西南戦争(一)挙兵~熊本城攻防戦

こんにちは。左大臣光永です。

いよいよ明日から中国・韓国からの入国制限が始まります。すでに発行しているビザを停止し、入国者には2週間の待機を要請するということで、「入国禁止」ではないといっても、観光客はガタッと減るでしょう。

遅すぎる処置でしたが、やらないよりやったほうが、ずっとマシです。朝日新聞や蓮舫がギャアギャアわめき散らしてますが、朝日新聞や蓮舫がわめき散らすということは、この処置がきわめてまっとうで正しい処置であることを示しています。

これを機に、インバウンド需要などタワ言はやめて、中国・韓国を徹底して見捨てるべきなんです。

中国人観光客が減れば、一時的には収入が減っても、まともな旅行客が戻ってきて、最終的には利益が大きくなるでしょう。

本日のメルマガは、「西南戦争(一)挙兵~熊本城攻防戦」です。

前回「西南戦争前夜」
https://history.kaisetsuvoice.com/Meiji_SeinanSensouZenya.html

西郷軍、挙兵

明治10年(1877)2月5日、鹿児島の私学校幹部は政府に対して挙兵することを決めました。翌6日は朝から従軍を願い出るものが相次ぎ、その数3000人を越えました。

この日の作戦会議で、決起の基本方針が話し合われます。

西郷小兵衛(こへえ)の意見は、

「海路長崎に向かい、軍艦をうばい、一手は大阪・神戸へ、一手は東京・横浜へ向かう」というもの。

野村忍介(のむら おしすけ)の意見は、

「全軍を三手に分け、一手は熊本鎮台から佐賀・福岡を経て東上、一手は宮崎・大分を経て四国にわたり、高知の同志を加えて大阪に上陸し、一手は下関に渡り東上する」というもの。

しかし結局、

「全軍で熊本に向かい、熊本城を包囲し、敵を撃退しつつ東上する」という池上四郎(いけがみ しろう)の意見が採用されました。

とはいえ具体的な戦略はなにもなく、ただ西郷隆盛のカリスマ一つに頼っていました。

ジャーナリストの徳富蘇峰(とくとみ そほう)は「戦争としてはあまりに無謀無策」と記しています。

2月9日、海軍大輔・川村純義(かわむら すみよし)が鹿児島港に到着。西郷隆盛との面会を求めますが、私学校の妨害ではたせず、船の上で鹿児島県令大山綱良(おおやま つなよし)と面会だけが、かないました。

そこで政府が西郷を暗殺しようとしている。西郷はそれを知ったので挙兵に踏み切ったのだという経緯をきいて川村純義は、

「暗殺の件は裁判で争うべきである。とにかく西郷にあわせてくれ」

と求めますが、桐野利秋の妨害で、西郷との面会はかないませんでした。

2月12日、西郷隆盛は桐野利秋・篠原国幹との連名で、政府に当てた書状を鹿児島県令・大山綱良に託します。

「このたび政府に尋問することがあり、多数の兵を率いて出立します。人民が動揺しないよう、保護をお願いします」と。

拙者どもこと、先般御暇の上、非役にて帰県致し居り候処、今般政府へ尋問の筋これあり、不日に当地発程致し候間、お含みのため此の段、届け出で候。もっとも旧兵隊の者ども随行、多人数動揺致さざる様、一層御保護依頼に及び候也。

西郷が挙兵した真意は?

これを本当に西郷が書いたのだとしたら、バカバカしい話です。

「政府へ尋問の筋これあり」といっているのは西郷隆盛暗殺計画のことですが、そもそもそんな計画がほんとうにあったのか?真偽があやふやです。おそらく無かったでしょう。何のメリットもないから。

そもそも西郷一個の暗殺計画ごときは、所詮は個人的な話です。大久保利通と西郷隆盛で、二人で話し合いでも果し合いでも勝手にやればいいことです。大軍を率いて戦を起こすほどの大義名分には、なりえないです。こんなアホな理由で動員された薩摩兵も、それと戦った政府軍も、引っ掻き回された民衆も、えらい迷惑です。

ただしこの書状をほんとうに西郷隆盛が書いたかは疑わしいとされます。西郷と私学校の暴発に少しでも正当性を出すため、鹿児島県令大山綱良が創作したとも言われます。

では西郷が挙兵した真意は何だったのか?

政府の人間が鹿児島の武器庫から武器を接収していた。それに気づいた私学校生徒が、あっ俺たちの武器を奪われるぞ。やっちまえ!と暴発した。それに乗る形で、西郷先生、立ち上がってください。うむ…わが生命、おはんらに預けると。

こういう、事件の流れはハッキリしていますが、

そこに至る、西郷の胸の内は、どうだったの?

