藤原道長の生涯(三)兼通・兼家兄弟の争
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日本の歴史~平安京と藤原氏の繁栄・院政と武士の時代
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しばらくこの商品に関連して「藤原道長の生涯」をお届けしています。本日は第三回「兼通・兼家兄弟の争い」です。
今回はとても入り組んだ話なんですが…ようするに「藤原氏の権力争いの末に藤原兼家が勝った」という話です。
「藤原氏の権力争いの末に藤原兼家が勝った」
まず話の大筋はそこであると、頭の片隅に入れた上で聴いてください。
系図を見ながら聴いてくださると理解の助けとなると思います。
過去配信分はこちら
http://history.kaisetsuvoice.com/Michinaga01.html
http://history.kaisetsuvoice.com/Michinaga02.html
円融天皇の御世初め
安和2年(969)8月=安和の変の5ヶ月後、冷泉天皇は譲位して、皇太弟(天皇の弟)の11歳の守平親王が即位します。円融天皇です。
円融天皇がどんな天皇だったかというと…その15年間にわたる治世の間、藤原氏の権力争いにさんざん引っ張り回された、気の毒な天皇というほかありません。
東宮(皇太子)には、昨年生まれた冷泉天皇の皇子・師貞(もろさだ)親王が立てられました。後の花山天皇です。
そして幼い円融天皇を補佐して藤原実頼が摂政太政大臣を務めます。
譲位した冷泉上皇は冷泉院という御所に移り、なお40年あまりの歳月を生き、寛弘8年(1011)10月、62歳で崩御しました。
冷泉天皇陵(京都市左京区)
冷泉天皇陵(京都市左京区)
冷泉「上皇」となってからもその狂気はおさまりませんでした。藤原道長の屋敷に御幸した時、火をつけようとしたとか、堀に渡した板の上を歩いたなど伝わっています。
安和2年(969)10月、左大臣藤原師尹が病で亡くなります。病は疱瘡とも声が出なくなる奇病とも言われます。
せっかく安和の変で源高明を失脚させて左大臣の座を射止めたのに、たった7ヶ月で帰らぬ人となったのです。世間は噂しあいました。「安和の変で失脚した源高明の祟りだ」と。
翌年、摂政太政大臣・藤原実頼が亡くなると実頼の甥で円融天皇の叔父にあたる伊尹(これただ)が摂政となります。
その伊尹も二年後に亡くなると伊尹の弟の兼通(かねみち)が関白となって円融天皇を支えました。
このあたり、「ややこしい」と思われる方がほとんどだと思います。
似た名前ばかりでサッパリわからん。誰が誰なんだと!
しかし人名や系図を、あえておぼえる必要はありません。ようするに、ゴチャゴチャと権力争いが続いた、という話です。
そして権力争いの末に最終的に勝利したのが藤原兼家であると、話の大筋はそこです。
兼通・兼家 兄弟の争い
さて藤原師輔には10人の男子がいましたが、そのうち長男の伊尹(これただ。顕徳公)・兼通(かねみち)・兼家(かねいえ)が勢いを伸ばしていきました。まず長男の伊尹が円融天皇の摂政となりました。
残る兼通・兼家兄弟の間で熾烈な出世競争が行われましたが、…先に位を進めたのは弟の兼家のほうでした。このまま行けば伊尹の後を嗣ぐのは兼家になりそうでした。
しかし。
天禄3年(972)11月、長男の伊尹が亡くなると、大方の予想を裏切って兼通が関白内大臣に抜擢されます。当時、兼通は権中納言、兼家は大納言。兼家のほうが位が高かったにもかかわらずです。
ここには裏話がありました。
兼通は10年以上前に、円融天皇の母であり自身の妹にあたる安子から、「関白にするなら兄弟の順に」と書付をもらっていたのです。兄伊尹が亡くなると、兼通はそのタイミングで、その書付を円融天皇に見せました。
「母上が…そのように…!」
親孝行な円融天皇は亡き母の言葉ときいて、兼通を関白にすることに決めたといわれます。
「やられたッ…!!」
兼家は兄兼通に出し抜かれた形です。
さて関白になった兼通は弟兼家にロコツな嫌がらせを始めます。「弟のくせに先に昇進しやがって。むかついていたのだ」と、ばかりに。
関白となった兼通はその権力をぞんぶんにふるい、弟兼家の昇進を完全にストップさせました。その上、従兄弟の頼忠を相談役として、兼家を政治の場から締め出してしまいました。
「これでワシの天下だ」
弟兼家を締め出して驕り高ぶる兼通。
しかし病には勝てませんでした。
貞元2年(977)兼通は重い病にかかりました。
「せっかく権力の座を射止めたのに…虚しく死んでいくのか…」
喜んだのは弟の兼家です。
「いままでさんざんやってくれたが、死んでしまったらどうにもならんだろう。
兄上が死んだら関白の位は私のものだ。今のうちに帝に頼んでおこう」
そう思った兼家は、牛車に乗って内裏に向かいました。さて兼家の屋敷は東三条邸。その西に兄兼通の堀河邸がありました。内裏はさらにその西にあるので、内裏に行くには兄の屋敷の前を通らねばなりません。
兼家の牛車が兼通の堀河邸に近づいてくるのを兼通の家来が見て、兼通に報告します。
「なに…兼家が来た?ああ…やはり兄弟だな。
長年いがみあってはきたが、肉親の情とは、ありがたいことよ」
そんなこと言ってしみじみしてましたが、兼通の予想に反して兼家は屋敷の前を通り過ぎ、内裏に向かいました。
「おのれ、帝に頼み込もうという腹か!
