藤原道長の生涯(ニ)安和の変

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先日、学習院大学の学園祭に行ってきました。昔とくらべてアルコールに厳しくなってました。ビールの販売は15時30分以降、最高三杯までというルールになってました。時代の流れでしょうね。私の頃は朝から飲んでてメチャクチャでした。

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本日は「藤原道長の生涯(ニ)」安和の変です。

「白状しろ!誰が黒幕だ!」

「ぐひいいいぃぃぃぃ。喋ります。喋ります。…左大臣源高明(みなもとのたかあきら)さまです!」

新帝・冷泉天皇

康保4年(967)5月、聖帝のきこえ高い村上天皇が崩御し、18歳の冷泉(れいぜい)天皇が践祚します。

※践祚とは、前天皇が亡くなってただちに皇位継承の証である剣と玉璽が新帝のもとに遷されることです。その後、日を置いて即位式が行われます。もともと「践祚」とと「即位」は同時に行われましたが、平安時代以降は別に行われるようになりました。

新帝・冷泉天皇のもと、関白太政大臣を藤原実頼(ふじわらのさねより)が、左大臣を源高明(みなもとのたかあきら)が、右大臣を藤原師尹(ふじわらのもろただ)がつとめます。

冷泉天皇は18歳ですので、ふつうなら摂政も関白も必要としません。しかし狂気を噂される人物ですので…藤原氏の中でも長老格の実頼が関白となって支えることになったのでした。

御即位の後も冷泉天皇の狂気はおさまることがなく、宮中で大声で歌を歌ったと、それを警護の役人が耳にしたと伝えられます。

冷泉天皇陵(京都市左京区)
冷泉天皇陵(京都市左京区)

冷泉天皇陵(京都市左京区)
冷泉天皇陵(京都市左京区)

左右の大臣

もう一度、冷泉天皇以下の主要人物を整理します。関白太政大臣 藤原実頼・左大臣源高明(みなもとの たかあきら)・右大臣藤原師尹(ふじわらの もろただ)。

このうち左大臣源高明が、今回のお話…「安和の変」の主人公です。

源高明は醍醐天皇皇子で村上天皇の異母兄に当たります。しかし母方の身分が低いため皇位継承などとは無縁でした。7歳で臣籍降下して源氏となりました。

源高明は学識にすぐれ村上天皇に重く用いられました。ことに宮中の儀式しきたりについての知識にくわしく『西宮記(さいきゅうき)』という書物を書きました。

関白太政大臣 藤原実頼は早くから源高明と結びつきを強めていました。

藤原実頼も源高明と同じく宮中の行事やしきたりに知識があったため、同じ学問分野を共有している、ということからも、藤原実頼は源高明と結びついたのです。

藤原実頼は源高明に三の君(三女)を嫁がせ、三の君が死ぬとついで五の君(五女)を嫁がせてまで、源高明との結びつきを強めていきました。

さて関白太政大臣 藤原実頼・左大臣源高明につぐもう一人の登場人物は右大臣・藤原師尹(ふじわらの もろただ)です。

七歳年上の兄・師氏(もろうじ)を飛び越して権中納言となり、以後順調に出世していきました。「腹悪しき人」という評価があり、陰謀好きな人物だったようです。

師尹が娘芳子を村上天皇の後宮に入れ、芳子が村上天皇よりたいへんな寵愛を受けたさまはすでにお話しました。

立太子

とにかく冷泉天皇のもと、関白太政大臣 藤原実頼・左大臣源高明(みなもとの たかあきら)・右大臣藤原師尹(ふじわらの もろただ)の三者体制でスタートしたのです。

関白太政大臣 藤原実頼が左右の大臣にいいます。

「さて各方、新帝の御世と相成りましたが…
早急に決めるべきことがございます」

それは東宮(皇太子)を立てることでした。冷泉天皇の狂気を考えると、いつご崩御ということにもなりかねない。うかうかしていられませんでした。

そこで東宮の候補者としては、冷泉天皇には二人の同母弟、為平(ためひら)親王と守平(もりひら)親王がいました。順序からいえば為平親王が東宮に立つのがよさそうでした。