ここが、よくわかりません。

よく言われるのが、

死に場所を求めていたとか、

武士としての生き様・死に様を示したかった、とかですが…

そんな個人的な精神論のために大軍を動かしたというのも、ムリがある話です。

現状、西郷隆盛が挙兵した真意は、

「わからない」としか言いようがないです。

今後の研究を待つばかりです。

西郷軍、熊本へ進撃

2月13日までに私学校生徒を中心に13000人が鹿児島城・私学校前の練兵場に集まりました。ここで部隊の編成が行われます。

総指揮官 西郷隆盛以下、

篠原国幹(陸軍少将) 率いる 一番大隊、
村田新八(宮内大丞) 率いる 二番大隊、
永山弥一郎(開拓使屯田兵事務局) 率いる 三番大隊
桐野利秋(陸軍少将 元熊本鎮台司令長官 陸軍裁判所長) 率いる 四番大隊
池上四郎(元近衛少佐 外務省十等出仕)率いる 五番大隊
別府晋介(近衛陸軍少佐) 率いる 六番七番連合大隊

一番大隊から五番大隊までは200人の小隊10隊で2000人、六番七番連合大隊は1500人。各大隊長の下には、小隊長・半隊長・分隊長が置かれ、それぞれに砲隊が配備されました。

砲隊は4斤山砲28門、12斤野砲2門、臼砲(砲身が短く臼のような形をしててる)30門からなりました。

2月15日、この日は50年ぶりの大雪が降りました。午前7時、一番大隊、二番大隊4000人に対して訓示が行われます。

此の出兵たるや他なし、政府の非を糾問せんとする也。軍律あることなし。只、酒を禁ず。若し酒を呑んで酗(く)する者は軍法に処す可し

別府晋介率いる 六番七番連合大隊が先発し、その後に篠原国幹率いる一番大隊、村田新八率いる二番大隊が続きます。2月15日から17日にかけて順次、鹿児島を出発します。別府伸介以下の先発隊は鹿児島から出水(いずみ)街道を通って海沿いに進み、

出水(鹿児島県出水市)→水俣(熊本県水俣市)から、津奈木太郎(つなぎたろう)峠・佐敷太郎(さしきたろう)峠・赤松太郎(あかまつたろう)峠、合わせて三太郎峠を超えて、2月18日、日奈久(ひなぐ)につきました。その間、一日も太陽は出ず、雪は深くなる一方でした。

ほかの部隊は偶数隊が先発隊と同じく出水街道を進み、

奇数隊は右手に雪の桜島を見やりながら出発し、加治木(かじき)→横川(よこがわ)→大口(おおぐち)と大口街道を進み、水俣から先は先発隊と同じコースで熊本を目指します。

彼らは城下士(じょうかし・鹿児島城下の武士)が元込め式のスナイドル銃、もしくは先込め式のエンフィールド銃を持ち、一人あたり100-150発の弾丸を携行していました。外城士(鹿児島城外すむ身分の低い武士)は火縄銃を持っていきました。それぞれ腰に刀を帯び、ズボンに上着を着て、脚絆に草鞋履きでした。

暴徒鎮圧の勅命下る

2月19日、明治天皇より「鹿児島の暴徒を鎮圧せよ」と勅命が下ります(ただしそれ以前から警察隊や軍隊は九州に向かっていた)。

有栖川宮熾仁(ありすがわのみや たるひと)親王を「鹿児島県逆徒征討総督」に、参謀に陸軍中将山県有朋、海軍中将川村純義を置きます。同時に、西郷隆盛・桐野利秋・篠原国幹の官位を剥奪しました。ここに西郷軍は「朝敵」となりました。

政府軍は徴兵による常備軍が八割、それに二割の陸軍と巡査隊が加わりました。当初、政府軍はニ個旅団2000名ていどでしたが、戦争が進むにつれて戦力を補充し、最終的には総勢5万8000人にまで膨れ上がりました。

また政府軍の装備は西郷軍よりはるかに勝っていました。大砲は100門以上、小銃は元込め式のスナイドル銃が主力。軍艦19隻、汽船44隻、そのほか陸軍では民間の船85船を雇い入れて動員しました。

