自由民権運動(一)板垣死すとも…
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「為朝(ためとも)づく」という言葉をご存知でしょうか?
源為朝(ためとも)は源為義(ためよし)の八男で弓の名人。1156年保元の乱で崇徳上皇方について敗れ、戦後、伊豆大島に島流しとなりました。その後、朝廷軍に追い詰められて壮絶な自害をとげたとも、子孫が琉球王になったとも伝えられますが、大島に定着したという話もあります。
とにかく大島は環境がよい。メシはうまいし、島の人は親切で、女性はキレイだ。これゃいいな。最初は、おのれ!後白河方に復讐してやるぞと、闘志を燃やしていたのだけれど、すっかり馴染んできて、現地の女性と結婚して、天寿をまっとうした、という話も伝わっています。
ために、最初は高い志を持っていながら、環境が良すぎるために堕落してしまうことを「為朝づく」という、という話をなにかの本で読んだことがあるんですが、
出典を忘れてしまいました。「為朝づく」という言葉の出典をご存知でしたら、ご連絡ください。
本日から4日間にわたって、「自由民権運動」について語ります。
明治7年(1874)征韓論に敗れた板垣退助が、後藤象二郎・江藤新平らとともに政治結社「愛国公党」を設立。民主的な議会をのぞむ民選議院設立建白書を提出しました
これより明治23年(1890)帝国議会の開設まで、十数年にわたって行われた政治運動を「自由民権運動」とよびます。憲法の制定、国会の開設、地方自治の確立、不平等条約の改正などを訴えました。
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高知 板垣退助像
板垣死すとも自由は死せず
「みなさん、政治は国民のものです。一部の特権階級が世の中を作る。それでいいんでしょうか?
いいわけがない!!
すべて国民は、政治に参加する権利がある。そのためには、国会を開設し、憲法を定めなくてはなりません」
明治15年(1882)4月6日、自由党総理(党首)板垣退助は岐阜金華山のふもとの会場で開かれた懇親会で演説しました。会の後、板垣が玄関を出たところで、
「国賊め!!」
ばっと一人の男が短刀を構えて飛び出してきました。
「何をするッ!!」
板垣は肘を曲げ、男の横腹を打つと、男は一瞬よろめきますが、体勢を立て直し、ワッと襲いかかり、
すぷっ、すぷっ、
板垣の胸や腕、数箇所を突きました。
付き添いの者が男の襟を掴んで、どうと引き倒し、回りの者たちがわらわらっと駆けつけ、男から短刀をうばい、押さえつける。
この時板垣が手ぬぐいを胸の傷に当てながら、
「板垣死すとも自由は死せず」
と言った、ということが語り草となり、自由民権運動をあらわすモットーのようにもてはやされていきました。
もっとも板垣が実際にこう言ったわけではなく、板垣から話をききとった者が話を盛った、というのが真相のようです。
板垣退助
板垣退助は天保8年(1837)身分の高い土佐藩士乾正成(いぬい まさしげ)の長男として生まれました。幼名を猪之助(いのすけ)といいました。その名の通り、向こう見ずで突っ走るところがありました。子供の頃は学問は嫌いだが軍談を好み、ケンカばかりしていました。
19歳で土佐藩の重役に認められ、江戸勤務を命じられ、やがて倒幕運動に関わっていきます。明治元年の戊辰戦争では、32歳の退助は甲府に残る幕府軍を打ち破り、甲府城入りしました。その時、名字を乾から板垣に変えました。
乾家の先祖は武田信玄の第一の重臣・板垣駿河守信方です。甲府に入るなら板垣のほうが聞こえがいいと考えたのでした。
その後、退助の率いる新政府軍は、旧幕府軍大鳥圭介を攻撃するため、日光に向かいました。
大鳥圭介は日光に立てこもり、徹底抗戦の構えでした。日光には徳川家康の墓があります。江戸幕府の聖地です。それでなくても天下の名建築であり、戦で焼くのはしのびない。そう考えた板垣退助は、
日光の近くの寺の僧侶をよんで、
「大鳥圭介を説得してくれ。日光を燃やさないように、今市(いまいち)までおりて戦おうと」
大鳥圭介はこの条件をのみ、日光は戦火を免れました。
民選議院設立建白書の提出
明治6年(1873)、征韓論論争に敗れた板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣(そえじま たねおみ)らは、野に下り、翌明治7年(1874)1月12日、愛国公党を結成しました。そして17日、由利公正、岡本健三郎、小室信夫、古沢滋を加えた八人で、左院(立法の補助機関)に「民選議院設立建白書」を提出しました。
「民衆が選んだ議院を設置するのです。政府に税をおさめるからには政治に参加する権利があります」
というのが趣旨でした。
政府は無視しました。しかしこの建白書は「日新真事誌(にっしんしんじし)」という新聞に採り上げられ、世間に広く知られることになりました。
さまざまな議論が起こります。
「議会など、時期尚早だ。民衆はなにも知らんのだ」
「だから、民衆を啓蒙するためにも、議会が必要なのです」
「議会議会というが、具体的にどんなものか、絵図は描けているのかね!」
立志社の設立
