征韓論紛争

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本日のメルマガは、「征韓論紛争」について語ります。

明治のはじめ、政府への不平分子の目を海外にそらすため、武力を背景に朝鮮に開国を迫ろうという意見(征韓論)がもちあがりました。

西郷隆盛はみずから全権大使として朝鮮に行くと主張。後藤象二郎・江藤新平・板垣退助も西郷隆盛に賛成しました。

対して岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らは、今は外国と戦争する時ではない。内政に力を入れるべきだと主張。両者の意見は並行線をたどり、ついに西郷隆盛らが中央政府をこぞって抜ける「明治六年の政変」につながっていきます。

明治はじめの外交問題~樺太・台湾・朝鮮

明治4年(1871)11月から明治6年(1873)9月にかけて、岩倉具視の使節団がアメリカ・ヨーロッパに外遊している間、

留守を預かる明治政府留守組は複数の外交問題に直面していました。

第一にロシアとの樺太国境紛争。

慶応3年(1867)日本とロシアの間に樺太についての協定が結ばれ、主に南樺太には日本人が、北樺太にはロシア人が住むようになりました。しかしやがてロシアが南樺太をも軍事制圧します。

明治5年(1872)、北海道開拓次官黒田清隆が樺太への出兵を唱え、西郷隆盛もこれに同意しました。しかし同時期、朝鮮問題が起こり、樺太のことは棚上げになります。翌明治6年(1873)樺太はロシアにわたそうということに決まります。

明治8年(1875)、ロシアとの間に樺太・千島交換条約が結ばれます。樺太をロシアにわたすかわりに、日本は千島諸島を領有するというものです。

ただし、「千島諸島」の範囲が曖昧だったため、ずっと後で問題で問題が起こります。1951年のサンフランシスコ講和条約で、「日本は千島諸島を放棄する」といったその「千島諸島」の中に、国後(くなしり)島・択捉(エトロフ)島が含まれるのかどうかで解釈が分かれます。これが現在の北方領土問題につながっています。

第ニに台湾問題。

明治4年(1871)、琉球国の船が、台湾南部に漂着したところ、乗員66人のうち54人が原住民に殺されるという事件が起こりました。

明治政府はこれに抗議して、台湾の宗主国である清国に賠償を求めます。

しかし清国の答えは、

「原住民のことは管轄外である。清国に責任はない」

というものでした。

鹿児島県参事・大山綱良は、台湾を征伐しようと明治政府に献策します。しかし事は外交問題。明治政府は慎重でした。

「とにかく話し合いだ」と、

明治政府は外務卿副島種臣(そえじま たねおみ)(薩摩)を使者として北京に派遣します。清国側と協議の結果、明治6年(1873)3月、日清修好条約が締結されます。

これで清国とはケリがつきましたが、台湾に対しては落とし前をつける必要がありました。

翌明治7年(1874)、明治政府は台湾征伐を計画するも、イギリス公使パークスの介入によって、取りやめになりました。

ところが、台湾蕃地事務都督・西郷従道(つぐみち)は独自判断で台湾に出兵し、台湾南部を占領してしまいました。

西郷従道の出兵は国際法に反した侵略行為でした。しかし大久保利通が清国と交渉した結果、台湾との和議が成立し、日本は台湾から賠償金を獲得しました。

この間、明治5年(1872)に琉球国は琉球藩とされ、日本に組み込まれました。明治6年(1873)日清修好条約の後、清国も琉球の日本帰属を認めました。しかし当の琉球では日本の支配にくみすることに、根強い反発がありました。

そこで明治12年(1879)明治政府は琉球に軍隊を送り、強引に廃藩置県を断行し、「琉球藩」あらため「沖縄県」としました。

第三に朝鮮問題です。

豊臣秀吉の朝鮮遠征によって、日本と朝鮮の国交は一時断絶しましたが、徳川の世になって回復し、文化8年(1811)まで朝鮮通信使が将軍の代替わりごとに来日しました。

江戸時代初期に朝鮮との国交回復につとめたのが対馬の宗氏であり、国交回復後は江戸時代を通じて宗氏が、朝鮮との貿易を独占しました(ただし朝鮮が上であり、対馬は臣下の礼をとって朝貢する、という形でした)。

