大津事件(三)裁判官への圧力

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こんにちは。左大臣光永です。

北野天満宮で、子供の絵が奉納展示されていました。保育園・幼稚園から中学1年生くらいまで、順番にならべて展示してありました。小さな子の絵は、思い切った色使いで、なにが描いているかよくわからないけれど、ズガーンと気持ちよく描いてて、よいです。子供には世界があんなふうに見えているのか?手の動きが未発達なのでああなるのか?中学生以上になると、漫画絵・アニメ絵の影響が出てくるので、つらいです。

四回にわたって「大津事件」について語っています。

明治24年(1891)5月11日、滋賀県大津町で、来遊中のロシア皇太子ニコライ(後のロシア皇帝ニコライ2世)に、警備に当たっていた巡査、津田三蔵がサーベルで斬りかかり、負傷させた事件。湖南事件とも。

前回は、犯人津田三蔵に対して内閣はロシアの手前、皇室罪を適用して死刑にしたい。しかし児島大審院院長はじめ裁判所側は通常人に対する謀殺未遂と主張し、両者は並行線をたどる。松方首相は児島院長に意見を変えるよう諭すが、児島院長は意見を変えないので、内閣側は各裁判官へ圧力をかけようとする、ところまで語りました。

本日は第三回「裁判官への圧力」です。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

https://roudokus.com/mp3/Meiji_Otsu3.mp3

大津事件(一)事件発生
https://history.kaisetsuvoice.com/Meiji_Otsu1.html

大津事件(二)死刑論と反死刑論
https://history.kaisetsuvoice.com/Meiji_Otsu2.html

四人の判事、司法省に出頭

明治24年(1891)5月18日(事件から7日後)正午、堤裁判長、中、高野、木下判事が司法省に出頭を命じられ、それぞれ縁故の深い大臣から、何事か諭されました。具体的な会見内容はわかりませんが、ようするに死刑に賛成せよということでしょう。

残る3人のうち、土師判事は薩摩人で西郷従道内務大臣と昵懇だったため、そもそも根回しの必要なしと見られました。安居、井上両判事はどの官僚とも縁故がなく、しかも意見が硬かったため、根回しはできないと見て無視しました。

だから、堤、中、高野、木下の四人に根回しをして死刑論に転ばせ、土師とあわせて5人確保すれば、過半数は取れるというわけです。

予審終了

同日5月18日午後1時、津田三蔵の大津地方裁判所における予審が終わり、予審判事より検事総長三好退蔵のともに訴訟記録および意見書が届きました。

現 大津地方裁判所
現 大津地方裁判所

津田三蔵の経歴、犯行にいたった経緯、犯行当日の状況、関係者の証言等を細かく記し、

当事件は刑法116条における皇室罪に該当するから、死刑に処すべきと考えるとありました。

検事総長三好退蔵はこの訴訟記録および意見書を大審院に提出しました。

児島院長から司法省への意見書

5月19日午後、児島院長は首相および司法大臣への意見書を提出しました。

「刑法116条にもとづき津田の犯罪を断ずることは、国家百年の大計を誤ることです。

刑法116条のうたう「天皇・三后・皇太子」とは、日本国の天皇・皇室をさし、外国のそれまでは含めないことは明白です。

これを拡大解釈し外国の皇族までふくむとするのは、法の精神に反しております。

刑法を犯すばかりか憲法をも破壊し、司法権の信用そのものが失われます。

外国の皇族を害したる罪についての規定が他にない以上、本件は通常人への謀殺未遂事件として裁くほか、無いのでございます。」

児島大審院院長以下、判事ら、大津へ

5月19日午後9時50分、児島院長と5人の裁判官は新橋(停車場)を出発。残る2人の裁判官は翌日出発しました。翌20日、午後2時30分、京都(停車場)着。ただちに御所に参内し明治天皇に拝謁、天皇は、