為平親王はこの年16歳。父村上天皇からも母皇后安子からもことに愛され、将来は皇太子に立つものと周囲からも期待されていました。本人もそのつもりでいました。

皇太子といえば将来の天皇ですから、有力な貴族たちは競って自分の娘を嫁がせようとします。その中で勝を制したのが源高明でした。高明は娘を為平親王に嫁がせました。

さてここで。為平親王が皇太子に立ってしまうと、藤原氏にとって面白く無いことになります。将来は源高明が天皇の母方の親戚…外戚となってしまう可能性が出てくる。藤原氏による摂関政治が崩されてしまう。

「それは何としても避けねばならぬ」

康保4年(967)9月、9歳の守定親王が、兄の為平親王をさしおいて東宮に立てられます。後の円融天皇です。おそらく「腹悪しき人」藤原師尹が、源高明の台頭をおそれて、強くゴリ押ししたんでしょう。

「ひどいなあ。藤原北家のやりようときたら…」
「気の毒なのは為平親王と源高明殿だよ」

そんなふうに世間の人は言い合いましたが…藤原北家の権力の前に誰もなすすべもありませんでした。

冷泉天皇の即位式

康保4年(967)10月、内裏内の紫宸殿(ししんでん)で冷泉天皇の即位式が行われます。

現京都御所 紫宸殿
現京都御所 紫宸殿

本来、即位式は内裏の外の大極殿で百官を前に行うのが筋でした。しかし冷泉天皇の狂気を考えると、大極殿では遠すぎて心配でした。万一発作でも起こしたら大変です。

そこで、

天皇の日頃のお住まいである清涼殿からほど近い紫宸殿で即位式を行うこととなりました。これは関白太政大臣 藤原実頼の提案でした。

「さすが実頼殿。よく考えている」

世間は実頼の心配りを褒めました。

しかしその後も、冷泉天皇には異常行動が目立ちました。神璽をおさめた箱を開けようとしたり。宮中に伝わる貴重な笛を刀で切ってしまったり。

それでも宮中の奥深くにいれば、世間には隠しておけますが、即位一年目の大嘗祭だけは天皇が外に出なければなりませんでした。

毎年天皇がその年に収穫された新しい穀物を召し上がる行事を新嘗祭といい、特に即位の年は大嘗祭といって盛大に行われます。

この時、天皇は内裏を出て鴨川まで往復しなければなりません。

鴨川往復の間、冷泉天皇に発作が出たら…?

関白太政大臣藤原実頼はじめ役人たちはビクビクしました。

しかし鴨川往復の間、天皇はしゃんとしており、何も問題も起こりませんせてした。

「なんだ、ちゃんとしているじゃないか。一安心だ」
「何を言うか。あれは亡くなった藤原師輔殿の霊が、天皇を後ろから支えておられたのだぞ」

そんな噂も立ったのでした。

大嘗祭が終わった安和元年(968)10月26日、冷泉天皇に第一皇子が生まれました。

師貞(もろさだ)親王、母は亡き師輔の長男・藤原伊尹(これただ)の娘懐子(かいし)。この師貞(もろさだ)親王が後の花山(かざん)天皇です。

安和の変

こういう状況の中、起こったのが安和の変です。

安和の変…とても入り組んでわかりにくい事件です。簡単に言うと、左大臣源高明が藤原氏の陰謀によって左遷されたという話です。

安和2年(969)3月25日、宮中にとんでもない知らせがもたらされました。

「謀反ですッ!!」

左馬助(さまのすけ)源満仲(みなもとのみつなか)、前武蔵介(さきのむさしのすけ)藤原善時の二人が、中務少輔(なかつかさのしょう)橘繁延(たちばなのしげのぶ)・左兵衛大尉(さひょうえのだいじょう)源連(みなもとのつらぬ)の謀反を密告してきたのです。

