西南戦争(三)西郷隆盛、城山に死す

本日は「西南戦争(三)西郷隆盛、城山に倒る」です。

四回にわたって西南戦争について語ってきましたが、今日が最終回となります。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

■熊本城の解放
■薩摩軍の熊本撤退
■木戸孝允、没す
■官軍、宮崎方面を攻撃
■博愛社設立
■薩摩軍、撤退につぐ撤退
■城山の戦い
■西郷隆盛の最期
■紀尾井坂の変~大久保利通の最期

…という流れで語っております。

↓↓前回までの配信↓↓

西南戦争前夜 鹿児島 私学校の蜂起
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西南戦争(一)挙兵~熊本城攻防戦
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田原坂の戦い
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熊本城の解放

明治10年(1877)3月19日、高島鞆之助(たかしま とものすけ)大佐率いる政府軍(官軍)別働第ニ旅団が日奈久沖に上陸します。田原坂の第一・第ニ旅団(正面軍)と、日奈久方面の別働第ニ旅団(背面軍)と、前後から薩摩軍を挟み撃ちにしようとします。

薩摩軍は官軍第ニ旅団(背面軍)の上陸をいち早く察知。川尻の西郷隆盛本営から永山弥一郎率いる三番大隊が南下し、鹿児島を発した別府晋介率いる九番・十番大隊が北上し、それぞれ官軍討伐に向かいます。

4月12日、官軍第ニ旅団が永山弥一郎率いる薩摩軍三番大隊にいっせい攻撃をしかけ、これを壊滅。その時、永山は「これ、わが湊川なり」と言い放ちました。後醍醐天皇への忠義をつらぬき足利尊氏との湊川の戦いに敗れて討ち死にした楠木正成に、永山はみずからをなぞらえたのでした。翌13日、永山弥一郎は自害しました。

4月14日、官軍第ニ旅団が川尻に到着。翌4月15日、官軍山川浩(やまかわ ひろし)陸軍中佐率いる選抜隊が熊本城下に入りました。

「味方だ!助かった!!」

籠城中の熊本鎮台兵は味方の旗をみて、「欣喜雀躍して」よろこびました。ここに熊本城は54日ぶりに薩摩軍の包囲から解放されました。

西郷隆盛は、熊本城を包囲の末に落とせなかったことについて、「俺は官軍に負けたのではない。加藤清正に負けたのだ」と言ったとか。

山川浩陸軍中佐は旧会津藩士で、戊辰戦争の時は新政府軍の谷干城の部隊と戦いました。戦後、谷干城は敵ながら山川の人柄を買い、新政府軍に推薦したのでした。

同じく会津藩士で会津若松城(鶴ヶ城)攻防戦のとき活躍した「鬼官兵衛」こと佐川官兵衛も、警視庁に出仕しており、薩摩軍を相手にさんざんに戦った末、壮絶な討ち死にを遂げました。

薩摩軍の熊本撤退

4月15日、西郷隆盛は川尻の本営を引き払い、東北へ約17キロの木山(きやま・ 熊本県上益城郡益城町大字木山)に本営を移します。熊本城を包囲していた部隊、熊本城北方で官軍に苦戦していた部隊も木山に合流します。

木山(熊本県上益城郡益城町大字木山)
木山(熊本県上益城郡益城町大字木山)

木山は平成28年(2016)熊本地震で大きな被害を受けた地域です。今年2023年3月をもって、仮設住宅の居住者の方々の完全退去がおわったそうです。

4月20日、城東の会戦で薩摩軍は惨敗し、翌21日、木山から南東20キロの矢部(山都町やまとちょう・熊本県上益城郡)まで退きます。矢部=山都町は通潤橋で有名です。

通潤橋(熊本県上益城郡山都町)
通潤橋(熊本県上益城郡山都町)

矢部の軍議で、西郷隆盛は「熊本に進撃し、一気にけりをつけよう」とはじめて意見をのべます。しかし最終的には、人吉から三州(薩摩・大隅・日向)に撤退し、再起をはかることで話がまとまります。

薩摩軍は矢部→椎葉村(しいばそん・宮崎県臼杵郡椎葉村)→江代(えしろ・熊本県球磨郡水上村大字江代)と進み、人吉(熊本県人吉市)に入ったのは4月28日ころでした。

途中、椎葉村は平家の落人伝説で知られ、那須与一の弟・那須大八郎と平家の鶴富姫とのロマンスが伝えられます。

5月5日、熊本の官軍参謀・山県有朋は人吉への総攻撃を決めます。熊本を出発した官軍は三方から人吉に迫り、6月1日、人吉に総攻撃をかけると、薩摩軍はそこかしこに敗れ、人吉は焼け野原になりました。

