不平士族の反乱

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こんにちは。左大臣光永です。

実家の熊本にいます。毎日、温泉に入ってます。

さまざまなタイプの、さまざまなお湯質の、温泉があるので、楽しいです。今日は菊池の町中にある「わくわくの湯」に行ってきました。湯けむりが強く、一寸先が見えないくらいで、白いもやの中に黄色い照明がぼうっと光り輝くのが、いい感じでした。番台のおばちゃんの熊本弁や、切り干し大根や菊池ごぼうを売ってるのも、鄙びた風情でした。

本日のメルマガは、「不平士族の反乱」です。明治政府の政策に反発して、明治9年(1876)熊本で神風連の乱、福岡で秋月の乱、山口で萩の乱と、不平士族の反乱が相次ぎます。やがて明治10年(1877)日本最後の内乱「西南戦争」につながっていきます。

私学校の設立

明治6年(1873)征韓論紛争に敗れた西郷隆盛は東京を去り、鹿児島に下りました。西郷とともに600人あまりの士族らも中央を離れ、鹿児島に下りました。

さて鹿児島に下ったものの、士族たちの多くは職もなく、食うに困りました。ややもすれば酒を飲んでウップンを吐きちらし、暴れるというしまつでした。彼らへの救済策が必要でした。そこで西郷隆盛は彼らを教育し、統制するために学校をつくろうと考えます。

明治7年(1874)西郷隆盛は、鹿児島県令大山綱良の協力のもと、旧鹿児島城内の厩跡に「私学校」を設立します。

二年前(明治5年)の「学制」によって、全国に公立の学校が設置されましたが、それとは別に、西郷隆盛個人が設置した学校ということで「私学校」とよびます。

また私学校にくわえ、銃隊学校、賞典学校、吉野開梱社を設立しました。

銃隊学校は篠原国幹が仕切り、旧近衛兵千人からなりました。銃隊学校の下には砲隊学校を置き、村田新八が仕切りました。軍事訓練のほか漢学などの講義が行われました。賞典学校は下士官養成機関(西郷隆盛への賞典禄がその設立費用にあてられた)。銃隊学校・砲隊学校と同じく軍事訓練、漢学のほか、外国人教師を招いて英語・フランス語の講義が行われました。

吉野開梱社は昼は農業、夜は勉学に励むところで、西郷自身もしばしば鋤鍬をとって、農作業にいそみました。

私学校はやがて鹿児島市内に12、鹿児島県内に136の分校を開くまでに大きくなります。

明治8年(1875)、鹿児島県令大山綱良は、私学校の生徒を鹿児島県下の区長・副区長に任命すべく西郷に相談します。西郷はこれを受けて、別府晋介ら24名を推薦。また大山綱良は、県の警部・巡査にも私学校から大量に人を雇います。

こうしたことを通じて鹿児島における私学校および、そのトップに君臨する西郷隆盛の存在感は、いよいよ増します。

鹿児島はもはや中央の政府から離れた、一個の独立国家のようになっていました。

中央に税金は一銭もおさめず、鹿児島県内の役人としては県外の人間を一人も入れず、暦も中央の太陽暦を採用せず、独自に太陰暦を使っていました。

大久保利通は西郷および鹿児島の動きを見て、

「まずいな…」

このままでは私学校生徒が西郷を担ぎ上げて、中央政府への反乱が起こるかもしれない。まさか西郷自身はそんな話に乗らないにしても、下の者が西郷を担ぐ形で暴発することは、ありうる。

そこで岩倉具視が鹿児島に赴き、もう一度中央政界に復帰してくれと西郷に頼みますが、西郷は断りました。

また大久保利通は鹿児島に密偵を送り、私学校の様子をさぐらせました。密偵の報告では、私学校内部は上・中・下の三つの階層に分にかれ、各階層の間には意思の疎通がなく、私学校生徒が暴発しそうなのを、西郷が抑え込んでいる状態であるということでした。