しかし政府は民選議院設立建白書をまったく相手にしませんでした。明治7年(1874)板垣退助は郷里土佐に戻って、立志社を創設。演説討論会を行うなど、精力的に活動しました。
「自由!民権!議会の設置!憲法!」
盛んにやりました。しかし自由というわりには立志社社員は土佐人に限るし、政府が台湾に出兵するとこれを国難として、志願兵部隊を編成してほしい嘆願書を政府に送るなど、保守的な面もあわせ持っていました。
政府主導の政治改革
政府は自由民権運動の高まりを警戒しました。建白書提出の3日前の明治7年(1874)1月14日、右大臣岩倉具視が土佐藩士に襲撃されたこと、郷里佐賀に下った江藤新平が「佐賀の乱」の首謀者となったことは政府の警戒を強めました。
それで、政府は野に下っていた板垣退助を呼び戻し、
・国会の準備機関として元老院を設置すること
・司法制度確立のため大審院を設置すること
・地方官会議を開くこと
などを話し合いました。これらは自由民権運動の高まりに対して「わかったわかった、政府もちゃんとやってるから」というアピールでした。板垣が政界に復帰すると、実際に一つ一つ実行に移されました。
讒謗律(ざんぼうりつ)と新聞紙条例
政府は自由民権運動に妥協する一方、取締も強化しました。言論弾圧です。
明治8年(1875)6月28日、讒謗律(ざんぼうりつ)と新聞紙条例を定めました。讒謗律とは、政府や皇族への批判を禁止したもの、新聞紙条例とは新聞・雑誌の発行を認可制にして、政府や国家を批判するのを禁じたものです。実際に逮捕されたり罰金を課せられた記者も多数いました。
明治政府の権威づけ
薩長は天皇を政治利用して倒幕を成し遂げたので、倒幕後は天皇の権威をいっそう高めねばなりませんでした。慶応3年(1867)に出された「王政復古の大号令」は、太古の日本のような、天皇を頂点とする祭政一致の国造りが歌われていました。時代錯誤のきわみです。その後の明治天皇による各地の巡幸も、政府の天皇の権威を高めようというあらわれでした。
民衆は、徳川幕府さえ倒せば自由になる。解放されると期待していましたが、いざ幕府が倒れると、やってきたのは前よりもさらに封建的な、ガチガチの世の中でした。なあんだ騙されたとなるその不満からも、自由民権運動は高まっていきました。もっとも自由民権運動ははじめ不平士族・元政府高官から始まったのであり、民衆を巻き込んでいくのはもっと後になります。
自由民権運動の高まり
明治10年(1877)西南戦争をはさんで、自由民権運動はいっそう激しくなります。土佐の立志舎を中心に、各政治結社はさかんに演説し、討論会を開き、国会開設の署名運動を行い、新聞や雑誌で政府を批判しました。
西日本からはじまった自由民権運動は、やがて関東でも広まっていきました。沼間守一が東京下谷に開いた法律講義会あらため「嚶鳴社(おうめいしゃ)」は活発で、土佐の立志舎とならび「関の東、政談を以て鳴る者は誰ぞや、嚶鳴社これなり。関の西、政談を以て鳴る者は誰ぞや、立志舎これなり」といわれました。
自由民権運動の高まるにつれて、政府からの弾圧もひどくなっていきました。政府はこれら政治結社の集会を警察官に監視させました。
「今の政府はクソだ」
「なにクソとはなんだ」
「クソだからクソというのだ」
「けしからん。民衆をまどわし、国家を転覆する扇動者である。タイーーホ!!」
そんな感じでした。高知県では演説を聴いていた小学生まで罰せられました。しかしこのような政府の弾圧は、ますます自由と権利、国会開設を求める運動を、さかんにするばかりでした。
この頃、植木枝盛(うえき えもり)の作詞による「民権かぞへ歌」が、さかんに歌われました。
一ツとせ、人の上には人ぞなき、
権利にかはりがないからは、
コノ人じゃもの、
ニツとせ、ニツとはない我が命、
すてても自由のためならば、
コノいとやせぬ、
三ツとせ、民権自由の世の中に、
まだ目のさめない人がある、
コノあはァれさよ
四ツとせ、世の開けゆくそのはやさ
親が子供におしえられ
コノかなしさよ
(二十番まであります)
明治13年(1880)以降、具体的な憲法草案も作られるようになりました。
中にも植木枝盛の案は、政府が武力で国民を弾圧してくる時には国民は武器を手に取り抵抗していいとする抵抗権、政府が憲法を守られない時は転覆してよいという革命権まで定めていました。
次回「自由民権運動(ニ)明治十四年の政変」に続きます。
youtubeで配信中
岩倉米欧使節団
https://youtu.be/SV58LVRUIJ4
明治4年(1871)から明治6年まで、岩倉具視、木戸孝允はじめ明治政府の首脳部がアメリカ・イギリスはじめ全12ヵ国を巡察。長く鎖国体制下にあった日本にとっては、大きなカルチャーショックとなりました(32分)。
明治の廃仏毀釈
https://youtu.be/iIOI8Xt38Yc
慶応4年(1868)明治政府が出した「神仏分離令」を発端として、神社関係者や民衆によって、仏教弾圧・仏教排斥の嵐が全国で吹き荒れました(24分)。
終了間近
紫式部の生涯 オンライン版
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