明治六年の政変

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本日のメルマガは、「明治六年の政変」について語ります。

前回「征韓論紛争」
https://history.kaisetsuvoice.com/Meiji_seikanron.html

国内の不満分子の目を海外に向けるため、朝鮮を武力征伐する。これが明治六年に高まった「征韓論」です。

西郷隆盛はみずから使者となって朝鮮におもむき、自分が殺されることで、朝鮮に対して兵を起こす大義名分を立てようとしました。

しかし大久保利通・木戸孝允らは今は内政を充実させるべきと主張し、朝鮮への使節派遣に反対します。両者の対立は並行線をたどり、

そして…

明治六年の政変

明治6年(1873)10月14日、明治政府は閣議を開きます。

参加者は、太政大臣三条実美、内大臣岩倉具視、参議西郷隆盛、板垣退助、大隈重信、後藤象二郎、大木喬任(おおき たかとう)、江藤新平、大久保利通、副島種臣の十人でした。

木戸孝允は病気のため欠席しました。

閣議の内容は具体的にはわかりませんが、参加者の回想録によれば、

岩倉具視がまず発言して、

「今は樺太問題を優先すべきだ。樺太でロシア人が日本人を暴行している。まずは樺太問題を解決し、その間、内政を充実させ国防と財政を整える。朝鮮については、その後でよい」

西郷隆盛は、

「今すぐ朝鮮に使節を派遣すべきです」

といって譲りません。

大久保利通が反論します。

「西郷が行けば戦争に直結する。使節の派遣そのものを、取りやめるべきだ」

喧々諤々するもこの日は結論は出ず、議論は翌日に持ち越されます。

翌10月15日、西郷隆盛は欠席しました。そのかわり、太政大臣三条実美に書状をたくしました。

「すでに使節派遣は内定したことであり、天皇の勅許も下っています」

だから今さらグチャグチャいうことは何もないと。

西郷と意見を同じくする「即時派遣派」は、
板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣

一方、いったん延期、もしくは中止を唱えるのは、、
岩倉具視、大隈重信、大木喬任、大久保利通

木戸孝允はこの日も、欠席でしたが、大久保利通らと同じ延期・中止派でした。

結局、結論は出ず、太政大臣三条実美・内大臣岩倉具視に決定がゆだねられます。そこで三条実美が言うことに、

「やむを得ぬ。西郷に任せよう(西郷を使節として朝鮮へ行かせよう)」

岩倉具視も三条実美に同意しました。

岩倉・三条は陸軍大将たる西郷隆盛のもつ軍事力を恐れたのでした。

大久保利通らは大いに反発します。

「西郷が行けば必ず戦になります」

「不平等条約も廃止できないうちから外征など、ムリな話です」

「たとえ朝鮮前全土を制圧しても、かの国民が四方で蜂起すればとうてい維持できません。その費用は朝鮮全土でもっても補えませんぞ」

そしてついに言いました。

「どうでも使節を派遣するのであれば、我らは辞職します」

明治6年(1873)10月17日、大久保利通は三条実美邸を訪ねて参議ほかすべての役職の辞表を三条実美に手渡します。木戸孝允、大隈重信、大木喬任もいっせいに辞表を提出しました。

岩倉具視はいったん三条実美と意見をあわせたものの、やはり西郷を朝鮮に行かせるのはまずいと考え直し、大久保らに同調しました。

10月17日の閣議は、太政大臣三条実美以下、西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣ら、「即時派遣派」だけで行われました。岩倉具視は「病気」と称して欠席しました。

西郷が言います。

「これ以上話すことはない。三条大臣、すみやかに天皇に上奏してください」

そういって西郷はしきりに急かしますが、

三条実美は、待ってくれ。もう一日だけ猶予をくれ。そして閣議のあと、岩倉具視を説得するため二度も自宅を訪ねますが、

岩倉具視が言うことに、

「私は大久保卿と同じ考えだ。使節の派遣は延期すべきだ。それが通らないというのだから、辞職するほかない」

……

「ああ困った。どうすればよいのだ」

10月17日深夜、三条実美は西郷隆盛を自宅にまねきます。

「岩倉卿もああ言っておられる。使節の派遣は少し延期できぬか」
「できません。今すぐ帝に上奏あらねば、私は死ぬ覚悟です」

……

三条実美は、西郷隆盛ら即時派遣派と、岩倉具視・大久保利通ら延期もしくは中止派の板挟みになって、大いに苦しみます。

「困ったなあ。弱ったなあ。あああ!」

ばたっ

10月18日明け方、三条実美は心労のあまり、倒れてしまいました。

「なに?三条が?」

10月20日、明治天皇が三条実美邸に行幸し、三条実美を見舞われます。

「具合はどうか」

「体調すぐれず、もはや政務を執れるような状態ではございません。太政大臣の任は岩倉卿に代行させてください」

「うむ…」

天皇はついで岩倉宅に行幸し、岩倉具視を太政大臣代行に任命しました。

ここまで大久保利通にひたすら有利に事は運んでいました。

岩倉具視はどちらかというと「派遣延期派」であり、したがって「反西郷派」でした。つまり大久保利通と同じ考えでした。岩倉具視を抱き込めたことはひとまずの成果であり、西郷への牽制となりそうでした。