日本からは銅や鈴を輸出し、朝鮮からは木綿などを輸入しました。

対馬藩は釜山に近い草梁(チョリャン)に「倭館(わかん)」という拠点をもうけ、幕府に断りなく密貿易も行っていました。

江戸幕府が倒れ明治の世になってからも、対馬はひきつづき朝鮮との交易を望みました。明治政府としても、朝鮮への独自の外交ルートがなく、朝鮮と交易する以上、対馬藩を通すしかありませんでした。それで明治元年(1868)12月、明治政府は対馬藩に仲介を依頼し、朝鮮に国書を送ります。

王政復古してあたらしい政権となりました。今後よろしくお願いしますと。

しかし。朝鮮は国書の受け取りを拒否しました。

理由の一つは、

国書の中に清国皇帝だけが使う「勅」などの文字が入っていたこと。朝鮮の宗主国は清国であるので、これを受け取れば、宗主国である清国との関係が悪くなることが考えられました。

もうひとつの理由は、朝鮮は鎖国しており、攘夷論でしたが、日本は外国と交わり、朝鮮侵略の野心を抱いていると警戒したことです。

「朝鮮は無礼である」

朝鮮が国書の受け取りを拒否したことについて、日本では士族たちの間でこういう声が上がりました。ここから「朝鮮を武力討伐せよ」という「征韓論」が起こります。特に長州の木戸孝允は征韓論を強く主張しました。

明治のはじめは、朝鮮と連絡するには対馬藩を通すしかありませんでしたが、明治2年(1869)以降は、朝鮮問題は外務省が管轄するようになります。

明治3年(1870)9月、外務省は草梁(チョリャン)の倭館を無断で接収し、これを日本公司館としました。朝鮮側の抗議はいっさい、ききませんでした。

同年、外務省は元久留米藩士・佐田白茅(さだ はくぼう)らを使者として朝鮮に送ります。しかし朝鮮側は昨年日本が勝手に草梁に日本公司館をおいたことに腹を立て、使者を釜山で止めて、漢城(現ソウル)まで入れませんでした。

その後、岩倉具視の使節団がアメリカ・ヨーロッパに出発するわけですが…岩倉使節団派遣の前後も日本と朝鮮の関係は悪化の一途をたどります。日本国内では朝鮮を武力征伐せよという、征韓論がさかんになっていきます。

明治6年(1873)5月、草梁の日本公司館に朝鮮による文書が張り出されました。そこには「日本は無法の国である」とありました。

朝鮮が貿易の許可をしているのは対馬商人だけだが、その対馬商人に化けて、東京の商人が密貿易をしていることに対する抗議でした。

釜山駐在官はすぐに外務省にこれを伝えると、「無法の国である」といった表現に対して、「国辱である」と一気に征韓論が高まります。

朝鮮への使節派遣

明治6年(1873)6月、明治政府正院では、朝鮮出兵についての事が閣議にかけられました。

参加者は、

太政大臣三条実美
参議西郷隆盛
板垣退助
大隈重信
後藤象二郎
大木惟任(おおき たかとう)
江藤新平

の七名でした。

板垣退助が、

「在留日本人を助けるため、釜山に軍隊を派遣すべきだ」

すると西郷隆盛が、

「まず使節を派遣し、談判すべきです。使節は直垂、烏帽子の正装をして礼をつくすべきです」

そして西郷隆盛はみずから全権大使として朝鮮に赴きたいと言います。

しかしこの日の閣議で結論は出ず、いったんお開きになります。

(ただし西郷隆盛自身の記録によると明治6年(1873)6月は体調不良で寝ていたということで、話が食い違います)

