大津事件(一)事件発生

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こんにちは。左大臣光永です。

夢の中に何度も出てくる風景ってありませんか?私はあります。それは寂れた港町だったり、街角の小さな古本屋だったり、神社のお堂の裏手だったり、九十九折の山道の途中の踊り場状のところだったり、あまりにも繰り返し夢に出てくるので、それがいつか本当に見た景色なのか?夢の中で作られた景色なのか?わからなくなっている、そんな場所がいくつもあります。たまにそれらの景色が、走馬灯のように一気に思い出され、とてもなつかしく、胸の内がザワザワします。

本日から四回にわたって「大津事件」について語ります。

明治24年(1891)5月11日、滋賀県大津町で、来遊中のロシア皇太子ニコライ(後のロシア皇帝ニコライ2世)に、警備に当たっていた巡査、津田三蔵がサーベルで斬りかかり、負傷させた事件。湖南事件とも。

明治政府は大国ロシアとの関係悪化を恐れて、津田を大逆罪として死刑に処すべく、児島惟謙(こじま これかた)大審院院長および各裁判官に圧力をかけた(とされる)。

しかし児島惟謙大審院院長は圧力に屈しないよう各裁判官に働きかけ、通常人に対する謀殺未遂罪を適用して、無期徒刑の判決を下した。司法が政府からの圧力に屈せず、司法権の独立を守った、輝かしい事件と一般に見られている(異説あり)。

本日は第一回目「事件発生」です。

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滋賀県大津町京町 事件発生場所付近
滋賀県大津町京町 事件発生場所付近

事件発生まで

明治24年(1891)4月27日、ロシア皇太子ニコライ、および従兄弟のギリシア親王ジョージの一行を乗せた艦隊が、長崎に入港しました。ニコライ皇太子は、父皇帝アレクサンドル三世のすすめで極東巡遊の旅に出られたのでした。その一環としての、日本への、親善訪問でした。

ニコライ皇太子およびギリシア親王一行は各地で日本国民の熱烈な歓迎を受けながら、5月5日鹿児島、5月9日神戸を経て、5月9日夕刻、京都に着きました。

5月11日朝、一行は河原町京都常磐ホテルを出て、大津に向かいました。道すがらの家々は、日本・ロシア・ギリシア三国の旗をかかげて歓迎しました。

三井寺、唐崎神社などをご覧になった後、午前11時40分、滋賀県庁入り。ご休憩、お食事、ご挨拶があり、書画等をご覧になり、午後1時30分、京都にもどるため、ロシア皇太子一行は滋賀県庁を出発されました。

事件発生

ロシア皇太子一行は京都府警部竹中節(たけなか せつ)を先頭に、滋賀県警部木村武(きむら たけし)、滋賀県知事沖守固(おき もりかた)、行列中程にニコライ皇太子、ギリシア親王、有栖川宮威仁(たけひと)親王と続きました。

京町通字下小唐崎町五番屋敷・津田岩次郎方前を通りかかった時、行列の北側で警護に当たっていた巡査津田三蔵が、突如、サーベルを抜き、ニコライ皇太子の頭部に斬りつけました。

大津事件の碑
大津事件の碑

滋賀県大津町京町 事件発生場所付近
滋賀県大津町京町 事件発生場所付近

刃先はニコライ皇太子の帽子の縁を切り、頭部右側上部より前方にかけて傷つけました。

ニコライ皇太子が振り向いたところへ。三蔵は追ってきて、また一太刀浴びせました。

皇太子が車から飛び降り、西に向けて逃げていくと、三蔵はなおも白刃をかざし、追いかける。

皇太子の車の右後ろを後押ししていた車夫・和田彦五郎(わだ ひこごろう)は、津田三蔵の脇腹を突くも、津田は屈せずそのまま走っていく。

皇太子の車のすぐ後ろの車にはギリシア親王が乗っていました。ギリシア親王は滋賀県庁で買い付けた竹鞭を持って車から飛び降り、三蔵の後ろから肩のあたりを強く叩き、ひるんだ所に、ロシア皇太子の車の左の後押しをしていた車夫・向畑治三郎が、三蔵のうしろから両足に飛びつき、どうと引き倒す。

三蔵はうつ伏せに倒れ、サーベルを取り落したのを、ギリシア親王の車の右側後押しをしていた車夫・北賀市市太郎が取り上げて、三蔵の後頭部に斬りつけました。

ついで、皇太子の車を曵いていた車夫・西岡太郎吉(にしおか たろきち)と、和田彦五郎(わだ ひこごろう)、向畑治三郎(むこうばた? じざぶろう)の三名が三蔵を取り押さえました。先導していた滋賀県警部木村武がかけつけ、巡査江木猪亦(えぎ いのまた)、藤谷幹一(ふじたに みきひと?)の両名に命じて三蔵を捕縛させました。

