西南戦争(ニ)田原坂の戦い
雨は降る降る 人馬は濡れる
越すに越されぬ田原坂右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱
馬上ゆたかな美少年民謡『田原坂』
こんにちは。左大臣光永です。田原坂の戦いについてお話しします。
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田原坂の戦い。明治10年(1877)3月4から20日まで、熊本北方田原坂で、官軍と薩摩軍との間で戦われた戦闘。官軍は熊本鎮台の救援を目的として南下し、薩摩軍はこれを食い止めることを目的として、両軍が衝突した。17日間にわたる戦闘で両軍あわせて4000人以上の戦死者を出した。
私は以前、静岡で公演した後の二次会で、「こないだ実家の熊本に帰省してきました。田原坂の古戦場を歩いてきたんです」って話をしたら、「へえ田原坂ですか。確か熊本と鹿児島の間にあるんですよね」と言われてショックでした。
なんとなく「鹿児島と熊本が戦争した」ということから、地理的にも鹿児島と熊本の中ほどに田原坂がイメージされているんだなと思いました。実際には田原坂は熊本の北部にあり、鹿児島とは正反対の方向です。
しかしこれは無理からぬ誤解だと思います。西南戦争における官軍・薩摩軍双方の動きはけっこう複雑ですので、田原坂で天下を分け目の決戦的なことがあったと知識としては知っていても、なぜ田原坂という場所で戦いが起こったのか?田原坂にどういう戦略的な意味があったのか?たとえ九州におすまいでも、ご存じない方も多いかと思います。
本日は、田原坂の戦いはなぜ起こったのか?なぜ田原坂という場所が、戦略上重要だったのか?それを考えつつ、聞いていただければと思います。
前回「西南戦争(一)挙兵~熊本城攻防戦」からの続きです。
田原坂公園 美少年の像
乃木希典、連隊旗を奪われる
明治十年(1877)二月十七日、小倉に駐屯していた第十七連隊長・乃木希典少佐は、熊本に向かうよう指令を受けます。
連隊は十九日までの間に順次熊本に向けて出発。乃木希典自身は二月十八日、第三大隊とともに小倉を発ち、南関→高瀬→植木とすすみました。
二十ニ日午後四時ごろ、植木南方・向坂にて、乃木の連隊は、村田三介(元近衛少佐)ひきいる薩軍三百名あまりから攻撃を受けます。官軍と薩軍の間で、戦闘は一進一退しますが、地元植木出身の協同隊の支援を受けた薩軍が官軍を押して、千本桜まで追いやりました。
この時、連隊長乃木希典は、河原林雄太少尉に連隊旗を巻かせて撤退させましたが、河原林少尉は千本桜にあらわれませんでした。乃木は手をつくして河原林少尉をさがさせましたが、結局みつからず、その夜は木葉村に野営しました。
翌朝、向坂植木口の茶の木の根本に河原林少尉が連隊旗とともに倒れているを地元農民がみつけ、これを薩軍の村田三介にとどけたといいます。乃木希典は結果として「連隊旗を薩軍に奪われた」形となりました。後に明治天皇崩御に際して乃木が殉死した際、この一件が念頭にあったかもしれません。
木葉村の戦い
明治10年(1877)2月後半、薩摩軍は熊本城の包囲に3000の兵を残し、小倉から南下してくる官軍第一旅団・第ニ旅団を食い止めるため、熊本市街から植木を経て、北上します。
2月22日から27日にかけて、植木から玉名に向かう途中の木葉村(このはむら)で、官軍・薩摩軍の戦いが繰り返し行われました。木葉村の村人は、官軍が来れば官軍に食糧・人夫を要求され、薩摩軍が来れば薩摩軍に食糧・人夫を要求され、さんざんでした。
ただし、協力した村人に、官軍からは賃料が支払われましたが、薩摩軍からは支払われませんでした。
高瀬の戦い
2月25日から27日にかけて、熊本県北方の高瀬(熊本県玉名市高瀬)で、官軍第一旅団・第ニ旅団と桐野利秋・村田新八・篠原国幹率いる薩摩軍との戦闘が行われました。
高瀬 有栖川宮本営跡
2月27日、西郷隆盛の末弟の西郷小兵衛が高瀬川のほとりで戦死し、西郷隆盛の息子、菊次郎も足に傷を負います。薩摩軍は北上を諦めて、撤退していきます。
