西南戦争(ニ)田原坂の戦い

こんにちは。左大臣光永です。

先日、熊本県北西部の天水(てんすい)に行ってきました。夏目漱石『草枕』の舞台となった、山あいの町です。ふもとにはみかんで有名な河内の町が、有明海に面して広がっています。

露天風呂から西の方を見渡すと、眼下には緑なす麦畑とビニールハウスの屋根が、大書院の畳のように整然と広がり、その先に満々たる有明海、そのむこうに雲をまとった雲仙岳がそびえ立ち、雄大な気分でした。

本日のメルマガは、「西南戦争(ニ)田原坂の戦い」です。

田原坂公園 美少年の像
田原坂公園 美少年の像

雨は降る降る 人馬は濡れる
越すに越されぬ田原坂

右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱
馬上ゆたかな美少年

民謡『田原坂』

前々回「西南戦争前夜」
https://history.kaisetsuvoice.com/Meiji_SeinanSensouZenya.html

前回「西南戦争(一)挙兵~熊本城攻防戦」
https://history.kaisetsuvoice.com/Meiji_SeinanSensou1.html

木葉村の戦い

明治10年(1877)2月後半、

西郷軍は熊本城の包囲に3000の兵を残し、小倉から南下してくる政府軍第一旅団・第ニ旅団を食い止めるため、熊本市街から植木を経て、北上します。

2月22日から27日にかけて、植木から玉名に向かう途中の木葉村(このはむら)で、政府軍・西郷軍の戦いが繰り返し行われました。木葉村の村人は、官軍が来れば官軍に食糧・人夫を要求され、西郷軍が来れば西郷軍に食糧・人夫を要求され、さんざんでした。

ただし、協力した村人に、政府軍からは賃料が支払われましたが、西郷軍からは支払われませんでした。

高瀬の戦い

2月25日から27日にかけて、熊本県北方の高瀬(熊本県玉名市高瀬)で、政府軍第一旅団・第ニ旅団と桐野利秋・村田新八・篠原国幹率いる西郷軍との戦闘が行われました。

高瀬 有栖川宮本営跡
高瀬 有栖川宮本営跡

2月27日、西郷隆盛の末弟の西郷小兵衛が高瀬川のほとりで戦死し、西郷隆盛の息子、菊次郎も足に傷を負います。西郷軍は北上を諦めて、撤退していきます。

高瀬 西郷小兵衛の墓
高瀬 西郷小兵衛の墓

高瀬 官軍墓地
高瀬 官軍墓地

木葉村焼失

3月1日、西郷軍700名あまりがふたたび木葉村に入ります。3月3日、政府軍が西郷軍の台場に火を放つと、たちまち燃え広がり、のべ六十戸を焼きました。西郷軍は木葉村の陣地を放棄し、植木まで撤退していきました。

かわって政府軍が木葉村に入ると県の出張所と本営を置き、病院を設置します。次の田原坂の戦いでは、ここ木葉村が政府軍の基地となります。

木葉村 官軍本営跡
木葉村 官軍本営跡

田原坂へ

3月3日、政府軍参謀山県有朋が大山巌陸軍少将率いる、別働第一旅団とともに高瀬に到着しました。

高瀬から熊本市街に向かうには三つのルートがあります。

一つが有明海沿いに南下し、河内から金峰山(きんぽうざん)を超えて熊本に向かうルート。

一つが高く険しい吉次(きちじ)峠を抜けるルート。

もう一つが田原坂を抜けるルートです。

このうち、砲隊が通れるのは田原坂だけです。

2月27日の戦いの後、西郷軍は田原坂に陣地を築いていました。狭い道の両側の切り立った崖の上に、土塁を築き、政府軍を待ち構えていました。その数1万から1万2千といわれます。

田原坂の地たるや外昂(たか)く内低く、恰(あたか)も凹字形を成し、坂勢峻急加るに一捗一降の曲折を以てし、坂の左右は断崖峭壁にして茂樹灌木之を蔽(おお)ひ鬱蒼として昼昏く、詢(まこと)に天険と為す。賊堡塁を其要衝に築き、碁布星羅(きふせいら)互に掎角(きかく)の勢を成し、死を以て之を扼(やく)す。

