西南戦争前夜~鹿児島 私学校の蜂起
本日は、「西南戦争前夜~鹿児島 私学校の蜂起」です。大久保利通の挑発に乗り、桐野利秋ら鹿児島の私学校は西郷隆盛を担ぎ上げて武力決起。日本最後の内乱「西南戦争」が始まるまでを語ります。
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西郷隆盛、決起の時機をうかがう
明治9年(1876)明治政府の政策に不平を抱く士族たちが、各地で反乱を起こしました。
10月24日、熊本で神風連の乱、
10月27日、福岡で秋月の乱、
10月28日、萩の乱
西郷隆盛は鹿児島の日当山(ひなたやま)温泉にいましたが、これら不平士族の反乱を、注意深く見守っていました。しかし萩の前原一誠(まえばらいっいせ)が処刑されたことを知ると、
桐野利秋邸に私学校幹部を集め、集会を開きます。その席で西郷は、大久保利通を名指しで非難します。
「わが志の伸びざるは、大久保のせいである。島津公(久光)が左大臣を辞して鹿児島に帰国するはめになったのも大久保のせいである。大久保は元来、人のやることを拒み、自ら手柄をむさぼり、表には大臣を助けるようでありながら、影では自分によかれとばかり考えている。聞けば木戸孝允も大久保を助けているというえ。吾輩は彼らの肉を喰らっても喰らい飽きない」
かつての盟友・大久保利通は、今や西郷の目に、倒すべき敵とうつっていました。
同じ席で、桐野利秋が発言します。
「ニ三の大臣を討てば、政府は瓦解する。君側の奸をしりぞけるのが大丈夫たる者の本分である。ただし鎮台兵は一撃で倒せるが、問題は東京の巡査である。彼らは元藩士が多く、武士としての気骨がある」
だから油断するなと。
桐野利秋はいまにも兵をおこさんの勢いでしたが、西郷隆盛は注意深く、その時機を待つように戒めます。
西郷が考えていた「時機」とは、天長節(十一月三日)。
明治天皇の誕生日である天長節に挙兵することで、今回の挙兵は朝廷の意思にのっとった、義挙であると世間にアピールしようとしていたようです。
私学校暴発
一方、大久保利通はいち早く手を打ちます。
明治10年(1877)正月、大久保利通は警視庁大警視川路利良に命じて、少警部中原尚雄(なかはら なおお)以下24名の密偵を、帰省という名目で鹿児島に送りました。その目的は西郷隆盛の動向をさぐることと、私学校を内部分裂させることでした。
正月下旬、明治政府はひそかに鹿児島に三菱の汽船を送り、草牟田(そうむた)の陸軍火薬庫(鹿児島県鹿児島市新照院町)に保管されていた大量の銃・弾薬を接収します。
私学校の生徒たちは、いち早くこの動きを察知し、
「俺たちの武器が奪われるぞ!」
「大久保の密偵だ!」
「そうはいくか!」
1月29日夜、私学校生徒20数名が草牟田の火薬庫を襲撃し、小銃弾六万発を略奪。翌30日夜、1000名をこえる私学校生徒が草牟田の火薬庫、磯集成館(いそしゅうせいかん)鉄砲製作所、および阪本上之原(さかもとうえのはる)火薬庫を襲撃、倉庫四棟を破壊し、小銃弾などを運び出し私学校に持ち帰りました。
以降も、私学校生徒は海軍造船所や火薬製造所を襲撃します。略奪は二月二日まで繰り返されました。
私学校とは
ここでいう私学校とは、明治六年(1873)西郷隆盛が征韓論論争にやぶれ郷里鹿児島にくだったのにともない、設立した士族のための学校です。明治五年の学制によってつくられた公立の学校に対して「私学校」とよばれました。
明治七年(1874)、政府の許可を得て、鶴丸城の厩(うまや)跡に銃隊学校と砲隊学校が建設されたのがはじまりといいます。
やがて市内に10を越える分校ができ、県下に136の分校ができました。
私学校では『春秋左氏伝』や『孫子』など兵書の講義などが行われました。私学校生徒は一種のエリート意識をもっており、私学校生徒でない者を下に見ていました。
西郷隆盛、起つ
私学校生徒が暴発したとき、西郷隆盛は大隅半島の小根占(おねじめ、鹿児島県肝属郡小根占村)で狩をしていました。2月1日、末の弟である西郷小兵衛と辺見十郎太が火薬庫襲撃のことを西郷隆盛に知らせます。
「…なんたることか!!」
2月3日、西郷隆盛は「民衆数万人」に歓迎されながら鹿児島入りします。
同日、政府の密偵・少警部中原尚雄(なかはら なおお)以下21名が逮捕されました。
また、
「ボウズヲシサツセヨ」と書かれた電報を押収しました。これは明治政府から密偵を務める中原尚雄に届いた指示書でした。
中原の自供によると、これは「坊主を視察せよ」…西郷隆盛を見張れという指示書だと。しかし私学校側は、「坊主を刺殺せよ」すなわち西郷隆盛を殺せという指示書と取ります。
2月5日、鹿児島の私学校本部に幹部が集まり、会議を開きます。
主な出席者は、
西郷隆盛
桐野利秋
篠原国幹
村田新八
永山弥一郎
村田三介
池上四郎
西郷小兵衛
野村忍介
でした。
「西郷先生を暗殺する計画があることは明らかである!」
「大久保を倒せ!」
「西郷先生、立ち上がってくだされ!」
「西郷先生!」
皆、口々に言う中、最高幹部の桐野利秋が、
「断の一字あるのみ」
と言うと、西郷隆盛は、
「わが命、皆に預ける」
「西郷先生!」
「西郷先生!」
わあーーーっ
これで、挙兵が決まりました。
すぐに軍議が開かれ、いくつかの進撃ルートが検討されますが、結局、陸路熊本に向かい、小倉を経て東京を目指すという案(池上四郎案という)が採られます。
次回「西南戦争(一)挙兵~熊本城攻防戦」に続きます。