自由民権運動(ニ)明治14年の政変

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こんにちは。左大臣光永です。

熊本の水害でお亡くなりになった方々のご冥福を心よりお祈りいたします。

私は熊本出身ではありますが、人吉はあまり行ったことがありません。

3年前、ふらっと行ってきました。球磨川下り、はじめて体験してきました。

ふなべりに座っていると、ざばざばと水しぶきがかかって、

水面に指をつけると、つうっと冷たかったこと、よくおぼえています。

人吉は元天領であるだけに、山間の盆地でありながら、どこか「みやび」な空気が漂い、町並みに風情があって、いいなと思いました。

一日も早い復興をお祈りします。

前回から「自由民権運動」について語っています。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

https://roudokus.com/mp3/Meiji_jiyu2.mp3

前回の配信「自由民権運動(一)板垣死すとも…」
https://history.kaisetsuvoice.com/Meiji_jiyu1.html

明治7年(1874)征韓論に敗れた板垣退助が、後藤象二郎・江藤新平らとともに政治結社「愛国公党」を設立。民主的な議会をのぞむ民選議院設立建白書を提出しました

これより明治23年(1890)帝国議会の開設まで、十数年にわたって行われた政治運動を「自由民権運動」とよびます。憲法の制定、国会の開設、地方自治の確立、不平等条約の改正などを訴えました。

本日は第二回「明治14年の政変」です。

政府による憲法草案

高まる一方の自由民権運動に、政府は頭を抱えました。いくら弾圧してもキリがない。もはや早期の憲法制定はやむなしということになってきました。

そこで政府首脳部(三条実美、岩倉具視)は、いくつかの憲法草案を作らせました。

多くは天皇が偉いとか、天皇が絶対とか、そんなことばかりいってて、まるで使い物になりませんでした。

その中に大隈重信の案だけが具体的な国会開設のプランを示しており、イギリスの議会内閣制にのっとった、民主的なものでした。しかし。

「こんなのはダメだ!」

伊藤博文は大いに反発し、大隈重信に噛みつきました。

「これは天皇の権利を放棄するものだ」

「私も、伊藤さんに賛成です」

岩倉具視も同意しました。結局、イギリス式でなくプロシア式の欽定憲法(君主が定める憲法)の案を作らせました。

そこには天皇が陸海軍を統率すること、大臣は天皇に対して責任を負うことなどが謳われていました。大隈重信のプランとは正反対の、封建的な内容でした。これが後の大日本帝国憲法の原型となります。

北海道官有物払下事件

日に日に自由民権運動が高まる中、明治14年(1881)北海道官有物払下事件が起こります。国が1500万円の予算をつぎ込んだ北海道開拓使の官有物(工場・牧場・農場)を、北海道開拓長官黒田清隆(元薩摩藩士)が、わずか38万円あまりで、無利息30年払いで薩摩藩出身の豪商・五代友厚(ごだい ともあつ)らに売り渡そうとした事件です。

なんか最近の日本でもきいたような話ですね。

これが民権派の新聞にスッパ抜かれると、政府に対する批判は一気に高まります。

なにやってんだ!
癒着だ!
クソ政府!
薩摩ばっかいい思いしやがってよ!

それまで政治に無関心だった一般市民も、仕事をなげうって集会にかけつけるほどでした。自由民権運動は、元士族や政府高官からはじまったことでしたが、ここに到りいよいよ一般市民をも巻き込んでいきました。

明治14年の政変

「いったい誰が、情報を流したんだ!」

政府内部では、犯人さがしが始まりました。

北海道官有物の払い下げにもっとも反対していたは大隈重信である。しかも大隈重信はほかの政府首脳と違って、民主的な憲法草案を立てている。そうか!大隈がバラしたんだ。大隈を罷免しろ!となりました(ほんとうに大隈がバラしたのかは不明)。

しかし大隈を罷免するだけでは民権派がまたワアワアいうから、北海道官有物の払い下げの取りやめと、10年後に国会を開設するという約束をセットにしました。

明治14年(1881)10月11日夜、北海道・東北巡幸を終えたばかりの明治天皇を待って御前会議が開かれ、翌日の10月12日、大隈重信の罷免、北海道官有物の払い下げの取り止め、国会開設の勅諭が発表されました。

これを「明治14年の政変」といいます。

自由党結成

自由民権運動が高まるにつれて、全国に大小2000もの政治結社が作られました。しかし結社同士の連携が取れず、バラバラでした。板垣退助は、各政治結社が手を結び組織化されなければと考えました。