ここまですみやかで大規模な用意ができたのは、政府にとって鹿児島の決起が「寝耳に水」ではなく、前々から予測していたためでした。

2月20日、征討総督有栖川宮熾仁親王は東京を出発。同日、2個旅団が神戸から四隻の汽船に分乗して出港。また、西郷軍が海路攻めてくることを想定して、鹿児島の阿久根(あくね)に戦艦清輝(せいき)を、長崎に戦艦龍驤(りゅうじょう)を配備します。

同日、別府晋介 率いる 西郷軍六番七番連合大隊(先発隊)は、日奈久→八代→宇土と進み、熊本城南8キロの川尻(かわしり)につきます。その夜、政府軍が夜襲をしかけてきますが、川尻の西郷軍はこれを撃退しました。

2月21日、西郷軍の大半が川尻に集結し、本営を置きました。ここまで途中からの参加者もあり、西郷軍は30000名ほどに増えていました。


川尻 薩軍本影跡

2月22日、政府軍、博多着。

2月26日、征討総督・有栖川宮熾仁親王、博多着。福岡の日蓮宗勝立寺(しょうりゅうじ)に本営を置きます(以後、征討軍本営は戦況にしたがって久留米→熊本城→鹿児島→都城(みやこのじょう)へ移動)。

熊本城攻防戦

熊本城には鎮台司令官谷干城(たに たてき、土佐、陸軍少将)、参謀長樺山資紀(かばやま すけのり、薩摩、陸軍中佐)、副参謀児玉源太郎(こだま げんたろう、長州、陸軍少佐)以下、3400人あまりが立てこもっていました。


谷干城像(熊本市 高橋公園)

政府は鹿児島の賊徒征討令の発令以前に熊本鎮台に「熊本城の死守」を命じていました。

攻守宜(よろ)しきに従い、唯万死を期して熊本城を保たざるべからず

陸上自衛隊北熊本修親会「新編西南戦史」1977年

具体的な戦略としては三案が検討されました。

一、肥薩国境(三太郎峠)で西郷軍を迎え撃つ
ニ、熊本城外で決戦を挑む
三、籠城し、小倉からの援軍を待つ

の三案が検討されましたが、結局「三」の籠城し、小倉からの援軍を待つ…つまり消極策が採られました。

数に4倍の西郷軍を迎え撃つには籠城のほかなかったこと、昨年10月の「神風連(しんぷうれん)の乱」により熊本鎮台兵の士気はいちじるしく低下しており、城の外で戦えば勇猛果敢な薩摩兵に勝てる見込みは少なかったことが理由でした。

さて、西郷隆盛に味方したのは鹿児島の士族だけではありません。

他県の者も多くありました。熊本では保守派士族1300人15小隊が、熊本の東のはずれ健軍(けんぐん)神社で血盟を結びました。彼らは池辺吉十郎(いけべ きちじゅうろう)を隊長に、「熊本隊」として、西郷軍に合流しました。

中にも小隊(敵愾隊)長の一人、佐々友房(さっさ ともふさ)は、戦後捕らえられますが、病気を理由にゆるされ、明治12年(1879年)済々黌(せいせいこう)高等学校の元となる同心学舎(どうしんがくしゃ)を設立します。

また熊本県から人吉(ひとよし)隊、宮崎県から延岡(のべおか)隊、高鍋(たかなべ)隊、佐土原(さどはら)隊、飫肥(おび)隊、都城(みやこのじょう)隊。大分県から中津(なかつ)隊などが西郷軍に合流しました。

2月18日、熊本県庁は市民に避難命令を出します。三発の午砲を合図に、城門が閉じられます。

2月19日午前、西郷軍との決戦を前に、熊本城の天守から火が出ました。

本日午前十一時四十分、本城火を失す。偶々(たまたま)西南の風烈しく、瞬間四方に延焼し、遂に天守台に及ぶ。時に午後第三時漸く鎮火す。斯の如き火勢の甚だ熾(さかん)なる固(もと)より消防の及ぶ所にあらずと雖も、兵器弾薬の此災に罹(かか)らざることを力(つと)め、各官皆倉庫に登り、部下を励まし、或は之を運搬せしめ、遂に殃火(おうか)を免れしむるを得る。実に天幸と謂つべし。然(しかり)と雖も、凡そ三十日間の粮米(ろうまい)食糧尽(ことごと)く灰燼に帰せり。

『熊本鎮台戦闘日記』 明治10年2月19日


熊本城天守(再建中)