「ロシア皇太子に関する事件は国家の大事である。注意して、すみやかに処分せよ」と、勅語を下されました。

午後6時20分、児島大審院長と5人の裁判官は大津へ出発。大津桝屋町(現浜大津)の旅館「竹清楼(ちくせいろう)」に入りました。

5月21日、天皇還幸につき、児島大審院長と5人の裁判官は大津停車場で奉送。その後、残る2人の裁判官も合流し、大津地方裁判所に入りました。

児島委員長、堤裁判長を諭す

5月21日午後、開廷は迫っていました。児島院長は堤裁判官を自室に招き、言いました。

「今回の一件は、実に国家の重大事である。

もし判断を誤れば、陛下をして大権に背かせ奉り、憲法に背かせ奉ることになる。

諸君の責任は重大である。

しかるに諸君は、本件着手以来、意見をゆらしているな。

去る18日午後、司法省にて何を言われたのか。

午前中、通常人に対する謀殺未遂罪をとっていたのが、午後になって内閣の意見に賛同したのはどういうわけか。

弁解の言葉はあるか。

あえて問う。諸君は18日午後に面会した大臣または朋友を欺くか。

それとも天下国家を欺きて、一身の安全を貪るか。

諸君はそのどちらかを選ばねばならぬ」

つまり、司法省の圧力に屈しないで、法の番人としての役目をまっとうしてくれと。

それから児島は言葉をついで、

もはや公判まで時間がない。余は大阪にて事の成り行きを見る。結果如何によっては覚悟がある。

もし予に賛同するなら、直ちに通信されよ」

この時の児島院長の動きには、後世、批判があります。司法権の独立をうたい、裁判官はいかなる干渉も受けてはならぬという児島が、まさに裁判官に干渉していることです。それ内閣とやってること同じだよねという批判です。

高まる同情論

この間、犯人津田三蔵への世間の同情が集まっていました。

犯行当初は、ただの狂人と思われていましたが、調べが進むにつれて、私利私欲がなく、純粋に国を思ってやったことが見えてきたためです。

内閣は批判を避けるために言論・集会を取り締まりましたが、それがかえって内閣への批判を高めました。それと反比例して津田三蔵を「憂国の士」として持ち上げる声が高まっていました。

堤裁判長、児島に賛同

5月23日、堤裁判長は児島大審院長に電報します。至急、大津に来られたしと。児島が行ってみると堤裁判長が言うことに、

「私の判断が間違っていたようです。以後は、私情を捨て、職務のため、国家に一命を捧げます。しかし私だけ賛同しても意味がありません。安居、井上両判事は同意見なのでだいじょうぶですが、土師、中、高野、木下のうち一名を賛同せしめてください」

そうすれば7人中4人が確保でき、過半数は得られると。

児島院長は大いに喜んで、すぐさま木下判事を自室に招き、先に堤裁判長に説いたと同じ内容を説きました。木下判事は、

「わかりました。先に刑法116条を適用し死刑に処すべきとしたのは軽率な判断でした。本件は普通人に対する謀殺未遂事件として裁くべきです」

一方、安居判事は児島院長の意向をうけて、土師判事の説得に当たりました。土師判事は薩摩人であり、とうてい説得はムリと思われました。ところが、土師判事も一般人に対する謀殺未遂事件とすることに同意し、以後熱心な児島賛同者となりました。

児島院長は大いに喜びます。

「諸君の意思はわかった。憲法のため、司法権のため、不可侵の職権を行使されたし。政府からいかなる圧力があろうと、予は断固としてこれを拒む」

児島院長以下、六人(児島・堤・土師・木下・安居・井上)はバンザイを上げました。

その後も内閣からの圧力が続きました。西郷内務大臣・山田法務大臣は各裁判官への面談を要求してきました。しかし児島院長以下六人は公判前の面談は司法権の独立を犯すといって断固拒否しました。

実はこの頃になると山田法務大臣は内閣の主張にムリがあることを認め、ひそかに児島院長に同調していました。それで、児島院長から「面談は拒否します」と言われた時、「ならば仕方ない」と苦笑して、

「ただし西郷内務大臣は心底の皇族主義者であるので手強いぞ。よくよく注意されよ」

と、耳打ちしました。

公判は5月27日正午開廷と決まりました。

次回「大津事件(四・最終回)公判」に続きます。

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解説:左大臣光永

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