「なんということだ。早めに手を打たねば!」

右大臣藤原師尹以下、公卿が宮中に参内し、臨時会議が行われます。密告状はすぐさま太政大臣藤原実頼に届けられ、橘繁延・蓮茂という僧侶・前相模守藤原千春(藤原秀郷の息子)など、関係者を逮捕し、尋問に入ります。

また犯人が逃亡した場合にそなえて各地の関所を固める役人(固関使(こげんし))を派遣しました。その慌ただしさは、さながら30年前の平将門の乱のようであったといいます。

「白状しろ!誰が黒幕だ!」

「ぐひいいいぃぃぃぃ。喋ります。喋ります。…左大臣源高明さまです!」

「なんと…!」

関係者がこのように白状したことは、すぐさま関白太政大臣藤原実頼に伝えられます。

源高明がおこしたという「謀反」が具体的にどんな内容だったかわかりませんが、状況から言って、

「冷泉天皇を廃して、為平親王を天皇に立てる」というものだったと思われます。

「ぐぬぬ…これは国家への反逆だ!すぐさま左大臣源高明を捕らえよ!」

関白太政大臣藤原実頼の命令で、検非違使の役人たちが左大臣源高明の屋敷を取り囲みます。

「左大臣源高明殿、朝家の転覆を図った罪、いかにも許しがたい。
よって菅原道真公の例にならい、大宰権帥として大宰府送りとする」

「くっ…はめられた!」

弁解の余地も与えられませんでした。源高明は捕らえられ、粗末な網代車に乗せられて連行されていきました。

翌3月27日、密告した功績により、源満仲・藤原善時の二人は位を進められました。

さて左大臣源高明が失脚したことにより左大臣の席が空きました。そこで右大臣藤原師尹が左大臣となり、右大臣には大納言藤原在衡(ありひら)が就任しました。

以上が安和の変の概要です。

ようするに、左大臣源高明が藤原氏の陰謀で失脚させられたという話です。左大臣源高明は藤原氏にとって邪魔でした。高明は冷泉天皇皇子為平親王に娘を嫁がせており、為平親王を東宮に立てることは藤原氏の横槍により失敗したものの、依然として政界で強い力を持っていました。

藤原氏にとって源高明は邪魔だったのです。それで、陰謀によって失脚させたというわけです。じゃあ藤原氏のうち、誰が事件の黒幕なのか?そこは、諸説あってハッキリしません。

しかし安和の変で一番トクしたのは右大臣から左大臣に昇進した藤原師尹ですので、師尹が一番「あやしい」と見るのが筋でしょう。

まさしく菅原道真の大宰府送りを再現したような事件でした。くしくも源高明も菅原道真のように学問文芸にすぐれ秀才のほまれ高い人物でした。菅原道真と重なって思えます。

しかし、源高明は大宰府に流されて二年余りして赦免され、事件から三年目の天禄3年(972)、平安京に戻ってきました。そして天元5年(982)69歳で亡くなりました。

「安和の変」が菅原道真事件のように有名でないのは、流されはしたけれども戻ってきたので、菅原道真と比べて悲劇性が薄く、感動をよばないことと、やはり話が複雑すぎるせいでしょう。

承和の変(842年)、応天門の変(866年)、菅原道真の左遷(901年)と続いた藤原氏による「他氏排斥」は、この、「安和の変」をもって終わりました。

以後、藤原氏に対抗しうるような氏族はいなくなりました。ところがそうなると今度は、藤原氏内部での争いが激しくなっていきます。

次回「兼通・兼家兄弟の争い」に続きます。

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12/22 京都講演「声に出して読む 小倉百人一首」

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第五回。51番藤原実方朝臣から68番三条院まで。平安王朝文化華やかなりし一条天皇の時代に入っていきます。清少納言・紫式部・和泉式部といった女流歌人のエピソードも興味深いところです。

解説:左大臣光永

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