江華島事件

この間、外交問題として「江華島事件」が起こりました。

明治8年(1875)9月、朝鮮半島沿岸を測量中の軍艦が、江華島(カンファンド・Ganghwado)砲台に近づいたところ、朝鮮側が砲撃してきました。これに対し日本側は艦砲射撃を行い、砲台を破壊すると、江華島南の永宗島(ヨンジョンド・Yeongjong-do)を占領してしまいます。

この出来事について黒田清隆が全権大使として漢城(現ソウル)に赴き、日本側に有利な日朝修好条規を結びました。

西郷隆盛は政府の行いを激しく非難します。

「何分にも道を尽さず、ただ弱きを慢(あなど)り強きを恐れ候心底より起り候もの」

「樺太の紛議拒まんがために事を起し候も相知れず、或は政府既に瓦解の勢いにて、如何ともなすべき術計尽き果て、早くこの戦場を開き、内の憤怒を迷わし候ものか、いずれ術策上より起り候もの」

「遺憾千万」

篠原冬一郎宛書簡より

朝鮮を武力征伐すること自体には、西郷隆盛は大賛成でした。2年前、自分が全権大使として朝鮮に赴き、殺されることで、朝鮮を武力征伐する大義名分を立てようとしたのは西郷でした。

しかし今回の日本の行いには、まったく大義名分がなく、西郷としては不本意でした。

神風連の乱

この頃、国内では不平士族の反乱が相次ぎます。

明治9年(1876)10月24日、熊本で「神風連の乱(変)」が起こります。

明治政府の西欧化政策に反発した太田黒伴雄(おおたぐろ ともお)以下、約170名の敬神党が、熊本鎮台司令官種田政明(たねだ まさあき)宅・熊本県令安岡良亮(やすおか りょうすけ)宅、および熊本鎮台を襲撃し、種田・安岡および四人の県庁役人を殺害した事件です。

明治政府は、明治9年(1876)3月28日廃刀令、ついで断髪令を出して、西洋化政策を進めました。教育も制度も服装も、西洋風に変えられてしまいました。

彼ら敬神党は日本古来の伝統と神道を重んじる人々で、こうした政府の政策に不満を抱いていました。

彼ら敬神党のことを周囲は「神風連」と呼んだので、この事件を「神風連の乱(変)」とよびます。

反乱は一晩で鎮圧され、首謀者太田黒伴雄は自刃。リーダーを失った神風連の多くも自刃しました。

秋月の乱

ついで10月27日、福岡県秋月(現福岡県朝倉市秋月)で、旧秋月藩士宮崎車之助(しゃのすけ)ら400名あまりが、神風連の乱に呼応して反乱を起こしました。鎮台兵が出動すると、彼らは豊前の豊津(福岡県京都郡みやこ町豊津)に移り、我らと共に決起せよと呼びかけますが、応ずる者はなく、熊本鎮台小倉分営によって鎮圧されました。

萩の乱

ついで10月28日、萩の前原一誠(まえばら いっせい)が200名あまりの同士を率いて決起します。

前原一誠は幕末に吉田松陰の松下村塾で木戸孝允(桂小五郎)らと共に学び、戊辰戦争で活躍しました。維新後は兵部大輔や参議などの重職を務めましたが、木戸孝允や山県有朋の主張する徴兵令に反対し、萩に下っていました。

前原一誠が決起すると、すぐに政府軍が鎮圧に向かいます。前原一誠はいったん島根に逃れ、政府軍のすきをみて再度、萩に攻撃を仕掛けます。

11月2日、3日と激戦となりましたが、4日、政府軍に大阪鎮台兵が合流し、前原勢を壊滅させました。前原一誠は島根まで逃げていく途中、捕らえられ、佐賀の乱を起こした江藤新平と同じく斬首されました。

次回「西南戦争前夜~鹿児島 私学校蜂起」に続きます。

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「幕末の歴史はわかりにくい」

「複雑だ」

そう思ってませんか?

私は思ってます。

だって実際、幕末はわかりにくく、複雑ですから。

じゃあなぜ幕末はあんなにも複雑で、入り組んでいるのか?

どうやったらスッとわかりやすく、歴史の流れをつかめるのか?

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本日も左大臣光永がお話しました。

解説:左大臣光永