『征西戦記稿』

田原坂
田原坂

3月4日午前6時、政府軍は田原坂下の西郷軍の陣地に攻撃をかけ、これを蹴散らします。しかしここからが大変です。田原坂は北から一の坂、ニの坂、三の坂が続きます。

田原坂の戦い 概略図
田原坂の戦い 概略図

官軍が坂道を登っていくと、両側の崖の上から、

ターン、タンタン、

ドン、ドーン

小銃で、大砲で、攻撃されます。

薩軍高きに在りて低に臨み、猛射急霰(きゅうさん)の如く、官軍進むものは、必ず傷き、退くものは必ず殪(たお)れ、復(ま)た一人の完膚あるものなかりき。

『西南記伝』

田原坂 遠景(写真左が玉名方面、右が植木方面)
田原坂 遠景(写真左が玉名方面、右が植木方面)

午後3時ごろ。

ビカッ、ゴロゴロゴロ…

ザアーーー

大雨、盆を覆すが如くに降り始めました。

「怯むなッ、進めーーッ」

官軍はがむしゃらに攻め立てるも、

ターン、タン、タン

ぐはっ

ぎゃああああ

崖の上からさんざんに射撃され、次々と撃たれ倒されていく…

吉次峠の戦い

同じころ、田原坂の西、吉次峠でも薩摩軍と官軍の戦いが続いていました。薩摩軍一番大隊長・篠原国幹と二番大隊長・村田新八は、官軍野津大佐の部隊を挟撃しようと迫りますが、

吉次峠
吉次峠

ターーーン

ぐはっ。

篠原国幹は狙撃され、即死。それでも薩摩軍の勢いは烈しく、官軍はさんざんに打ち破られて吉次峠から撤退していきました。吉次峠はあまりに多くの死者を出したため「地獄峠」と呼ばれます。

吉次峠 篠原国幹の墓
吉次峠 篠原国幹の墓

田原坂の激戦

田原坂では泥沼の戦いが、3月4から20日まで、17日間にわたって続きました。薩摩軍は弾薬が不足してくると、官軍の弾を拾って鋳なおし、あるいは鉛のかわりに鉄を弾にするという具合で、しだいに追い詰められていきます。

官軍が主に装備しているのは元込め式のスナイドル銃で、連射が可能です。対して薩摩軍の主力武器、エンフィールド銃は先込め式で、使い勝手が悪く、しかも火薬をつめる時銃身を上にするので、雨が降ると水が流れ込んで使い物にならない。がぜん、不利でした。

田原坂公園 西南役戦没者慰霊之碑
田原坂公園 西南役戦没者慰霊之碑

そこで、薩摩隼人の本領発揮、

「チェストーーー」

わあーーー

勇猛果敢な抜刀隊の吶喊攻撃に、平民出身者の多い官軍は震え上がり、ひ、ひいいいーーーっ

ずば、

ぐさ、

ぐはああっ

とやられまくる。

しかし官軍も押されるばかりでない。

3月13日に警視隊巡査300名が到着すると、特に選りすぐった100名でこちらも抜刀隊を組織。

3月14日、政府軍抜刀隊は左右中央三手に分かれ、官軍に突っ込んでいきます。

抜刀隊は三隊に分れ、左右中央より突進し敵塁を抜けば、戦列隊進みて之に拠る。…賊は其の不意に出でたるを以て狼狽し守る所の塁を棄てて走らんとするの色あり。我が兵砲撃を止め、銃剣を装し吶喊して之を追撃す。而して巡査は刀を揮(ふる)ふて隊兵と倶に並び進みて之を追撃し、遂に賊塁三所を略す。