事件の後

ニコライ皇太子は頭部右側に二箇所の傷を負いましたが、そのまま小唐崎町十五番屋敷、通りの南側に建つ永井長助(ながい ながすけ)方の店に入り、腰をおろしました。

すぐに布団の用意を命じますが、皇太子はそれには及ばぬと店先に腰をおろし、巻きタバコを召され、有栖川宮威仁(たけひと)親王に向かい、言いました。

「余は貴国についてから、満足なことのみで、すこぶる愉快であった。今日、はからずも一狂人によって軽傷を負うたが、けして貴国を悪く思わない。このていどの傷は京都にて二三日療養すれば治る。はやく東京に出て陛下にお目にかかりたい」

有栖川宮威仁親王は外遊中にニコライ皇太子と交友があり、二人は友人同士でした。

ついでニコライ皇太子はロシア公司に向かって言いました。

「余がこのような難にあったからといって、日本に対して悪感情を抱いてはならぬ」

京都引き上げ

午後2時、応急手当も終わったのでニコライ皇太子は人力車に。ギリシア親王と有栖川宮ほかは徒歩で、第九連隊に警護されながら滋賀県庁に引き上げ、寝床をもうけて手当の後、

現 滋賀県庁
現 滋賀県庁

午後3時30分、滋賀県庁を出て皇太子は人力車で、他は徒歩でふたたび連隊に警護されながら馬場停車場(現・膳所駅)へ。

そこから特発の列車に乗り京都へ。午後3時50分、京都駅着。午後5時15分、京都常磐ホテル着。ホテルにて療養。四五針を縫いました。傷は浅く、皇太子はご気分いたって確かでした。

津田三蔵

犯人は滋賀県守山警察署巡査、津田三蔵なる男でした。

津田三蔵の家は代々、津藤堂藩に医師として仕えました。三蔵は次男で、兄が一人、弟が一人、妹が一人いました。明治3年(1870)上京。明治5年(1872)東京鎮台第六大隊に入営。まもなく名古屋鎮台へ、ついで金沢分営詰となり、越前大野郡で起こった暴動の鎮圧には、歩兵少佐乃木希典の指揮もと、働きました。

明治10年(1877)西南戦争に従軍して功績あり、勲七等を得ました。除隊後、伊賀上野に帰りましたが、明治16年(1883)3月、三重巡査を奉職。同僚の巡査を酒の席でなぐって免職となるも、同年12月、滋賀県巡査を奉職。水口警察署、速水警察署を経て、事件当時は、守山警察署詰でした。

性格は温厚。無口で人付き合いは少なく、倹約につとめ、酒は呑むが晩酌は五勺か七勺、飲みすぎるというほどでもなく、九円の月給の中から母に仕送りし、家族四人を養っていました。

ただし父は発狂の気味があり、兄も酒を飲むと狂気じみたふるまいがあり、三蔵自身も言動にあやしいところがありました。

帰省した時、友人に対して、「今度ロシア皇太子が来日するが、西郷隆盛を同伴してくるという。ならば我らの勲章も取り上げられるに違いない」などと話していたといいます。

御前会議

事のしだいは滋賀県知事より内務大臣西郷従道に、急電にて伝えられました。

すぐさま、内閣総理大臣松方正義、内務大臣西郷従道以下、六名の大臣が集まり、明治天皇ご臨席のもと、御前会議が開かれました。

第一の問題は、皇太子が負傷したからといってこのまま帰国となれば、両国の関係に亀裂が生じる。だから京都でご療養の後、当初の予定どおり上京いただくべしということでした。

会議の結果、明治天皇から下された勅諭は、

当初の予定どおり、露皇太子を国賓の大礼で迎える。すみやかに犯人を処罰せよ

という内容でした。そして天皇自ら京都に行幸し、露皇太子を見舞われることになりました。

官民挙げての大騒ぎ

事件後、世の中は官民挙げての大騒ぎとなりました。

警察官による施設警備が強化され、露国公使館にはあらゆる方面から見舞と電報が殺到し、電報の数は1万通を超えました。全国の寺で神社で露皇太子の傷平癒の祈祷が行われ、

吉原はじめ各地の遊郭は音曲を停止し、茶屋料理屋は鳴り物を停止し、小学校は運動会をとりやめました。

山形県のある村では、村民に「津田」の姓と「三蔵」の名を禁じる条例まで出されました。

これほどの騒ぎとなったのは、よく言われるように「ロシアとの関係悪化を恐れた」ためでも、「ロシアと戦争になることを恐れた」ためでもありません(当時、日本とロシアは、戦争になるような差し迫った緊張状態にはありませんでした)。

日本国民が大騒ぎした理由のいちばんは、

ひとえに、陛下御自らが宸襟を悩まされ露皇太子を見舞いに行幸される。ならば赤子たる臣民が、安穏としておられようかということからでした。

そして日本国民の誠意は、ちゃんと伝わっていました。皇太子ニコライは療養中、幾千の電報、見舞いの物品を受け取ると、厚く感謝の意を伝えよと、侍従武官に伝言しました。有栖川宮威仁親王とは毎日ご対面なさり、日本皇室および日本国民への感謝を表明され、回復するにつれて、はやく天皇陛下に拝謁したいとおっしゃいました。

次回「死刑論と反死刑論」に続きます。

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解説:左大臣光永

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