人吉 永国寺(薩摩軍が本陣を置いた)
人吉 永国寺(薩摩軍が本陣を置いた)

市街は殆ど焼失せ、町民は遠く避難し、明滅した暗黒の人吉は、陰気夜雨に哭く廃墟の町となった。

西倉基『球磨史伝 西南戦争秘帖』

西郷隆盛は人吉焼き討ちの3日前に脱出していました。宮崎まで逃げ延び、ここに本営を置くと、宮崎の北、延岡(宮崎県延岡市)方面を野村忍介、池上四郎に守らせ、宮崎南西の都城(みやこのじょう、宮崎県都城市)方面を村田新八に守らせました。

薩摩軍は弾丸が不足しているため、寺院の鐘、一般家庭の鍋釜なども徴用して、弾丸を鋳造します。しかしその弾丸はほとんどは飛ばずに落ちました。

資金も不足していたため、臨時の不換紙幣(いわゆる「西郷札(さいごうさつ)」)を出して商人にムリに押し付け、カネを巻き上げました。この西郷札は西南戦争が終わるとただの紙くずになりました。

木戸孝允、没す

このころ、

5月26日、京都で病床にふせっていた木戸孝允が息を引き取りました。死ぬ一週間ほど前、木戸孝允は朦朧とする意識の中で「西郷もいい加減にしないか」と叫びました。

桂小五郎像
桂小五郎像

官軍、宮崎方面を攻撃

官軍は北と南から日向の薩摩軍を追い詰めていきます。

北からは豊後水道の佐賀関(さがのせき・大分県大分市大字佐賀関)に上陸し、海岸沿いに延岡まで進撃。その中には、元新選組副長助勤・斎藤一あらため警視庁警部補・藤田五郎の姿もありました。

南からは都城→宮崎→佐土原(さどわら)→高鍋町(たかなべちょう)と北上しながら、薩摩軍の拠点をつぎつぎと潰していきました。

もはや薩摩軍には総勢玉砕の根性論しか残っていませんでした。後に日本軍の無謀な戦いを飾るために「玉砕」という言葉がさかんに使われましたが、こうした用途で「玉砕」という言葉をはじめて使ったのが、西南戦争の薩摩軍でした。

薩摩軍では逃亡者が相次いだため、兵士たちの背後から別府晋介や辺見十郎太らが刀を抜いて見張りました。逃げ出す者は味方でも斬るという脅しでした。

博愛社設立

旧肥前藩士・佐野常民(さの つねたみ)は、西南戦争のさなか、官軍・薩摩軍関係なく負傷者を看護するために、博愛社を設立します。

博愛社 設立の碑(熊本県玉名郡玉東町木葉 正念寺)<
博愛社 設立の碑(熊本県玉名郡玉東町木葉 正念寺)

「薩摩軍の死傷者は官軍の倍。看護の手立ても整っておらず、山野にさらされております。大義をあやまり、天皇の軍隊に敵対しているとはいっても、かれらも皇国の人民であり天皇家の赤子(せきし)です。どうして捨て置けましようか」と。

こうして西南戦争のさなか設立された博愛社は、10年後の明治20年(1887)、「日本赤十字社」と改称。昭和27年(1952)制定された日本赤十字社法により認可法人となり、今にいたります。

薩摩軍、撤退につぐ撤退

敗走を重ねる薩摩軍は宮崎から北上して延岡に至ります。

8月14日、官軍が延岡を総攻撃。薩摩軍はまたも敗れ、延岡北方96キロの可愛岳(えのだけ)の麓・長井村(宮崎県延岡市北川町長井)に至ります。総勢4000人。

もはや帰るべき鹿児島は敵の手に落ち、かといって東に攻め上る余力もなく、薩摩軍はただ、九州各地を逃げ惑うばかりでした。

「延岡を取り戻す」

最後の賭けと官軍に突進しますが、またも敗れ、薩摩軍は長井村を包囲されました。

8月16日、長井村にこもる西郷隆盛は、軍の解散を宣言します。

戦って玉砕したい者は玉砕し、降伏したい者は降伏せよと。

他県から参加した、熊本隊、飫肥(おび)隊などの多くが降伏しました。西郷と「玉砕」の道を選んだのは、私学校生徒がほとんどでした。

8月17日の軍議で、宮崎と鹿児島の県境近い、三田井(みたい、高千穂村)をめざして移動することが決まります。そこから鹿児島を奪還するのか?再度中央に攻め上るのか?は先の話でした。総じて薩摩軍は目の前の敵にいきあたりばったりで対応するばかりで、戦略というものがありません。