しかし薩摩閥で政権を固めたい大久保利通としては、同じ「派遣延期派」「反西郷派」といっても肥前の大隈重信や長州の木戸孝允のことは信用していませんでした。また岩倉具視も、コロコロ意見を変えるので信用していませんでした。

そこで大久保利通は、信用する薩摩の黒田清隆と相談して、ひそかに薩摩だけで動きます。朝鮮への使節派遣は中止してくださいと、朝廷に上奏します。

西郷らは、すぐに大久保らの動きを察知しました。こちらも負けじと10月22日、西郷・板垣・副島・江藤が岩倉具視邸に行き、すみやかに閣議決定事項を(朝鮮への使節派遣のことを)(天皇に)上奏してくださいと迫りました。

三条実美はしかし、

「私には私の考えがある…」

と、お茶をにごしました。

こうなると西郷隆盛に出来ることは、ただ待つ、だけでした。

10月23日、岩倉具視は西郷隆盛らの「即時派遣」案と、大久保利通らの「派遣延期」案の両方を、天皇に上奏しました。

即時派遣派=西郷派と、派遣延期派=反西郷派の両方の意見を汲んだ、折衷案でした。

征韓論紛争の本質とは?

征韓論紛争の本質とは何だったのか?

西郷隆盛が征韓論を唱えたのは、国内の不満分子の目を外に向けさせるためでした。そのために西郷はみずから朝鮮に使者として赴き、殺されて、それを大義名分として日本は朝鮮を武力制圧するというシナリオを描いていました。

では西郷は、これらのシナリオがすべて成功したとして、その先に、どのような青写真を描いていたのか?

言い換えれば、日本をどういう国にしたかったのか?

ここが、よくわかっていません。

青写真など、なにも無かった、ただひたすら現状(官僚政治・金権政治・士族が虐げられていること)を打開したかったという説もあります(私はこの説に同意です)。

あるいは天皇を頂点に置く、士族による軍事国家を築こうとしていたという説もあります。

いずれにせよ、大久保利通らのめざす「文による官僚国家」と、西郷の目指すものは、相反するものだったようです。

だから明治6年の「征韓論紛争」は、一見朝鮮との外交問題のように見えますが、

その本質は内政問題でした。悪くいえば単なる「派閥争い」であり、朝鮮征伐は単に、その手段に過ぎませんでした。

西郷隆盛の下野

10月23日、岩倉具視は西郷隆盛らの「即時派遣」案と、大久保利通らの「派遣延期」案の両方を、天皇に上奏しました。

岩倉具視としては西郷派、反西郷派の双方の板挟みになって苦しんだ末の判断だったかもしれません。

しかし西郷は、岩倉の決定に、すっかり失望します。

「閣議で決まったことを、覆すとは…」

明治6年(1873)10月23日、西郷は体調を理由に、辞表を提出しました。同日、陸軍少将桐野利秋、篠原国幹(くにもと)ら、西郷派の士官たちも次々と辞表を提出しました。その後も辞表の提出があいつぎ、結局600名あまりの西郷派の武官文官士官が鹿児島に下ることとなります。

翌24日、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣の四参事が、辞表を提出しました。

同日、明治天皇より、朝鮮への使節派遣の延期と、内政に力を入れるべき勅が下されます。

ここに大久保利通ら内政充実派(外遊組)は、西郷隆盛ら征韓派(留守組)を追い出し、政権を掌握したのでした。

これを「明治六年の政変」といいます。

ただし、西郷隆盛の陸軍大将としての職は残すと、明治天皇より勅が下されました。天皇に上奏したのは大久保利通でした。

大久保は長年の友人である西郷が、いつか帰ってこられるよう、その席だけは残したのでした。

最後に、大久保が西郷を引きとどめて、

「西郷、行くな」

「何でもイヤダ」

「ならば勝手にせよ」

というやり取りがあったといいます。

これが大久保利通・西郷隆盛の今生の別れとなりました。西郷が東京に戻ることは二度とありませんでした。

10月23日、西郷は日本橋小網町(現日本橋人形町)の屋敷を引き払い、家族や下僕たちを連れて、向島の知人宅に移り、4日間静養の後、10月27日、横浜を出発。11月10日、鹿児島につきました。

西郷はじめ征韓派が多数辞任したため、明治政府の顔ぶれが一新しました。

明治6年(1873)11月10日、大久保利通は内務省を創設。同29日、みずからが内務卿に就任します。

大蔵卿は大隈重信(肥前)、外務卿は寺島宗則(薩摩)、工部卿は伊藤博文(長州)、陸軍卿は山県有朋(長州)、海軍卿は勝海舟(旧幕府)、司法卿は大木喬任(肥前)

ここに実質的な「大久保政権」が誕生しました。

次回「不平士族の反乱」に続きます。

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