それで明治14年(1881)10月1日、東京に全国の政治結社の代表者が集まり、自由党を結成し、10月29日、総理に板垣退助が選出されました。ここに、日本初の民主主義政党が誕生しました。

板垣死すとも自由は死せず

「みなさん、政治は国民のものです。一部の特権階級が世の中を作る。それでいいんでしょうか。いいわけがない!すべて国民は、政治に参加する権利がある。そのためには、国会を開設し、憲法を定めなくてはなりません」

明治15年(1882)4月6日、板垣退助は岐阜金華山のふもとの会場で開かれた懇親会で演説しました。会の後、板垣が玄関を出たところで、

「国賊め!!」

ばっと一人の男が短刀を構えて飛び出してきました。

「何をするッ!!」

板垣は肘を曲げ、男の横腹を打つと、男は一瞬よろめきますが、体勢を立て直し、ワッと襲いかかり、

すぷっ、すぷっ、

板垣の胸や腕、数箇所を突きました。

付き添いの者が男の襟を掴んで、どうと引き倒し、回りの者たちがわらわらっと駆けつけ、男から短刀をうばい、押さえつける。

この時板垣が手ぬぐいを胸の傷に当てながら、

「板垣死すとも自由は死せず」

と言った、ということが語り草となり、自由民権運動をあらわすモットーのようにもてはやされていきました。傷じたいは浅く大事には至らず、かえって自由党と自由民権運動を世にしらしめることになりました。

事件の顛末を書いた本が出版され、板垣退助はいちやく国民的英雄に祭り上げられ「民権神」とまでよばれました。自由党の士気は大いに上がり、敵討ちをしようと党本部に集まる有志もいました。

しかし板垣自身はこうした熱に浮かれた騒ぎとは距離を置いていました。

板垣を刺した男は、愛知県の士族出身の小学校教師でした。後日、憲法発布の恩赦で出獄したとき、板垣のもとにきて、あなたを刺したのは誤解に基づくことだったと謝ったといいます。板垣は、それを許したと。

立憲改進党

明治15年(1882)4月16日、立憲改進党の結党式が行われました。総理には昨年の「明治14年の政変」で罷免されたばかりの大隈重信が選出されました。立憲改進党は自由党とおなじく自由と民権を掲げましたが、行き過ぎた保守主義も、進歩主義も、どちらも批判し、その中間の漸進(ぜんしん)主義を採りました。

以後、板垣退助の自由党とならび、大隈重信の立憲改進党は党員をふやし勢をのばしていきます。一方、政府の御用政党といえる天皇主権をかかげた立憲帝政党も福地源一郎により結成されました。

政府の反動政策

政府は国会の開設を約束した以上、早急に憲法草案を作る必要がありました。でなければ民権派が民主的な憲法を作ってしまう。それは政府としては困ります。

そこで憲法問題を審議するために参事院を設置し、ついで伊藤博文をプロシア、オーストリアの憲法を学ぶため、派遣しました。(プロシア、オーストリアは皇帝の力が強く、明治政府のもとめる天皇を頂点におく絶対君主制にぴったり合っていたため)

伊藤博文は明治15年(1882)3月に出発し、翌明治16年(1883)6月、帰国しました。伊藤が持ち帰った成果をもとに、明治19年(1886)から憲法草案が秘密裏に作られていきました。

その間も政府は自由民権運動に対してあれこれ弾圧を加え、反動的な政策を打ち出していきました。

明治15年(1882)1月、「軍人勅諭」を出して、軍隊は天皇に直属するとしました。まだ憲法もないうちから軍隊のありようを決めたところに、軍隊は法の外にある超越的なものだという、明治政府の考えが強く出ていました。

ついで、非常事態には法の停止ができるとした「戒厳令」を定めました。「徴兵令」を改定し、徴兵の上限となる年齢を延長しました。「新聞紙条例」を改定して、言論弾圧を強めました。「不敬罪」を拡大解釈して、ちょっとでも皇族・皇室を悪く言った者は処罰できるようになりました。

実際に、「天皇の巡幸よりも板垣の遊説のほうが人々を感動させた」と言った者が不敬罪を適用して、タイホされました。

いずれも、自由民権運動とは正反対の、反動的な、時代錯誤の政策ばかりだったと言えます。一時的に自由民権運動を抑えられたものの、火に油をそそぐばかりでした。

次回「自由民権運動(三)多発する暴発事件」に続きます。

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解説:左大臣光永

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