西郷隆盛の覚悟

明治6年(1873)7月29日、西郷隆盛は板垣退助宛に書状を送っています。

兵隊を先に御遣わし相成り候儀は如何にござ候や。兵隊を御くりこみ相成り候わば、かならず彼方よりは引きあげ候よう申し立て候には相違これなく、その節は此方より引き取らざる旨答え候わば、これより兵端を開き候わん。左候わば初よりの御趣意とは大いに相変じ戦を醸成候場に相当たり申すべきやと愚考仕り候間、

断然使節を先に差し立てられ候方御よろしくはこれあるまじくや。左候えば、決して彼より暴挙のことはさし見え候につき、討つべきの名もたしかに相立ち候ことと存じ奉り候。

兵隊を先にくりこみ候わけに相成り候わば、樺太のごときはもはや魯より兵隊をもって保護を備え、たびたび暴挙もこれあり候ことゆえ、朝鮮よりは先に保護の兵を御くりこみ相成るべしと相考え申し候間、かたがた往先(ゆくすえ)の処故障出来候わん。

それよりは公然と使節を差し向けられ候わば、暴殺は致すべき儀と相察せられ候につき、何卒私を御遣わし下され候処伏して願い奉り候。副島君のごとき立派の使節は出来申さず候えども、死するくらいのことは相調い申すべしと存じ奉り候間、よろしく願い奉り候

板垣宛書簡

意訳
先に軍隊を派遣すれば、朝鮮は「撤兵せよ」と要求してきます。これを拒めば戦争となります。そうなると、在留日本人の保護という趣旨と違って、日本側から戦いを仕掛けることになると私は考えますので、

断然、使節を先に立てるがよいでしょう。そうすれば朝鮮側は間違いなく暴挙に出ますので(使節を殺害しますので)、朝鮮を討伐する名分が立ちます。

派兵するなら、樺太で暴挙を行っているロシアに対して備えるべきです。樺太より先に朝鮮への派兵はできません。どうぞ私を朝鮮への使者として送ってください。

副島君のように立派な使節はできませんが、死ぬぐらいのことはできます。

後藤象二郎・江藤新平も西郷に賛成しました。板垣退助は当初、征韓論に反対でしたが、西郷の説得により賛成しました。

西郷隆盛の真意は?

西郷隆盛の真意は、上の手紙を素直に読めばあきらかです。すなわち、

「自分が殺されることで朝鮮を武力討伐する大義名分を立てようとした」のです。

「自分が殺されることで朝鮮を武力討伐する大義名分を立てようとした」のです。

ところが近年、珍説が唱えられています。

「西郷隆盛は実は朝鮮と平和的な話し合いをしようとしていた」

上の手紙をどう読めばこんな奇妙な解釈になるか私にはサッパリわからないのですが…、近年、このように西郷隆盛をムリヤリ平和主義者に仕立てようという論調が目立ちます。

論者の説明を読んでも、こじつけ・牽強付会のオンパレードであり説得力が皆無です。「西郷がやろうとしていたのは征韓ではなく平和的使節を遣わすことであった。だから「征韓論」じゃなくて「遣韓論」だ、などと、どこにも存在しない変な造語を「創作」してまで、西郷を平和論者に仕立てようとしています。

鹿児島県民の罪のない西郷どん贔屓なのかもしれませんが、西郷どんを崇拝するあまり歴史を捻じ曲げるのは感心できません。

「西郷がやろうとしていたのは征韓ではなく平和的使節を遣わすことであった。だから「征韓論」じゃなくて「遣韓論」だ」

↑このような説は現状、あくまでも珍説・奇説のたぐいであり、まともな学問の世界からは相手にされていないのが現状です。実際、「征韓論」という言葉はすべての歴史教科書に載っていますが、「遣韓論」なる変な造語を載せている教科書はひとつもないです(もちろん今後、説がくつがえる可能性もありますが)

