宮というふたつの宮を同時進行で造り、全国に国分寺・国分尼寺を建て、さらに大仏まで造るというのです。予算はどこから持ってくるつもりでしょうか。

10月16日、東海道・東山道・北陸道、三道の25カ国の今年の租庸調(税)をすべて紫香楽宮に集めるよう命令しました。いよいよ紫香楽宮で大仏造営にとりかかるための準備でした。

10月19日、聖武天皇は紫香楽宮に行幸。大仏を建立するため甲賀寺(こうかでら)の土地を開きました。またこの時、行基が弟子たちを率いて民衆に参加するよう呼びかけたとあります。


甲賀寺跡(滋賀県信楽 内裏野地区)

行基と大仏のかかわりが初めて書かれた『続日本紀』の重要な記事です。時に行基76歳。

橘諸兄は前々から行基とその信者たちの結束力と働きを買っていました。各地に道場や施設を作ることは政府の利益にもなっていました。それで、今回も行基に協力を持ちかけたのでしょう。

「俺たちを今までさんざんいじめてきた政府に!
協力するのかよ!」

「まあ、そう言うな。行基さまがおっしゃるんだから」

「そうだよ、俺たち今まで行基さまにお世話になってるじゃないか」

おそらくそんな感じだったでしょうか。

行基の信者たちは政府に協力することは抵抗を感じたかもしれませんが、行基への信頼感によって、協力したのだと思います。

大仏造営費用の勧進のために行基とその教団を登用するにあたって、政府は行基を形式上、薬師寺の所属としたようです。

国家事業に従事させるとなると、これまでのように無所属ではかっこうがつかないためでしょう。そのため『続日本紀』には行基のことを「薬師寺の僧」と紹介してあります。

とはいえこれは形式的なことで、行基が薬師寺に定住した様子はありません。

なんにしろ、政府の行基に対する態度は40年の間に大きく変わりました。

弾圧から譲歩へ。そして積極的に登用するまでになったのです。

次回「行基の生涯(四)入寂」に続きます。お楽しみに。

発売中

聴いて・わかる。日本の歴史~飛鳥・奈良
http://sirdaizine.com/CD/AsukaNara.html

第一部「飛鳥時代篇」は、蘇我馬子や聖徳太子の時代から乙巳の変・大化の改新を経て、壬申の乱まで。

第二部「奈良時代篇」は、長屋王の変・聖武天皇の大仏建立・鑑真和尚の来日・藤原仲麻呂の乱・桓武天皇の即位から長岡京遷都の直前まで。

語り継ぐ 日本神話
http://sirdaizine.com/CD/mythDL3.html

上巻「神代(かみよ)篇」下巻「人代(ひとよ)篇」。

日本の神話を、『古事記』に基づき、現代の言葉でわかりやすく語った、「語り」による「聴く」日本神話です。

ダウンロード版・CD-ROM版の両方をご用意しています。

「おくのほそ道」現代語訳つき朗読
http://hosomichi.roudokus.com/CD/

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。

『おくのほそ道』全章の原文と現代語訳による朗読とテキストpdfを含むのCD-ROMに、メール講座「よくわかる『おくのほそ道』」の配信を加えたものです。

解説:左大臣光永

■解説音声を一括ダウンロードする
■【古典・歴史】メールマガジン
【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル