佐賀の乱

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八代将軍徳川吉宗の時代から、
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本日のメルマガは、明治7年の「佐賀の乱」を中心に語ります。

前々回「征韓論紛争」
https://history.kaisetsuvoice.com/Meiji_seikanron.html

前回「明治六年の政変」
https://history.kaisetsuvoice.com/Meiji6.html

喰違の変 岩倉具視襲撃事件

明治6年(1873)11月、西郷隆盛は東京を去って鹿児島に下り、鹿児島武屋敷(鹿児島県鹿児島市武 西郷武屋敷跡)に入りました。西郷とともに辞職した板垣退助は高知へ、江藤新平は佐賀に入りました。

このころから、明治政府の一連の士族解体政策に怒りをたぎらせた士族たちが、各地で過激化します。

明治7年(1874)正月14日夜、右大臣岩倉具視が赤坂の仮皇居での政務を終えた後、帰宅しようと馬車に乗り、喰違にさしかかったところ、数人の賊に襲われます。

(この前年、皇居が火事で焼け、赤坂御殿が仮皇居になっていた)

賊の一人は、馬車の右の轅を駆け上り、ざんっ…輿の中に切り込むと、その切っ先は、岩倉の眉間をかすめました。

「ひっ…ひいいッ!」

もう一人が後ろから馬車のほろを切りました。

岩倉は御者台の下にかくれ、縮こまっていると、後ろから切りつけられ、ガチンッ…しかし腰におびた刀に当たり、かすり傷を負い、あわてて飛び出したところ、ドサーッ。堀に落ち込みました。賊は、岩倉を仕留めたと思い、引き返していきました。

「岩倉卿襲撃の犯人を捕らえよ!何としてもだ!」

政府は出来たばかりの警視庁川路利良大警視に命じます。また全国に太政官の命令でに犯人捜索を命じました。

事件から3日後の正月17日夜、5人が逮捕され、ついで4人が逮捕されました。

犯人は高知県士族でした。首謀者は元近衛大尉・武市熊吉(たけち くまきち)。征韓論論争で西郷が辞職するのに伴い辞職した男でした。岩倉具視が独断で征韓論を退けたことに恨みをいだいたのが襲撃の動機でした。

明治政府は武市の背後に西郷が糸を引いていると疑いましたが、証拠は出ませんでした。形ばかりの裁判の末、同年9月、九人全員が斬られました。

これを「喰違の変」といいます。

以後、明治7年(1874)2月佐賀の乱、明治9年(1876)10月神風連の乱、秋月の乱、萩の乱

明治10年(1877)西南の役まで、「不平士族の反乱」が相次ぎます。

佐賀の乱

佐賀にはかねてから征韓論を唱える征韓党と、攘夷論を唱える憂国党が対立していました。征韓党は参議江藤新平と通じており、憂国党は島義勇(しま よしたけ)を首領としていました。

両者はいがみあっていましたが、明治6年(1873)の政変で征韓論がしりぞけられると、がぜん憤り、それまで敵どうしだったものが、手を結びます。

前参議江藤新平は、彼らをなだめる、と称して東京を離れ、明治7年正月13日、佐賀に入ると、県内は政府を倒せの声、勇ましく上がっていました。

「いったん閣議で決まった征韓論をしりぞけるとはけしからん」
「岩倉具視は国賊である」

江藤新平は旧藩校の弘道館に本部を置き、武器を集め挙兵の準備をすすめる一方、薩摩の西郷隆盛、前高知県令の林有造(ゆうぞう)らに密書を送り、ともに挙兵してくれと呼びかけました。

2月1日、憂国党が佐賀県内の豪商小野組の支店を襲撃。金穀(金と穀物)を略奪し、反乱に踏み切りました。

2月4日、明治政府は熊本鎮台に佐賀の乱の鎮圧を命じます。

大久保利通は考えました。

ここで佐賀の反対勢力に徹底的なダメージを与えておけば、全国の不平士族への見せしめになる。

そこで大久保利通は自ら願い出て、

2月10日、反乱鎮圧のため、軍事・裁判の全権を委任されます。

2月16日、佐賀県内の征韓党・憂国党の党員2500人が挙兵。2月18日、佐賀城を攻撃し、佐賀権令岩村高俊(たかとし)を敗走させました。

2月20日、鹿児島に帰国していた前鹿児島藩主島津久光が、山川温泉(指宿市)で療養中の西郷隆盛をたずね、問いただします。

「西郷、お前、江藤に手を貸しているのではないか?」

「ありません。今後も、江藤と同調するつもりはありません」

「ならば佐賀に行って鎮圧してこい」

「自分のような世捨て人が出る幕ではございません。政府には軍隊がござりましょう」

そう言って西郷は断りました。ただし西郷は討伐には加わらないが、鹿児島の士族たちに「佐賀の動きと同調するな」とよくよく戒めました。その効果はありました。

江藤新平は鹿児島、久留米、土佐などからの協力を期待しましたが、誰も協力しませんでした。最新鋭の装備を持つ政府軍に、古臭い攘夷主義をとなえる江藤軍はなすすべもなく敗れました。

2月23日、江藤新平と島義勇は佐賀を脱出。同日、東京では、仁和寺宮嘉彰親王を征討総督に、陸軍中将山県有朋、海軍少将伊東佑麿を参謀とする征討軍が東京を出発。佐賀に向かいました。

もう決着はついているのに、わざわざ派手な陣立てで征討軍が出発したのは「明治政府は強いぞ!逆らったらこんなふうに、大変なことになるぞ」というアピールでした。

江藤新平は8人の部下を引き連れて鹿児島に落ち延び、3月1日、鰻温泉(うなぎおんせん。指宿市)で療養中の西郷隆盛に助けを求めます。しかし西郷は取り合いませんでした。

一方、島義勇は前鹿児島藩主・島津久光をたよりますが、門前払いされ、3月7日、鹿児島で捕らえられました。

江藤新平は日向から海をわたり伊予へ、さらに土佐に逃れ、板垣退助の側近で前高知県令の林有造を頼りますが、断られ、今度は海岸沿いに阿波に抜けようとしますが、

3月29日、土佐の甲浦(かんのうら)にて逮捕されました。

4月9日、大久保利通は佐賀で臨時裁判を開き、4月13日、江藤新平と島義勇を謀反の罪により士族身分を剥奪の上、斬首、さらし首にしました。ほかの11名は斬刑でした。

元参議・元司法卿である江藤新平がさらし首になるなど、前代未聞のことでした。しかし大久保利通は不平士族への見せしめとして、あえて江藤をさらし首にしました。

台湾出兵

佐賀の乱を鎮圧した直後、大久保利通は台湾への出兵を計画します。目的は不平士族の目を海外に向けるためでした。つまり、前に西郷隆盛が朝鮮に対して戦を起こそうとしていたことと目的は同じです。

明治初期の日本と台湾の交渉をふりかえると、

明治4年(1871)、琉球国の船が、台湾南部に漂着したところ、乗員66人のうち54人が原住民に殺されるという事件が起こりました。

明治政府はこれに抗議して、台湾の宗主国である清国に賠償を求めました。

しかし清国の答えは、

「原住民のことは管轄外である。清国に責任はない」

というものでした。

鹿児島県参事・大山綱良は、台湾を征伐しようと明治政府に献策しました。しかしまずは話し合いだということで、

明治政府は外務卿副島種臣(そえじま たねおみ)(薩摩)を使者として北京に派遣しました。清国側と協議の結果、明治6年(1873)3月、日清修好条約が締結されました。

これで清国とはケリがつきましたが、台湾に対しては落とし前をつける必要がありました。

明治7年(1874)2月、大久保利通は佐賀の乱を鎮圧すると、台湾への出兵を計画します。

しかし木戸孝允はこれに反対し、4月18日、参議兼文部卿を辞職します。

木戸孝允が言うには、前の征韓論を退けたのは、海外との無用な戦を避け、内政を充実させるためではなかったか。今もあの時と状況は変わらないのに、今度は台湾に出兵するという。それでは名分が立たないと。

長州閥の陸軍卿山県有朋らも木戸孝允に同調します。イギリス公司パークスは、これを日本と清国の戦争とみなし、局外中立をつらぬく宣言をしました。アメリカも同様、局外中立の立場を取りました。

そんなわけで台湾出兵は一時棚上げとなりましたが、

明治7年(1874)4月24日、台湾蕃地事務都督・西郷従道(つぐみち)が、独自判断で台湾に出兵します。陸軍少将谷干城(たに たてき)以下3400名を四隻の軍艦に分乗させ、台湾に上陸。台湾南部を占領してしまいました。

西郷従道の出兵は国際法に反した侵略行為でした。しかし大久保利通が清国と交渉した結果、台湾との和議が成立し、日本は台湾から賠償金を獲得しました。

次回「不平士族の反乱」に続きます。

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江戸幕府はなぜ滅んだのか?

八代将軍徳川吉宗、田沼意次時代、松平定信時代、
11代将軍徳川家斉の大御所時代を経て、
天保14年(1843)に老中水野忠邦が失脚するまで。

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解説:左大臣光永

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