自由民権運動(三)多発する暴発事件

こんにちは。左大臣光永です。

私の家の近くに、紙屋川という歴史の古い小川が、住宅街をつらぬいて流れているんですよ。

夜、川沿いの道をとぼとぼ歩くと、街灯もあまりない、薄闇の中に、波の音だけがザバザバと響き、水面が白く輝いていることが、川の存在感をしめしていて、よいです。

昼間、目に見える紙屋川以上に、闇の中に感じる、その紙屋川こそが、風情があります。

前々回から、「自由民権運動」について語っています。

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明治7年(1874)征韓論に敗れた板垣退助が、後藤象二郎・江藤新平らとともに政治結社「愛国公党」を設立。民主的な議会をのぞむ民選議院設立建白書を提出しました

これより明治23年(1890)帝国議会の開設あたりまで、十数年間にわたって行われた政治運動を「自由民権運動」とよびます。憲法の制定、国会の開設、地方自治の確立、不平等条約の改正などを訴えました。

本日は第三回「多発する暴発事件」です。

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自由民権運動(一)板垣死すとも…
https://history.kaisetsuvoice.com/Meiji_jiyu1.html

自由民権運動(ニ)明治14年の政変
https://history.kaisetsuvoice.com/Meiji_jiyu2.html

民権派同士の争い

自由民権運動が高まるにつれて、民権派どうしの争いも出てきました。

板垣退助が「板垣死すとも自由は死せず」のスローガンで人気をはくしているのを見て、政府は危機感をおぼえました。板垣が旗印になって民権運動が高まっている。ならば板垣さえいなくなれば、奴らはバラバラだ。そこで政府は、後藤象二郎にはかって板垣を洋行させようとします。

費用は井上馨が三井財閥に働きかけ、出させました。

ここを、立憲改進党が突っついてきます。

「洋行費用はどこから出ているのですか?自由党は三井財閥と癒着としているのではないか?どうなんですか?答えてください!」

ワアワア言い始めました。批判を受けならがらも板垣は海外へ出発しますが、今度は自由党が立憲改進党を批判しはじめました。

「立憲改進党は三菱と癒着している。偽政党である。偽政党は撲滅すべきだ」と。

本来、手をとりあって国会開設、憲法制定に向けて動くべき自由党と立憲改進党が、不毛な足のひっぱりあいをしていたわけです。

政府関係者が自由党、立憲改進党双方にまぎれこんでいて、分断工作をやったせいもありますが、人の性というものは、いつの代も変わらないことを実感させられます。

福島・喜多方事件

自由党員のうち、貧しい農民や過激な者が、次々と事件を起こしました。

明治15年(1882)、福島では自由民権派の農民たちと、県令三島通庸(みしま みちつね)が対立していました。三島通庸は「鬼県令」とよばれ「火付盗賊と自由党は撲滅する」と豪語していました。

三島が自由民権派の声を無視して、喜多方に土木工事を強行すると、自由民権派はさかんに反対の声を上げました。三島はこれぞ自由民権派を叩き潰すチャンスと、警察のほか、政府の御用政党である立憲帝政党員などを使って、自由民権派を弾圧しました。暴行、労役の強要、財産没収などを行いました。

「なんてひどい県令だ!」
「黙っちゃいられねえ!」

怒った住民は、逮捕された自由党員の釈放を求めて、警察署に押し寄せました。

「ひっとらえろーーーッ!!」

警察は抜刀して襲いかかり、河野広中(こうの ひろなか)はじめ自由党員と多くの住民を逮捕しました。60名あまりが高等法院に送られ、河野はロクに裁判もされないまま、政府転覆をはかった国事犯とされ、軽禁獄7年、ほかの5人は6年を命じられました。

以後、政府はますますピリピリして、自由民権運動を弾圧するようになります。スパイをつかって挑発したり、罪状そのものをでっちあげたりして、なりふり構わない取締を行います。

松方デフレ

明治14年(1881)に大蔵卿になった松方正義(まつかた まさよし)は、思い切った資本主義化政策をとりました。歳出を抑制し、増税と公債政策により軍拡をすすめようとしました(松方デフレ・松方財政)。結果、大不況におちいり、米価が下がり、多くの農民が土地を失い借金にまみれました。

「もう暮らしていけねえよーーー」
「首くくるしかねえーーーー」

特に養蚕業・製糸業をいとなむ農民が被害を受けました。

「ひどい!ひどすぎる!黙ってちゃダメだ。今こそ立ち上がりましょう!」

困窮する農民が、自由民権派と結びつき、活動は過激になっていきました。もはや合法的なやり方ではダメだ。テロに訴えるしかないと。

群馬で、岐阜で、茨城で、名古屋で、過激な自由民権派と農民が武装決起しました。いずれも鎮圧され、首謀者は処罰されましたが、世の中が大いに乱れました。

秩父事件

中にも、明治17年(1884)の「秩父事件」は1万人が参加する大規模のものでした。

「借金を取り消せ!!」
「政府は農民をいじめるな!!」
「国会開設!憲法制定!!」

一時は秩父全域を支配下におさめるほどの勢いでしたが、軍隊・憲兵が出動し、鎮圧されました。死刑7人、無期5人ほか多くが処罰されました。

秩父事件の後も全国各地でこのような自由民権運動の行き過ぎによる暴発事件が相次ぎました。政府は警察・軍隊を動員し、スパイを使って、運動を取り締まり、あるいは民権派の活動家を官吏に取り立てるなどして、運動の切り崩しをはかりました。

自由党の解散

明治16年(1883)以降、自由民権運動は分裂し、衰退していきました。自由党は明治17年(1884)解散しました。

一時は2500人を数えた、自由民権運動の旗印たる自由党が、なぜ解散したのか?

それは、政府が弾圧を強化したこと、党指導部の指導力不足、財政難、そして内輪モメでした。

自由党は秩父事件など各地で起こった暴発事件を支持しないばかりか、公然と非難しました。あんなのはけしからん。自由党とは無関係であると。なあんだ自由党は農民の味方じゃないのかよ!裏切られた!支持を失っていきます。

そして、自由民権運動の二大巨頭たる自由党と立憲改進党が、お互いに悪口ばかりいいあっていました。アホらしくなって人は離れます。

立憲改進党は明治17年(1884)総理の大隈重信が離党しました。その後も方針を変えつつ活動しますが、実態はほぼ活動停止となりました。

次回「大日本帝国憲法の制定」に続きます。

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岩倉米欧使節団
https://youtu.be/SV58LVRUIJ4

明治4年(1871)から明治6年まで、岩倉具視、木戸孝允はじめ明治政府の首脳部がアメリカ・イギリスはじめ全12ヵ国を巡察。長く鎖国体制下にあった日本にとっては、大きなカルチャーショックとなりました(32分)。

明治の廃仏毀釈
https://youtu.be/iIOI8Xt38Yc

慶応4年(1868)明治政府が出した「神仏分離令」を発端として、神社関係者や民衆によって、仏教弾圧・仏教排斥の嵐が全国で吹き荒れました(24分)。

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解説:左大臣光永

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