行基の生涯(ニ)平城京から恭仁京へ
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大阪城の南の、真田丸周辺を歩いてきました。慶長19年(1614)大坂冬の陣で真田幸村(信繁)が築いた出城です。いくつか石碑や案内板があり、坂道が登ったり下ったり、地名も「空堀」といい、地形にも、地名にも、真田丸の面影がたしかに残っていて、嬉しくなりました。
本日は「行基の生涯(ニ)平城京から恭仁京へ」です。
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平城京遷都
和銅元年(708)藤原不比等のもと平城京遷都が決まりました。和銅3年(710)3月10日、遷都しました。
平城宮阯 復元大極殿
遷都に伴い民衆の税負担・労役負担は増し、いよいよ暮らしは苦しくなりました。
庸調(絹・布)といった税を運ぶ者(運脚夫)は行き帰りの旅費・食費など出ません。自腹です。それで都にたどりついたはいいが帰ることができず浮浪人になるもの。帰国する途中で餓死する者。労役がキツすぎて逃亡する者も相次ぎました。政府は人民の苦労など虫ケラがぴーひーいってるくらいの認識だったのでしょうか。
行基への弾圧
平城京遷都ごろから、行基の活動はいよいよ活発になります。
「所以(ゆく)の処、和尚(わじょう)来るを聞けば、巷に居(お)る人なく、争い来たりて礼拝(らいはい)す」と、『続日本紀』に記されている通りです。
行基の影響力はそうとうなものだった様子が伝わってきます。ついに政府から目をつけられます。
平城京遷都7年後の養老元年(717)4月23日の詔に、行基を名指しで非難してあります。
いったい僧と尼僧は寺の中にじっとして教えを受け道を伝えるものだ。僧尼令(僧と尼についての法律)によれば、乞食をする者があれば僧正・僧都・律師の三役の僧が連署して午前中のみ托鉢して食べ物を乞え。食べ物以外のものを乞うのをやめろ。まさにいま、「小僧行基」ならびに弟子たちが、町中に散らばって、みだりに罪だの福だのを説き、徒党を組んで、指に火を灯して焼いたり、臂の皮をはぐといった呪いの類を行い、家々にいい加減なことを説いて強引に食べ物ち以外のものまで物乞いし、偽ってよい道だと称して人民を惑わしている。出家した人もしない人も混乱させられ、あらゆる階層の民が生業をおろそかにする、一方では釈迦の教えに違反し、一方では法令を犯している(『続日本紀』養老元年(717)4月23日条)。
時に行基30歳。まあメチャクチャ言われてますね。
「小僧」つまらない僧だと。偽ってよい道だと称して人民を惑わしていると。
しかしこれだけのキツいことを言われてるのは、それほど行基の民衆に対する影響力が、大きくなっていることを示しています。
政府がこんにも行基を弾圧したのはなぜでしょうか?
農民から搾り取れなくなるからです。
農民が本業をほったらかして行基についていって、僧になったら、政府は租庸調といった税を取りっぱぐれます。
平城宮のゆたかで贅沢な朝廷生活を維持するためには、農民からムシリ取るだけムシリ取らなくてはなりません。だから行基のように農民を導く者は政府にとって邪魔でした。
その一方で、政府は僧になるための身分証明書、公験(くげん)を発行することで、しかもその資格を厳しくすることで、税をとりっぱぐれないようにしました。
政府の宥和政策
しかし、14年後の天平3年(731)の詔では、ようすが違ってきます。行基45歳の時です。
詔して曰く。比年(このごろ)、行基法師に随逐する優婆塞・優婆夷らの法の如く修行する者の、男の年六十一以上、女の年五十五以上は、ことごとく入道を聴(ゆる)す。
男は六十一以上、女は五十五以上は僧になってよしとしています。
大幅な譲歩です。
何があったんでしょうか?