2018年の大河ドラマ「西郷どん」でも西郷隆盛が、「誠意を尽くして話せば通じる」とかヌルい台詞を言ってました。

こうした西郷隆盛をムリヤリ平和論者に仕立てようとする描き方が、いかに事実に反しているか。歴史をねじ曲げているか。この書状を読めばよくわかります。

西郷隆盛は終始、軍人であり、「破壊の人」でした。軍人であり「破壊の人」であった西郷隆盛に対する、たいへんな侮辱です。

人前に立つときはいつも正装していたという西郷隆盛に着流しを着せ、犬を連れさせ、上野の銅像に仕立てた明治政府のやり口に、近いものがあります。

大久保利通の参議就任

明治6年(1873)8月16日、西郷隆盛は太政大臣三条実美の館を訪れ、使節派遣の趣旨をのべます。

そして「すぐに戦いを始めるわけではない」こと、「不平分子の内乱をのぞむ心を外にそらして、国を興す遠略」がある旨(「内乱を冀(こいねが)う心を外に移して国を興すの遠略は勿論」)を伝えます。

翌17日の閣議で、西郷隆盛を全権大使として朝鮮に派遣することが決まりました。太政大臣三条実美はすぐに明治天皇に閣議での决定を奏上します。天皇は「岩倉具視が帰国するのを待って再度協議せよ」とのお言葉を下されました。

使節に決まった西郷は「生涯の満足この事に御座候」と板垣退助に伝えています。また、別府晋介に当てた書状では「土州人(土佐人)も一人殺されたほうがよい」と書いています。

自分といっしょに随行する土佐人も一人殺されたほうがいい。それでこそ朝鮮討伐の大義名分が立つということでしょうか。

一方、木戸孝允は使節の派遣に反対でした。

木戸孝允は岩倉使節団にくわわる前は征韓論を強く主張していましたが、岩倉使節団の一員としてアメリカ・ヨーロッパの事物にじかに触れた後は、意見が変わっていました。

今は外国と戦争などしている場合ではない。まずは内政をしっかるやるべきだと。

明治6年(1873)9月13日、岩倉具視、伊藤博文らが1年9ヶ月のアメリカ・ヨーロッパ周遊を終えて帰国しました。

西郷隆盛は、いよいよ張り切ります。

あとは岩倉卿の了解を得て、朝鮮に向かうだけだと。

別府晋介に命じて、護身用のピストルまで用意させます。

ところが。

朝鮮への使節派遣を決める閣議はいっこうに開かれませんでした。

というのは。

岩倉具視、伊藤博文らは西郷隆盛とは違う考えを持っていました。

今は外国と戦争をしている場合ではない。まずは内政をしっかりやるべきだ、

すなわち木戸孝允と同じく、「内政充実論」でした。

しかし岩倉具視らが外遊している間に、留守組はすっかり征韓論に傾いていました。

特に西郷隆盛、江藤新平は強く征韓論を主張している。

これでは自分たち外遊組の主導権がなくなる。

なんとかせねば。

そこで伊藤博文は木戸孝允を通して、薩摩の大久保利通に参議就任を願います。

使節派遣をとなえる西郷隆盛への対抗馬として、こちらは内政充実論を唱える大久保利通を立てようという話です。また西郷とともに使節派遣を唱える前司法卿・江藤新平をしめだすねらいもありました。

江藤新平は長州の山県有朋らの汚職をしつこく探っており、長州閥にとっては煙たい存在だったためです。

明治6年(1873)10月11日、なかなか閣議が開かれないことに苛立つ西郷隆盛は、太政大臣三条実美に書状を送ります。

「私の使節派遣がくつがえったという不審な話が出ております。天下のため、勅命が軽くなることがあってはなりません。…もし使節派遣がくつがえることになれば、致し方なく、死をもって国友にわびる所存です」(意訳)

※国友…西郷に同調する薩摩および諸国の士族たちのこと。

すなわち西郷は命がけで、三条実美に朝鮮への使節派遣を決める閣議を、はやく開いてくださいと、求めたのでした。

翌日の10月12日、三条実美の推薦により大久保利通が参議に主任します。

大久保利通は朝鮮への使節派遣に反対であり内政充実論。西郷隆盛の対抗馬です。しかし三条実美は、西郷のひたむきさに共感する気持ちも起こっていました。翌13日には、西郷と考えの近い副島種臣をも、参議に任命します(あるいは単に公平をよそおうためか?)。

次回「明治六年の政変」につづきます。

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