兄が死にかけているのに…それならわしにも考えがある!」
兼通は家人たちが止めるのも聞かず参内し、人々に支えられながら円融天皇の御前に進み出ると、
「最後の除目を行います」
そう言って、関白職を従兄弟の頼忠に譲り、弟兼家の右大将の職務を停止してしまいました。弟兼家が万一にも関白になれる道をふさいだのです。憎き弟への死ぬ前の置き土産のつもりだったでしょう。こうして安心すると、翌月に、兼通は亡くなりました。享年53。
「くっ…どこまでも業突く張りな兄であった!」
出世の道を塞がれた兼家はどうしようもない。家でふてくされて引きこもっていました。しかし関白をついだ頼忠は穏やかな性格の人物でした。兼家と衝突するようなこともありませんでした。
そもそも頼忠は兼通・兼家兄弟と違って天皇家とつながりもなく、兼通が兼家を排除するために強引に関白にされただけでした。自分はつなぎにすぎない。聡明な頼忠はじゅうぶんにそのことを理解していました
そんなわけで兼通の没後、しばらく兼家は引きこもってましたが、じょじょに勢いを取り戻し右大臣にまで至ります。
また兼家は後宮工作を順調にすすめていました。娘超子(ちょうし)を冷泉上皇の女御として入れ、居貞(いやさだ)親王(後の三条天皇)・為尊(ためたか)親王・敦道(あつみち)親王の三皇子が生まれていました。ちなみに為尊親王・敦道親王の兄弟は後に和泉式部と恋の浮名を流したことで有名です。
また、円融天皇の女御として入れた詮子(せんし)からは懐仁(かねひと)親王…後の一条天皇が生まれていました。関白頼忠も、兼通も、娘を後宮に入れていましたが男子が生まれたのは兼家の娘だけでした。後宮戦争に、兼家一人勝ちしたのでした。
「よしよし。いい風が吹いている!」
そんな感じで、すべては藤原兼家の思うままに進んでいきました。
永観2年(984)8月、円融天皇が譲位し、冷泉上皇の皇子で東宮の師貞(もろさだ)親王が即位します。花山天皇です。17歳でした。すぐさま懐仁親王が東宮(皇太子)に立てられます。関白は引き続き藤原頼忠が務めました。
これで懐仁親王が次期天皇として即位すれば、兼家は晴れて天皇の外戚となれるのです。しかし、その時がいつ来るかが問題でした。
なにしろ新帝・花山天皇は17歳。たとえば今後50年も長生きして位にあり続けることもあるかもしれません。藤原兼家としては、それでは困るのです。花山天皇には、さっさとやめてほしいのです。
「なんとかいい手は無いものか…」
兼家は虎視眈々と、花山天皇追放の機会を狙っていました。その機会は半年後、訪れます。
次回「花山天皇のご出家 寛和の変」に続きます。お楽しみに。
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第五回。51番藤原実方朝臣から68番三条院まで。平安王朝文化華やかなりし一条天皇の時代に入っていきます。清少納言・紫式部・和泉式部といった女流歌人のエピソードも興味深いところです。