一つは行基が弾圧を受けても伝道や社会事業をやめなかったこと。
一つは行基のつくる布施所や用水施設は農民だけでなく政府のためにもなっていたこと。
長屋王から藤原四兄弟の時代へ
もうひとつは時代の変化です。
養老4年(720)長年権力をふるってきた藤原不比等が亡くなります。かわって高市皇子の子・長屋王が政権を握ります。
長屋王は藤原氏が政治に口出しするのを嫌いました。不比等の四人の息子(武智麻呂・房前・宇合・磨呂)は妹の光明子を聖武天皇の皇后に立てたいと画策していました。しかし長屋王は皇族出身以外が皇后に立つのは大宝律令に違反しているといってゆずりませんでした。藤原四兄弟にとって長屋王は目の上のたんこぶになってきました。
神亀6年(729)2月、長屋王は突如、謀反の疑いをかけられ、藤原宇合らが軍勢を率いて長屋王の館を包囲。長屋王は自殺しました。
長屋王邸跡のイトーヨーカドー
こうして邪魔者・長屋王を排除すると、藤原四兄弟は晴れて政権の座に躍り出ました。8月に改元あって天平元年。長屋王を倒したことを世間にごまかすため、ことさらにめでたい元号で飾りました。ほどなく妹の光明子を聖武天皇の皇后に立てます。これで四兄弟は聖武天皇とも親戚ということになり、いよいよ藤原氏の春到来といった雰囲気がありました。
こうした中で、藤原四兄弟は宥和政策の一貫として、行基とその集団に対する弾圧を緩めたと思われます。
藤原四兄弟の死
しかし藤原四兄弟の政権は10年と持ちませんでした。天平7年(735)九州からはじまった天然痘の流行は都にもおよび、猛威をふるいました。
天平9年(737)4月から8月にかけて、四兄弟はすべて亡くなりました。
橘諸兄政権
藤原四兄弟にかわって政権についたのが橘諸兄です。橘諸兄は敏達天皇の末裔で葛城王という王族でしたが臣籍降下して橘の姓となった人物です。
橘諸兄は王族出身だけあって藤原氏が政治に口を出すのを苦々しく思っていました。それで政権を握ると反藤原氏の政策をとります。とたんに藤原氏は落ち目になりました。
翌天平10年(738)正月、聖武天皇皇女・阿倍内親王が皇太子に立ちました。内親王の立太子はこれが史上はじめてです。阿部内親王の母は不比等の娘・宮子であり、藤原氏の巻き返しをはかっての立太子でした。
それでも藤原氏の落ち目は変わりませんでした。ここに大宰少弐(大宰府の次官)藤原広嗣は不満をたぎらせていました。
藤原広嗣 略系図
「これでは藤原氏はつぶされる…」
天平12年(740)9月。藤原広嗣は吉備真備・僧玄昉の罷免を要求して、九州で反乱を起こしました。
恭仁京遷都
天平12年(740)10月、九州で反乱が続く中、聖武天皇はおかしな行動に出ます。突如、平城京を出て、伊勢に行幸したのです。以後、五年間、聖武天皇は平城京に戻りませんでした。
伊勢滞在中に藤原広嗣の乱が鎮圧された連絡が届きます。
しかし聖武天皇は平城京に戻りませんでした。伊勢から美濃・近江を経て、その間、橘諸兄の別業のあった山背国相良郡の恭仁宮(くにのみや)に遷都することを発表します。
橘諸兄を都の造営のため先発させ、天皇自身は天平12年(740)12月15日、恭仁宮に入りました。
恭仁宮跡(山城国分寺跡)
この間の聖武天皇の行動はまったくもって不可解です。現在でも諸説あって結論が出ていません。
国分寺建立の詔
『続日本紀』によれば、
翌天平14年(742)2月14日、聖武天皇は「国分寺造営の詔」を出しました(『続日本紀』による。日付は『類聚三代格』による)。場所は恭仁宮においてです。
全国に寺を建て、七重塔一基を造営する。あわせて金光明最勝王経と妙法蓮華経をそれぞれ一揃い書写させる。
また天皇自身は金泥で金光明最勝王経を書写し、七重塔一基につき一部をおさめる。全国に国分寺・国分尼寺を建立し、国分寺には僧20人。国分尼寺には尼10人を置くと。そうすれば四天王の恵みによって穀物はとれるし疫病もなくなるし、いいことづくめだと。
逆に言えば、この頃、穀物はとれないし、疫病はひどいし、悪いことばかりだったわけです…
(※国分寺・国分尼寺にまつわる詔は天平14年にはじめて出されたわけではありません。天平9年(737)に疫病が流行した時から段階的に出されていきました。『続日本紀』の記事は簡潔にするために事実をはしょっていると思われます)
行基が国分寺造営に関わったという説もありますが、公式の歴史書である『続日本紀』にその記録はありません。後に行基は政府に取り立てられますが、この頃はまだ弾圧されている立場です。行基が国分寺造営に関わる場面はなかったと思われます。
次回「大仏造営の詔」に続きます。お楽しみに。
告知
聴いて・わかる。日本の歴史~飛鳥・奈良
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第一部「飛鳥時代篇」は、蘇我馬子や聖徳太子の時代から乙巳の変・大化の改新を経て、壬申の乱まで。
第二部「奈良時代篇」は、長屋王の変・聖武天皇の大仏建立・鑑真和尚の来日・藤原仲麻呂の乱・桓武天皇の即位から長岡京遷都の直前まで。
「おくのほそ道」現代語訳つき朗読
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月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。
『おくのほそ道』全章の原文と現代語訳による朗読とテキストpdfを含むのCD-ROMに、メール講座「よくわかる『おくのほそ道』」の配信を加えたものです。