高瀬 西郷小兵衛の墓
高瀬 官軍墓地
このとき、敵愾隊隊長・佐々友房(薩摩側。後に済々黌高等学校の前身・同心学舎を設立)は、薩軍兵士七八人が、外套で包まれたひとつの死体を運んでいるのに出くわしました。それは誰かと尋ねると、「西郷小平君ノ遺骸ナリ。高瀬川辺ニ戦死セリト」の答えだったので、「聞ク者痛惜セサルモノナシ」と記しています(『戦袍日記』)。
木葉村焼失
3月1日、薩摩軍700名あまりがふたたび木葉村に入ります。3月3日、官軍が薩摩軍の台場に火を放つと、たちまち燃え広がり、のべ六十戸を焼きました。薩摩軍は木葉村の陣地を放棄し、植木まで撤退していきました。
かわって官軍が木葉村に入ると県の出張所と本営を置き、病院を設置します。次の田原坂の戦いでは、ここ木葉村が官軍の基地となります。
木葉村 官軍本営跡
田原坂へ
3月3日、官軍参謀山県有朋が大山巌陸軍少将率いる、別働第一旅団とともに高瀬に到着しました。
高瀬から熊本市街に向かうには三つのルートがあります。
一つが有明海沿いに南下し、河内から金峰山(きんぽうざん)を超えて熊本に向かうルート。
一つが高く険しい吉次(きちじ)峠を抜けるルート。
もう一つが田原坂を抜けるルートです。
このうち、砲隊が通れるのは田原坂だけです。
2月27日の戦いの後、薩摩軍は田原坂に陣地を築いていました。事実上、ここ田原坂が、小倉から南下してくる官軍を食い止めるための、薩摩軍にとっての最終防衛地点となります。狭い道の両側の切り立った崖の上に、土塁を築き、官軍を待ち構えていました。その数1万から1万2千といわれます。
田原坂の地たるや外昂(たか)く内低く、恰(あたか)も凹字形を成し、坂勢峻急加るに一捗一降の曲折を以てし、坂の左右は断崖峭壁にして茂樹灌木之を蔽(おお)ひ鬱蒼として昼昏く、詢(まこと)に天険と為す。賊堡塁を其要衝に築き、碁布星羅(きふせいら)互に掎角(きかく)の勢を成し、死を以て之を扼(やく)す。
『征西戦記稿』
田原坂
3月4日午前6時、官軍は田原坂下の薩摩軍の陣地に攻撃をかけ、これを蹴散らします。しかしここからが大変です。田原坂は北から一の坂、ニの坂、三の坂が続きます。
田原坂の戦い 概略図
官軍が坂道を登っていくと、両側の崖の上から、
ターン、タンタン、
ドン、ドーン
小銃で、大砲で、攻撃されます。
薩摩軍高きに在りて低に臨み、猛射急霰(きゅうさん)の如く、官軍進むものは、必ず傷き、退くものは必ず殪(たお)れ、復(ま)た一人の完膚あるものなかりき。
『西南記伝』
田原坂 遠景(写真左が玉名方面、右が植木方面)
午後3時ごろ。
ビカッ、ゴロゴロゴロ…
ザアーーー
大雨、盆を覆すが如くに降り始めました。
「怯むなッ、進めーーッ」
官軍はがむしゃらに攻め立てるも、
ターン、タン、タン
ぐはっ
ぎゃああああ
崖の上からさんざんに射撃され、次々と撃たれ倒されていく…
吉次峠の戦い
同じころ、田原坂の西、吉次峠でも薩摩軍と官軍の戦いが続いていました。薩摩軍一番大隊長・篠原国幹と二番大隊長・村田新八は、官軍野津大佐の部隊を挟撃しようと迫りますが、
吉次峠
ターーーン
ぐはっ。
篠原国幹は狙撃され、即死。それでも薩摩軍の勢いは烈しく、官軍はさんざんに打ち破られて吉次峠から撤退していきました。吉次峠はあまりに多くの死者を出したため「地獄峠」と呼ばれます。
吉次峠 篠原国幹の墓
田原坂の激戦
田原坂では泥沼の戦いが、3月4から20日まで、17日間にわたって続きました。薩摩軍は弾薬が不足してくると、官軍の弾を拾って鋳なおし、あるいは鉛のかわりに鉄を弾にするという具合で、しだいに追い詰められていきます。
官軍が主に装備しているのは元込め式のスナイドル銃で、連射が可能です。対して薩摩軍の主力武器、エンフィールド銃は先込め式で、使い勝手が悪く、しかも火薬をつめる時銃身を上にするので、雨が降ると水が流れ込んで使い物にならない。がぜん、不利でした。
田原坂公園 西南役戦没者慰霊之碑
そこで、薩摩隼人の本領発揮、
「チェストーーー」
わあーーー