「戦争としてはあまりに無謀無策」と徳富蘇峰が書いた、まさにそのとおりだと思います。

8月21日、薩摩軍、三田井着。官軍の倉庫から現金と米を奪うと、西郷は桐野利秋の案を容れ、鹿児島へ突入することを決めました。

西郷隆盛は2月の開戦から戦争末期の8月まで一切指揮をとらず、本営にこもって、愛犬をつれて、兎狩りなどを楽しんでいました。

ただしこれを「無責任」とか「卑怯」と取るのは違うかもしれません。

決起の主体は桐野利秋であり、西郷隆盛は軟禁状態に置かれていたという説もあります。もしうそうなら、西郷隆盛は情報を遮断され、薩摩軍にとって都合のいい大本営発表だけを与えられていたと思われます。

薩摩軍は雨のふりしきる山中の道をすすみ、三田井→小林→横川(よこがわ)→加治木→鹿児島とすすみました。

城山の戦い

9月1日、薩摩軍は鹿児島に到着。なんと鹿児島の奪取に成功します。薩摩軍の動きがいきあたりばったりでまったく秩序がないため、官軍はかえって先を読むことができず、混乱しました。薩摩軍はそのスキをついて一気に鹿児島を奪還したのでした。

総勢372人。

そのうち銃器をもっているのは150名前後でした。出発してから199日目の鹿児島帰還でした。もはや薩摩軍に戦う余力はありませんでした。鹿児島市内を横切り、私学校跡と城山・岩崎谷にこもります。

西郷隆盛は護衛5、6人に護られて、城山岩崎谷の洞窟にこもりました。

洞窟の中で、桐野利秋が、

「鹿児島にもどったのは失策だった。わずかな募兵のために、行き詰まった」

すると西郷は押し黙って、時々天をあおいで笑う。

それを見て辺見十郎太は西郷をにらみつける、

という具合で、もはや末期的な症状でした。

征討軍参謀山県有朋は、9月24日早朝を総攻撃の日と決めます。

西郷隆盛の最期

9月23日夜、薩摩軍は最後の宴を催します。

9月24日朝4時、

ドーン、ドーン、ドーン

三発の砲声を合図に、官軍の城山への総攻撃が始まりました。

ワアーーーッワァーーーッ

総勢5万。対する薩摩軍は372人。なすすべもなく、あそこここに打ち破られます。

午前6時、城山岩崎谷の洞窟の前に、西郷隆盛以下、幹部40名が整列しました。

「西郷だ!」
「西郷が出たぞーッ!」

タンタンタン、ターーーン

官軍の銃弾が飛び交う中、西郷らはゆっくり進んでいきます。

ドシュッ。ぐっ…

腹に銃弾を受け、つまづく西郷。

「西郷先生!」
「西郷先生!」

タン、タン、タタターーン

銃弾が飛び交う中、西郷隆盛は刀を杖とつき、上半身を起こすと、傍らなる別府晋介に、

「晋どん、もうここらでよか…」

そう言われて別府晋介が背後から、

「ごめんなったもし!」

ばんっ…

介錯をつとめました(介錯をつとめたのは桐野利秋という説も)

西郷隆盛享年51。

村田新八は自刃し、別府晋介と辺見十郎太は刺し違えて死にました。桐野利秋は堡塁の上にいたところを狙撃され、死にました。

明治10年(1877)9月24日午前7時、官軍の祝砲が鳴り響き、ここに日本最後の内乱「西南戦争」は終わりました。

戦死者は官軍6000人あまり、薩摩軍5000人あまり(諸説)といわれます。ただしこれは正規の戦闘員における数であり、民衆からかきあつめられた軍夫・人夫はどれくらい死んだか?その数も知れません。

紀尾井坂の変~大久保利通の最期

翌明治11年(1878)5月14日、大久保利通は皇居に行くため馬車に乗り、紀尾井坂(きおいざか)にさしかかりました。

その時、物陰に隠れていた男たちがバッと飛び出し、

「大久保利通!」

「なにッ…!」

「民主政治を行わず、民衆を苦しめ、国を思う志士を死に追いやった」

大久保を馬車から引っ張り出す男たち…

「そして内乱を引き起こした、お前だけは許さぬ!」

「無礼者が!」

「問答無用!!」

ざしゅっ。

大久保利通、享年49。

下手人は元陸軍中尉で征韓論者の石川県士族・島田一郎、長連豪(ちょうつらひで)ら六名でした。

木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通…

いわゆる「維新の三傑」は、こうして明治10年から11年にかけて、相次いで世を去りました。

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解説:左大臣光永

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