大津事件(四)判決

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こんにちは。左大臣光永です。

だいぶ涼しくなってきたので、下鴨神社に参拝してきました。夕暮れの、人もまばらな境内に、カラスの声とセミの声がわびしく響きあって、いい感じでした。このところパソコン作業ばかりしていたので、つかれた目に、糺の森の緑が優しく感じられました。

四回にわたって「大津事件」について語っています。本日が最終回です。

明治24年(1891)5月11日、滋賀県大津町で、来遊中のロシア皇太子ニコライ(後のロシア皇帝ニコライ2世)に、警備に当たっていた巡査、津田三蔵がサーベルで斬りかかり、負傷させた事件。湖南事件とも。

前回は、司法省から各裁判官に(死刑論に転ずるよう)圧力がかかるが、児島大審院院長は、裁判官に司法省の圧力に屈せず、法の番人としてのつとめをはたしてほしい旨、説得する。結果、7人の裁判官のうち5人が児島院長に同調し、通常人に対する謀殺未遂事件とする意見となった、ところまで語りました。

(※ただし司法省から各裁判官に具体的にどのような「圧力」がかかったか、その内容は不明)

本日は第四回(最終回)「公判」です。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

https://roudokus.com/mp3/Meiji_Otsu4.mp3

大津事件(一)事件発生
https://history.kaisetsuvoice.com/Meiji_Otsu1.html

大津事件(二)死刑論と反死刑論
https://history.kaisetsuvoice.com/Meiji_Otsu2.html

大津事件(三)裁判官への圧力
https://history.kaisetsuvoice.com/Meiji_Otsu3.html

公判開廷

明治24年(1891)5月27日朝。

大津地方裁判所の前には傍聴を希望する市民が殺到しました。しかし事件の性質上、一般の傍聴はゆるされず、特に許可された高等官と代弁人15人だけが入廷を許されました。12時40分、被告人津田三蔵が看守長警部巡査看守十数名に取り巻かれ入廷。12時50分、開廷となりました

現 大津地方裁判所
現 大津地方裁判所

堤裁判長の開廷宣言に続けて津田三蔵の答弁が行われ、その結びに津田は、

「もとより死を決してなしたることであるので、自殺できなかったことは残念ですが、こうなった以上、国法によって処断されるほかはありません。なにとぞロシアに媚びるようなことはせず、わが国の法律をもって公明正大な処分あらんことを願います」

と述べるその態度は、実に毅然としたものでした。

調書の朗読、証拠品(サーベル)の提示に続けて、三好検事総長より、本件は刑法116条の皇室罪を適用されんことを望むと論告があり、続いて弁護人による弁論に入りました。

焦点はやはり、刑法116条の解釈でした。

「天皇・三后・皇太子に対して」という刑法116条の条文にはなるほど「日本の」という文字はない。だからといってこれを外国の皇太子にまであてはめるのは間違いである。天皇の号が日本に特有のものである以上、わざわざ「日本の」と断る必要がないのである。だからここでいう皇太子に外国の皇太子はふくまないことは明確である。

外国の皇太子に礼をつくすのは当然である。しかしそれは法の範囲内でなければならない。被告人はかかる暴挙によって上は陛下の宸襟を悩ませ奉り、下は我々臣民の心を痛ませた。一般感情からいえば厳罰に処しても余りある。しかし現に罪を規定する法律がない以上、感情によって裁くことはできぬ。本件は通常人に対する謀殺未遂として処罰するほかはないのである。

これに対して検察側は、

皇室に対する犯罪はその害の大きさ、通常殺人の比ではない。さらに外国の君主・皇族に対して危害を加えるならば、その害の及ぶこと、通常殺人の非ではない。だから刑法116条の「天皇・三后・皇太子」には、外国の皇室も含むと解釈すべきなのである。

弁護側・検察側、双方一歩もゆずらず、議論は並行線のまま、午後3時30分、閉廷となりました。

判決

午後6時40分、ふたたび開廷。開口一番、堤裁判長から判決が言い渡されました。

事実関係の再確認に続けて、関係者の証言、証拠品などから、右の事実に証拠十分として、

「…これを法律に照らすに、本件は謀殺未遂の犯罪であり、刑法第292条第112条第113条第一項により、被告人を無期徒刑に処すものなり」

ああ!

おお!

傍聴人たちは感激に打たれ、各判事が席を立つや、

「帝国万歳!」
「国家万歳!」

と叫び、裁判所の外で結果を待っていた群衆も、

「万歳!」

を連呼しました。

児島大審院院長は感無量で法廷を出て、午後5時50分、大津局から東京市牛込の知人宅に電報を打ちました。

「カチヲセイスルニイタレリアンシンアレ」

児島、両大臣を訪ねる

判決が下ると、児島大審院長はまず山田法務大臣を訪ねました。山田法務大臣いわく、

「もはや仕方ない。この宣告で司法権の独立が保たれたことは評価に足るが、ここからが大変だぞ。予は前に述べたとおりの覚悟だが、西郷内務大臣は黙っておるまい」

児島院長は次に西郷内務大臣を訪ねると、内務大臣は激怒しました。

「戦争をしなくてはならんな!暴漢津田三蔵の生命を守らんため国家の禍を招くとは何事か!」

すると児島院長は、

「戦争をなすか否かは閣下らのお心次第です。どうか礼節をもって平和的な解決をお求めください。しかしもしも彼の国が野心をいだき武力をもって侵略してくるなら、小官らも閣下ら将軍の指揮に従い、戦いましょう。その時は法律には依りません」

そう言って、児島院長は出ていきました。

事後

西郷内務大臣と山田司法大臣は帰京後、辞職しました。その後も内閣から、児島院長および判事らに嫌がらせがありましたが、いずれも取るに足らないものでした。

ロシアとの関係はどうなるか?誰もが心配しましたが、駐ロシア公使西徳二郎より、ロシア皇帝は今回の裁判について十分に満足せられたという旨、電報ありました。

そこには、駐ロシア行使のロシアにおけるたいへんな苦心と働きがあったのですが…ともかく結果として、戦争は避けられました。

6月11日、児島院長は東京にて各大臣をたずね、裁判のしだいを報告しました。それを聞いて伊藤博文が言うことに、

「裁判官というのは、ずいぶん無鉄砲をやるものだ。しかし幸いにも、今度はそれが大当たりしたのだ」

児島院長はそれに対し、かすかに苦笑したのみであったとか。

津田の最期

犯人津田三蔵は、同年6月27日、ほかの囚人とともに船で横浜を出帆し、7月2日、北海道釧路集治監に収容されました。

傷は癒えていたものの、身体衰弱し、ふつうの労役はできないため、藁工(藁を原料に筵・縄などをつくる)に従事しました。

9月27日、にわかに発病し、30日、死去しました。死刑くつがえって無期徒刑となったことは津田本人にとっては良いことだったのか、悪いことだったのか、どうでもいいことだったのか…

次回から四回にわたって「日清戦争」について語ります!お楽しみに!

参考文献
『大津事件 ロシア皇太子遭難』尾佐竹猛 岩波文庫
『後は昔の記 他―林董回顧録』林董 東洋文庫
『大津事件の再評価』  田岡 良一
『大津事件』新井勉 PP選書
『大津事件の再構成』新井勉 御茶の水書房

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解説:左大臣光永

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