藤原道長の生涯(一)藤原忠平の息子たち

こんにちは。左大臣光永です。先日は、学習院大学の同窓会で東京に行ってきました。目白で夜ふけまで飲んで、楽しいひとときでした。目白通りの雰囲気は一年前と変わらないものの、潰れた店、新しくできた店があり、時は流れてるなァと実感しました。

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さて本日から藤原道長についてお話ししていきます。

藤原道長といえば、娘を次々と天皇に嫁がせて天皇家の外戚として絶対的な地位を築き、

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
欠けたることも なしと思へば

と詠んだことで有名ですよね。

第一回は「藤原忠平の息子たち」。道長の曽祖父・忠平と、その三人の息子たちについて語ります。

貞信公=藤原忠平

藤原道長の曽祖父を藤原忠平といいます。

藤原忠平は摂政・関白として朱雀・村上両天皇に仕えました。藤原良房とその養子基経にはじまった摂関政治を忠平はより充実させました。

人格は温厚篤実。兄時平が菅原道真を左遷に追いやる一方、忠平は道真の政治家としての能力を評価し、左遷された後もたびたび手紙を送り、道真の死後もその名誉回復につとめました。

また宮中の儀式や作法に通じ深い知識を持っていました。

小倉山峰の紅葉葉心あらば
今ひとたびの御幸待たなむ

藤原忠平の歌は小倉百人一首26番に採られています。宇多上皇が大堰川に御幸された時、息子の醍醐天皇にも、この素晴らしい紅葉を見せてやりたかったとおっしゃったのを受けて、お供していた藤原忠平が詠んだ歌です。次に醍醐天皇が行幸するまで紅葉よ、色褪せないで待っていてくれと。風情のある詠みっぷりです。

天暦3年(949)、藤原忠平は70歳で亡くなります。死後、貞信公と諡(おくりな)されました。

三兄弟の争い

貞信公=藤原忠平の没後、三人の息子たちは父忠平の儀式作法についての知識を受け継いでそれぞれ家を起こしました。

長男・実頼(さねより)の小野宮(おののみや)流、次男・師輔(もろすけ)の九条流、三男・師尹(もろただ)の小一条流です。三者三様、じぶんこそ正しく父の遺志を継いでいるのだと張り合って、それぞれの家を起こしました。長男の実頼はまじめで実直なタイプ、次男の師輔は社交的で明るいタイプだったといいますので、性格的にも対立したんでしょうか。

儀式・作法のことだけではありません。

実頼・師輔・師尹の三兄弟は、政治的にも対立しました。

三人それぞれが、天皇の後宮にわが娘を入れ、皇太子に立てようという熾烈な競争が行われました。

長男実頼は村上天皇即位のはじめから娘の述子(じゅつし)を村上天皇の女御として後宮に入れました。次男師輔は娘の安子(あんし)を、三男師尹は娘の芳子(ほうし)を後宮に入れました。

宣耀殿の女御

中にも師尹の娘の芳子は宣耀殿の女御(せんようでんのにょうご)と呼ばれ、容貌すぐれて美しい女性でした。村上天皇は芳子を深く寵愛されました。

髪の長さは当時の美人の条件ですが、芳子はその点、特にすぐれていました。車に乗っても髪の最後が縁側を越えて内の柱のあたりまで届いたとか、大きな檀紙に芳子の髪一筋を抜いてを置いたいったところ、白いところがまったく無くなったなど伝えられています。

髪の長さだけではないです。芳子は『古今和歌集』全1100をすべて暗記していました。これは父師尹の教育のたまものでした。ある時、村上天皇が本当におぼえているか試験したところ、一句も間違わずスラスラと暗唱してみせたといいます。

芳子が試験されると聞いて、父師尹は方々の寺に祈願させたといいます。このような学識もある女房だったため、村上天皇は芳子に夢中になられました。

憲平親王の誕生

このように実頼・師輔・師尹の三兄弟は、それぞれ自分の娘を村上天皇の後宮に入れてしのぎを削りました。やがて次男の師輔に運がめぐってきます。天暦元年(947)5月、長男実頼の娘述子が亡くなったのです。

その後、次男師輔の娘安子は村上天皇の寵愛を受け、天暦5年(950)5月、皇子を生みます。憲平親王…後の冷泉(れいぜい)天皇です。

藤原元方の嘆き

しかし、これで師輔にとって万々歳とはなりません。憲平親王の上にはすでに広平(ひろひら)親王という兄がいました。母は中納言藤原元方の娘・佑姫(すけひめ)。広平親王は憲平親王よりわずか数ヶ月先に生まれたようですが、この広平親王が皇太子に立てば、師輔としては面白くないです。

広平親王の外祖父・藤原元方は大いに願っていました。「この子が皇太子に立ってほしい」と。しかし、元方は東宮のバックとなるには家柄がよくありません。藤原氏といっても権勢さかんな北家ではなく、落ち目の南家です。パッとしません。

対する師輔は、前関白太政大臣藤原忠平の息子・藤原北家の嫡流・現右大臣という毛並みのよさです。憲平親王と広平親王と、どっちを皇太子に立てるかという話になると、師輔を外祖父にもつ憲平親王の側が圧倒的に有利でした。

天暦5年(950)7月23日、はたして憲平親王は生後三ヶ月で皇太子に立てられました。兄である広平親王をさしおいてです。藤原元方と娘の佑姫の嘆き悲しみは大変なものでした。

その後、安子は二人の親王を生み、ほかの女性からも男子が生まれ女子が生まれ、結局、村上天皇は九男十女を持つこととなりました。しかし落ち目の藤原元方に一切関係の無い話でした。

「無念…」

藤原元方は天暦7年(953)正三位大納言民部卿という地位を最後に世を去ります。ついで佑姫も、広平親王も世を去ります。報われない父娘ではありました。

憲平親王の狂気

中世の世の中では無念を抱いて死んだ者は怨霊になる、というのが定石です。

皇太子に立ったばかりの憲平親王(後の冷泉天皇)の上に、それは現れました。

「ほっ、はっ、ほっ…」

ある時、憲平親王は一生懸命、蹴鞠を蹴っていました。はじめお付きの人々は、ああ熱心にやってるなと思いました。しかし、どうも様子がおかしい。何かに取り憑かれたように、険しい表情でひたすら鞠を蹴り上げているのです。きくと、

「見てわからぬか。この鞠を天井の梁に乗せたいのだ」

蹴鞠の鞠を天井の梁に乗せる。そんなことに一生懸命になっているのでした。人々はこの時はじめて親王の狂気を疑ったといいます。

その後も親王の異常行動は続きました。

清涼殿の番小屋の屋根に座り込んだり、父村上天皇からの手紙の返事に、男根の絵を描いたり…

まあ現在の感覚でいえば、ちょっと変人なだけだったようにも思いますが、外祖父の師輔も、母の安子も非常に心配しました。

「これは藤原元方の祟だ。怨霊が祟っているのだ」

あらゆる加持祈祷が行われましたが、効き目はありませんでした。そうこうしているちに師輔は世を去り、安子も、ついで村上天皇も世を去ります。こうして、康保4年(967)5月、冷泉天皇が位につきました。

次回「安和の変」に続きます。お楽しみに。

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