自由民権運動(四・最終回)大日本帝国憲法の制定

こんにちは。左大臣光永です。

私の子供の頃は「ファミリーコンピュータ」が発売された頃で、近所のファミコン持ちの家に集まって、「スーパーマリオ」などでよく遊びました。ポテトチップをばりばり食べながらファミコンをやるので、コントローラーのボタンが油でぬるぬるしていた、あの感じが、子供時代の実感として、いまだに思い出します。

本日は「自由民権運動」の第四回(最終回)「大日本帝国憲法の制定」です。

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明治7年(1874)征韓論に敗れた板垣退助が、後藤象二郎・江藤新平らとともに政治結社「愛国公党」を設立。民主的な議会をのぞむ民選議院設立建白書を政府に提出しました

これより明治23年(1890)帝国議会の開設あたりまで、十数年間にわたって行われた政治運動を「自由民権運動」とよびます。憲法の制定、国会の開設、地方自治の確立、不平等条約の改正などを訴えました。

本日は第四回(最終回)「大日本帝国憲法の制定」です

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前回までの配信

自由民権運動(一)板垣死すとも…
https://history.kaisetsuvoice.com/Meiji_jiyu1.html

自由民権運動(ニ)明治14年の政変
https://history.kaisetsuvoice.com/Meiji_jiyu2.html

自由民権運動(三)多発する暴発事件
https://history.kaisetsuvoice.com/Meiji_jiyu3.html

板垣死なずに自由は死んだ

年々高まる自由民権運動の暴発事件によって政府は態度を固くしていきました。

明治17年(1884)7月、政府は華族制度を定め、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五爵が設けられました。

しかも三年後には自由民権派の巨頭といえる大隈重信、板垣退助、後藤象二郎が伯爵に列せられました。政府による民権派切り崩し作戦の一貫でした。

「爵位など、論外であるッ!華族制度じたいが、間違っている!」

板垣退助はそう言って辞退しようとしました。しかし政府がやるというものを拒めるものでもありませんでした。

板垣としては伯爵になるのは不本意だったのです。

しかし民衆はそうは見ませんでした。

かつて岐阜の遊説中に暴漢に襲われ、「板垣死すとも自由は死せず」と言い放った(という)、その人が体制側に取り込まれた。

裏切りだ!

やっぱり権力が大事かよ!

「板垣死なずに自由は死んだ」と、揶揄する声が上がりました。

三大事件建白運動

明治19年(1886)10月、自由民権派は東京で全国の有志を集めた懇親会を開きます。

「我々は自由を求めているのに。味方同志で争ってばかりいる。これはいけない。一致団結すべきだ」

ここに民権派は手を結び、日に日に弾圧を強化する政府に抵抗する構えをしめしました。

彼らの政府に対する要求は3つありました。

・地租の軽減
・言論集会の自由
・条約改正

これら3つの要求を政府に盛んにつきつけました。これを三大事件建白運動といいます。特に高知の民権派は鼻息荒く、建白書の末尾に「生きて奴隷の民たらんよりは死して自由の鬼たらん」としるしました。一時停滞していた自由民権運動はふたたび盛んになりました。

政府は保安条例を発布して、集会や言論活動を取り締まりました。保安条例によって運動は一時静まりましたが、「伯爵」である後藤象二郎がリーダーとなって全国で遊説活動を行い、民権派は大いに奮い立ちました。

大日本帝国憲法(だいにほんていこくけんぽう)の発布

明治18年(1885)12月、政府は太政官制をやめて内閣制に移行し、伊藤博文が初代内閣総理大臣となりました。

それまで皇族や華族がになっていた権限は、内閣がになうことになりました。この内閣制への以降ということは欽定憲法制定に向けての、準備でした。

政府としては民権派がワアワアいってる中、国民主権の憲法など作られたら、たまったもんではない。憲法を作るのはもう仕方ないが、あくまでも天皇主権の、欽定憲法(君主から国民に与えられる憲法)でなければなりませんでした。