河口武定『従征日記』

その後も泥沼の戦いは3月20日まで、のべ17日間つづきます。

田原坂公園 美少年の像
田原坂公園 美少年の像

雨は降る降る 人馬は濡れる
越すに越されぬ田原坂

右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱
馬上ゆたかな美少年

民謡『田原坂』

3月20日早朝、激しい雨のふりしきる中、官軍が総攻撃をしかけます。

わあーーーー
わあああーーーーー

豪雨の中、西郷軍の先詰め式のエンフィールド銃は使い物にならず、薩摩軍は政府軍にさんざんに打ち破られます。

薩摩軍は田原坂を放棄して南の植木方面に撤退していきます。

4月1日、官軍は田原坂西の半高山(はんだかやま)、および「地獄峠」とよばれた吉次峠に攻撃を仕掛け、これを落としました。

田原坂 七本官軍墓地
田原坂 七本官軍墓地

西郷隆盛は

田原坂で、吉次峠で激戦が続いている間、西郷隆盛は、川尻の本営を一歩も動きませんでした。鹿児島から連れてきた愛犬とともに、兎狩りを楽しんでいました。


川尻 薩軍本影跡

勅使の鹿児島到着

田原坂の激戦のさなかの3月8日、政府から派遣された勅使・柳原前光(やなぎわら さきみつ、大正天皇生母の兄)が、鹿児島につき、島津久光に面会します。

「西郷に手を貸すのはやめてください」
「言うまでもない。私は西郷とは関わっていない」
「では本当に関与していないのですか」
「賊に手を貸すなど、ありえない」

島津久光が西郷隆盛と手を結んで反乱を助けている、という噂があったため、勅使一行は事の真偽を確かめにきたのでした。しかし話してみると、島津久光はほんとうに無関係のようで、むしろ西郷に対して批判的でした。

勅使一行は私学校に拘束されていた少警部中原尚雄(なおお)を釈放し、西郷軍の軍資金、兵糧、弾薬をすべて没収し、火薬製造所などを破壊しました。ここに薩摩軍は補給線を根元から絶たれた形となりました。

勅使一行は西郷軍に加担した鹿児島県令・大山綱良を逮捕して東京に送りました。大山綱良は戦争終結後、士族身分剥奪の上、斬首されました。

薩摩軍 鹿児島での狼藉

一方、薩摩軍は戦力立て直しのため、鹿児島で強制的に募兵を行います。中にも辺見十郎太は、かつて自分が区長を努めていた地区の領民を、15歳から60歳まで強制的に従軍させました。

従わなければ殺す。妻子にも危害を加えるといって、脅しました。こうしたかき集めた兵は2000人にのぼりました。

また鹿児島の八幡神社の境内に留置所をつくり、逃げ帰ってきた薩摩兵の妻子を捕らえて、拘束しました。

鹿児島県民の動揺

西郷隆盛と私学校が決起した当初、鹿児島の庶民の多くは無関心でした。なぜ決起したのかも理解されていませんでした。

そもそも鹿児島の庶民にとって西郷隆盛は雲の上の存在であり、べつだん日常生活にかかわってきませんでした。

鹿児島にトクになるなら支持するし、そうでないなら、知らん。

そのていどでした。

「西郷隆盛は親分肌で、人気があった」

とよく言われますが、これはあくまで私学校生徒や士族から見た話です。庶民にとってはピンと来ない存在でしかありませんでした。

ところがここに至り、鹿児島が政府から攻撃目標にされている。薩摩軍が鹿児島で強制募兵を行い、妻子を人質に取るまでやりだした。

「ふざけんな!」
「何てことしてくれた!」

西郷隆盛および私学校に対する鹿児島庶民の反発は、一気に高まります。

次回「西南戦争(三)西郷隆盛、城山に死す」に続きます。

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「幕末の歴史はわかりにくい」

「複雑だ」

そう思ってませんか?

私は思ってます。

だって実際、幕末はわかりにくく、複雑ですから。

じゃあなぜ幕末はあんなにも複雑で、入り組んでいるのか?

どうやったらスッとわかりやすく、歴史の流れをつかめるのか?

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本日も左大臣光永がお話しました。

解説:左大臣光永