勇猛果敢な抜刀隊の吶喊攻撃に、平民出身者の多い官軍は震え上がり、ひ、ひいいいーーーっ
ずば、
ぐさ、
ぐはああっ
とやられまくる。
しかし官軍も押されるばかりでない。
3月13日に警視隊巡査300名が到着すると、特に選りすぐった100名でこちらも抜刀隊を組織。
3月14日、官軍抜刀隊は左右中央三手に分かれ、薩摩軍に突っ込んでいきます。
抜刀隊は三隊に分れ、左右中央より突進し敵塁を抜けば、戦列隊進みて之に拠る。…賊は其の不意に出でたるを以て狼狽し守る所の塁を棄てて走らんとするの色あり。我が兵砲撃を止め、銃剣を装し吶喊して之を追撃す。而して巡査は刀を揮(ふる)ふて隊兵と倶に並び進みて之を追撃し、遂に賊塁三所を略す。
河口武定『従征日記』
その後も泥沼の戦いは3月20日まで、のべ17日間つづきます。
田原坂公園 美少年の像
雨は降る降る 人馬は濡れる
越すに越されぬ田原坂右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱
馬上ゆたかな美少年民謡『田原坂』
3月20日早朝、激しい雨のふりしきる中、官軍が総攻撃をしかけます。
わあーーーー
わあああーーーーー
豪雨の中、薩摩軍の先詰め式のエンフィールド銃は使い物にならず、薩摩軍は官軍にさんざんに打ち破られます。
薩摩軍は田原坂を放棄して南の植木方面に撤退していきます。
4月1日、官軍は田原坂西の半高山(はんだかやま)、および「地獄峠」とよばれた吉次峠に攻撃を仕掛け、これを落としました。
田原坂 七本官軍墓地
西郷隆盛は
田原坂で、吉次峠で激戦が続いている間、西郷隆盛は、一度も前線に出て指揮をとることはありませんでした。鹿児島から連れてきた愛犬とともに、兎狩りを楽しんでいました。
勅使の鹿児島到着
田原坂の激戦のさなかの3月8日、政府から派遣された勅使・柳原前光(やなぎわら さきみつ、大正天皇生母の兄)が、鹿児島につき、島津久光に面会します。
「西郷に手を貸すのはやめてください」
「言うまでもない。私は西郷とは関わっていない」
「では本当に関与していないのですか」
「賊に手を貸すなど、ありえない」
島津久光が西郷隆盛と手を結んで反乱を助けている、という噂があったため、勅使一行は事の真偽を確かめにきたのでした。しかし話してみると、島津久光はほんとうに無関係のようで、むしろ西郷に対して批判的でした。
勅使一行は私学校に拘束されていた少警部中原尚雄(なおお)を釈放し、薩摩軍の軍資金、兵糧、弾薬をすべて没収し、火薬製造所などを破壊しました。ここに薩摩軍は補給線を根元から絶たれた形となりました。
勅使一行は薩摩軍に加担した鹿児島県令・大山綱良を逮捕して東京に送りました。大山綱良は戦争終結後、士族身分剥奪の上、斬首されました。
薩摩軍 鹿児島での狼藉
一方、薩摩軍は戦力立て直しのため、鹿児島で強制的に募兵を行います。中にも辺見十郎太は、かつて自分が区長を努めていた地区の領民を、15歳から60歳まで強制的に従軍させました。
従わなければ殺す。妻子にも危害を加えるといって、脅しました。こうしたかき集めた兵は2000人にのぼりました。
また鹿児島の八幡神社の境内に留置所をつくり、逃げ帰ってきた薩摩兵の妻子を捕らえて、拘束しました。
別働隊
田原坂の戦いが続いているさなかの三月十九日、官軍の別働隊が日奈久から上陸。八代に向かいました。鹿児島と熊本の薩軍の連絡を断つのが目的でした。八代はその日のうちに官軍の支配下に入りました。
これに対して薩軍は鹿児島市内で募兵を行い、2000名あまりで八代を襲おうとしました。協同体参謀長宮崎八郎が指揮にあたります。宮崎八郎は、大口(おおくち。鹿児島県伊佐市)にて別府晋介、辺見十郎太率いる1500名と合流し、人吉から八代に出て官軍と交戦。四月六日、球磨川をはさんで官軍・薩軍両軍は対峙。戦闘が行われました。
しかし薩軍は結局八代を抜くことはできず、撤退していきました。その際、宮崎八郎は球磨川の萩原堤(現八代市)で戦死しました。
次回「西南戦争(三)西郷隆盛、城山に死す」に続きます。