だから政府が内閣制を取り入れ、憲法制定に動き出したのは、民権派の動きを封じ、先手を打つためでした。

明治20年(1887)から、内閣総理大臣伊藤博文のもと、憲法草案の作成が秘密裏に進められました。主にプロイセンの欽定憲法を参考にしました。

明治21年(1888)4月、最終草案が完成し、発足したばかりの枢密院で審議にかけられます。

翌明治22年(1889)2月11日、この日、皇居の正殿にて、午前10時30分から憲法発布の式典が開かれました。皇族、大臣、役人、各国の公司が見守る中で、明治天皇より黒田清隆首相に憲法が授けられました。

全76条からなる「大日本帝国憲法(だいにほんていこくけんぽう)」です。

天皇は国の元首として統治権を総攬(そうらん)し、法律の裁可、議会の召集、衆議院の解散、陸海軍の統帥・編成、宣戦・講話、条約の締結、文武官の任免、緊急勅令の発布など、広い権限が定めてありました。

帝国議会は衆議院・貴族院の二院制で、立法や予算議定などの権限があると定められました。現在の議会に比べればその権限はとても小さなものでしたが。

国民は公務への就任、請願の権利、法律によらない逮捕の否認、言論・出版・集会・結社・信教の自由、所有権の不可侵などが制限つきながら認められました。

民権派のめざした民主的な憲法とは、ほど遠いものでしたが、それでも一応、憲法でした。

ここに天皇中心の国家体制が確立され、日本はアジア唯一の立憲国家となったのです。

憲法発布と同時に、皇室に関する基本法である「皇室典範」が発布されました。即位式、皇位継承などについて規定されました。

初の総選挙

憲法制定の翌年の明治23年(1890)7月1日、日本初の総選挙が行われました。選挙権があったのは全国民4000万人の1%程度でしたが、それでも民権派政党(=民党)が衆議院の過半数を制しました(大同倶楽部55人、立憲改進党46人、愛国公党35人、九州同志会21人、自由党17人、計174人)。

「まずい。これはまずい」

政府は危機感をいだきました。民権派のそれぞれの政党は小さくても、全体の合計でいえば過半数を制するほどの数がある。なんとかしなければ。

そこで、民権派各党が連携することを防ぐため、「集会及政社法(しゅうかいおよびせいしゃほう)」を制定し、集会や政治結社の活動に制限をくわえました。

しかしこのような小細工は火に油をそそぐだけでした。

紛糾する帝国議会

明治23年(1890)11月、初の帝国議会が開かれました。山県有朋内閣は国防の重要性をとき、軍事費の増大をうったえました。これに民権派各党は反対し、予算削減をはかり、議会は紛糾しました。

翌明治24年(1891)11月に開かれた第2回帝国議会でも、軍事費の増大をはかる政府と、予算縮小をはかる民権派政党の間で対立が続き、第一次松方正義内閣は衆議院の解散に追い込まれました。

明治7年(1874)の「民選議院設立建白書」以来、10数年間にわたった自由民権運動は、このあたりが収束の時期とみるべきでしょう。しかしまだまだ自由への道のりは遠く、以後は議会に場をうつして、その戦いは続いていくことになります。

参考文献
『自由民権運動への招待状』安在邦夫 吉田書店
『自由民権』色川大吉 岩波新書
『自由民権運動-〈デモクラシー〉の夢と挫折』松沢 裕作 岩波新書
『日本の歴史21 近代国家の出発』色川大吉 中公文庫
『板垣退助』 高野 澄 歴史人物シリーズ―幕末・維新の群像5 PHP研究所

次回から「一休宗純」について語ります。お楽しみに!

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岩倉米欧使節団
https://youtu.be/SV58LVRUIJ4

明治4年(1871)から明治6年まで、岩倉具視、木戸孝允はじめ明治政府の首脳部がアメリカ・イギリスはじめ全12ヵ国を巡察。長く鎖国体制下にあった日本にとっては、大きなカルチャーショックとなりました(32分)。

明治の廃仏毀釈
https://youtu.be/iIOI8Xt38Yc

慶応4年(1868)明治政府が出した「神仏分離令」を発端として、神社関係者や民衆によって、仏教弾圧・仏教排斥の嵐が全国で吹き荒れました(24分)。

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解説:左大臣光永