火事の原因は、失火説、西郷軍が放火した説、西郷軍から天守閣が砲撃されることを嫌って鎮台兵がみずから火を放った説があり、結論が出ていません。

いずれにせよ天守に備蓄されていた一ヶ月ぶんの食糧500石が焼失してしまいました。籠城戦においては、がぜん厳しいことになってきました。

2月20日ころ、熊本鎮台は城下町に火をかけます。薩摩軍が隠れる場所をなくし、射撃しやすくするためでした。城下町一帯が灰燼に帰しました。

おゝ炎々と燃える天守閣!窓から凄まじい火焔を吹いて、強風が黒煙を龍巻きのように、空高く巻きあげ、城下の街々へ火の粉を降らしている!強風にあおられて火勢はますますつのるばかりである。……大火は二十日の夜になつて漸く鎮まつたが、城下の殆ど全部が見渡す限りの焦土と化して惨憺たる光景であつた。この大火は薩軍の侵入に備えて鎮台が火を放つたものであるが、当時一般の人には考え及ばないことであつた。

『城下の人』石光真清(いしみつ まきよ)

これは熊本鎮台が、つまり政府側が指示して放火させたわけですが、先日の「熊本城天守の失火」の延長で、火が燃え広がったのだ、とされました。つまり「政府がやったのではない」ことにされました。

2月21日、西郷軍が熊本城に通じる電信線を切ったので、鎮台兵はたちまち孤立無援状態におちいります。

2月22日午前3時、西郷軍は川尻を出発。5700人が二手に分かれ、一手は熊本城東の新屋敷方面へ、一手は熊本城西の段山(だにやま)方面に進み、熊本城を四方から取り囲むように布陣しました。


段山古戦場碑

夜明けとともに熊本城への総攻撃が始まります。

桐野利秋隊、別府晋介隊が熊本城に銃撃を開始。タン…タンッ…しかし小銃だけでは大した戦果は上がらないところへ鎮台兵が

ドゴーン、ドゴン
タターン、タン、タン

大砲を放ち、石垣の上から小銃を連射し、西郷軍を撃退しました。


熊本城 宇土櫓

西郷隆盛はこの日の夜明け前に川尻を発ち、熊本城南2.5キロの春竹に至った時、砲声をききました。やがて本庄の白川岸にある代継(よつぎ)神社(現在は立田山東峰天拝山頂上にある)に行き、ここから熊本城攻めのようすをうかがっていると、池上四郎が熊本城の北・京町方面から駆けてきて、西郷に戦況を伝えました。


代継橋

その後、西郷は代継神社を出て、春竹本通の紺屋松島善七宅に本営を置きましたが、夜になって花岡山のふもと・春日に本営を移します。

熊本城攻防戦は54日間続き、西郷軍、熊本鎮台兵、一進一退繰り返しました。花岡山山頂からは北東4キロに熊本城が見渡せます。しばしば花岡山山頂から熊本城に砲撃が行われました。しかし砲弾の多くは城まで届かず、城下町に落ちたそうです。それでも心理的な効果は大きかったでしょう。

熊本城の守りには熊本鎮台兵のほか、小倉と福岡の分営が命じられていました。2月22日、乃木希典率いる小倉分営隊が、熊本鎮台の救援にかけつけますが、西郷軍に撃退され、連隊旗を奪われてしまいます。

後に、明治天皇崩御の際、乃木希典は殉死しますが、殉死した理由のひとつが、熊本城攻防戦のとき連隊旗を奪われたのを悔やんでいたためと言われます。

当初、西郷軍は熊本城はかんたんに落ちると思っていました。

桐野利秋は熊本城を守る谷干城に、「百姓に鉄砲をもたせて何になる」と嘲ったことがあります。百姓など、いざとなったら戦う覚悟はない。我ら薩摩隼人の敵では無いと。

しかしこれは大きな誤算でした。

政府軍は鹿児島の決起をあらかじめ予想して、食糧・弾薬をじゅうぶんに用意していました。大将谷干城以下、士気は高く、決死の覚悟で熊本城を守っていました。

2月22日、23日、24日と西郷軍は熊本城を攻撃しますが、いずれも熊本城からの砲撃に撃退されてしまいます。

ここに至り、西郷軍は方針を変更することを余儀なくされます。

「夜襲をしかけ、一気にけりをつけましょう」

といった篠原国幹の意見で大方決まりそうになりましたが、

「熊本城が二三日で落ちるとは思えません。ぐずぐずしている内に敵の本隊が到着してしまう。熊本城の包囲には3000の兵を残し、残りは小倉に向けて北上すべきです」

といった野村忍介の意見が通ります。

次回「西南戦争(ニ)田原坂の戦い」に続きます。

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本日も左大臣光永がお話しました。

解説:左大臣光永