光明皇后(十ニ)橘奈良麻呂の変

こんにちは。左大臣光永です。

ここ一週間ほど、『更級日記』を録音していました。物語にはまりまくっていた文学少女が、年取ってから少女時代を回想する、おなじみ『更級日記』です。石山寺に長谷寺、清水寺といった名所、私の家の近所の一条通や双ヶ丘、太秦も出てきて、嬉しくなります。京都から木幡、宇治を経て奈良に入り、初瀬詣に向かうくだりは、昔の人の旅はこうだったのか~とワクワクします。また奈良を歩いてみたくなりました。

本日は光明皇后の第十ニ回「橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の変」です。

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光明皇后(一)父と母
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光明皇后(十一)紫微中台
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光明皇后=光明子。父は藤原不比等(ふひと)。母は県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)。首皇子=後の聖武天皇に入内し、養老8年(724)聖武天皇即位後、夫人(ぶにん)を経て、神亀6年(729)長屋王の変の後、皇后となります。

仏教に篤く帰依し、国分寺・国分尼寺の造営、大仏造営をすすめ、施薬院(せやくいん)・悲田院(ひでんいん)を設けるなど社会事業にもつとめました。

天平勝宝元年(749)娘の孝謙天皇が即位すると皇后宮職の機能を拡大し「紫微中台(しびちゅうだい)」としましたが、これが藤原仲麻呂の台頭をまねきました。

前回は「紫微中台」について語りました。もとは光明皇后の身の回りの庶務を行う、私的機関にすぎなかった皇后宮職が、紫微中台と名を変え、藤原仲麻呂の野望に利用される形で、権力を拡大させていった、ついに仲麻呂は紫微内省として全国の軍事力を一手に掌握した、ところまで話しました。本日は第十二回「橘奈良麻呂の変」です。

藤原仲麻呂と紫微中台

天平勝宝9歳(757)5月、藤原仲麻呂は紫微内相となって全国の軍事力を一手に掌握しました。

「ここまで長かった…」

仲麻呂がここまで出世できたのは光明皇太后からの絶大な信頼あったればこそでした。

仲麻呂の権力地盤となったのが、紫微中台(しびちゅうだい)という機関です。

法華寺(=藤原不比等邸跡=皇后宮職跡=紫微中台跡)
法華寺(=藤原不比等邸跡=皇后宮職跡=紫微中台跡)

紫微中台は、もとは皇后宮職(こうごうぐうしき)といい、光明皇后の身の回りの庶務を行う、私的機関にすぎませんでした。しかし娘の孝謙天皇の即位後、皇后宮職はその権限を拡大し、その名も紫微中台とあらため、政府の最高意思決定機関である太政官をもしのぐ権力を握るに至りました。

なぜこんなことになったのか?

藤原仲麻呂は藤原南家・武智麻呂の次男です。兄の豊成は右大臣となりましたが、次男である仲麻呂は通常の出世コースからはあぶれていました。そのまま行けば、せいぜい兄の養いになって、詩でもつくって一生をぶらぶら過ごすほかなかったでしょう。

才能にあふれ学識ゆたかでプライドも高い仲麻呂に、それは我慢ならないことでした。

そこで、通常の出世コースである太政官で出世できないならば、もうひとつの出世のラインを自分で作ればいいのだと、大仏建立以来の光明皇太后とのパイプを活かして、仲麻呂は光明皇太后にたくみに取り入りました。

「皇后宮職の権限を拡大し、紫微中台とするのです。長官は私がつとめます」
「そうですか…あなたのことを信頼していますよ」

こうして仲麻呂は、紫微中台の長官「紫微令」となりました。さらに聖武上皇の一周忌を前に、聖武上皇が皇太子に遺言していた道祖王(ふなどおう)を廃し、かわって自分の養子同然の大炊王(おおいおう)を皇太子に立て、ついには全国の軍事力を統括する「紫微内相」に就任。絶大な権力を握るにいたりました。

奈良麻呂の動きと朝廷側の牽制

飛ぶ鳥を落とす勢いの藤原仲麻呂。その仲麻呂に、反感を高めている者たちがありました。

故・左大臣橘諸兄(たちばなの もろえ)の息子、橘奈良麻呂(ならまろ)の一味です。彼らは東大寺造営や度重なる遷都で人民が苦しんでいることについて、政府への反感を強めていました、天平17年(745)平城京に都がもどった頃からクーデター計画を練っていました。その後、女帝孝謙天皇の即位、藤原仲麻呂の台頭と、ことが重なるにつけ、いよいよ世直しの必要を感じていました。

「やるしか、ない!」

天平宝字元年(757)6月中に三度、会合を持ち、最後の6月29日、安宿王・黄文王・橘奈良麻呂・大伴古麻呂・多治比犢養(うしかい)・多治比礼麻呂(いやまろ)・大伴池主・多治比鷹主・大伴兄人(えびと)・小野東人(あずまびと)らが、天地四方を拝んで、共に塩汁をすすって誓いあいました。

「来る7月2日夕刻、紫微内相(藤原仲麻呂)の屋敷を囲んで、これを殺害する」

田村第推定地の案内板
田村第(藤原仲麻呂の屋敷)推定地の案内板

しかし、これら反仲麻呂勢力の動きは朝廷側に漏れていました。

天平宝字元年(757)6月9日、孝謙天皇より詔が出されます。

「最近、各氏族の長らが、公用を捨ておいて勝手に自分のところの氏族を集めている。こういうことは、してはならない。また各氏族は、馬や武器を、決められた数以上、所有してはならない。武官をのぞいては宮中で武器を持ってはならない。宮中を、二十騎以上の集団で行動してはならない」

これらの詔は、反仲麻呂派の不穏な動きに対する牽制として出されたものです。

6月28日、朝廷に密告する者がありました。

「橘奈良麻呂が武器を用意して田村第(藤原仲麻呂の屋敷)を襲おうとしています。大伴古麻呂もこれに手を貸しています」

7月2日夕方、中衛府の舎人・上道斐太都(かみつみちの ひだつ)が藤原仲麻呂に密告してきます。

「私は反乱計画に誘われましたが、乗りませんでした。黒幕は黄文王・安宿王・橘奈良麻呂・大伴古麻呂らです。彼らは内相(藤原仲麻呂)の屋敷を襲撃しようとしています」

逮捕

「ぐぬぬ…けしからん!」

同日、藤原仲麻呂は首謀者らを逮捕し、左衛士府(さえじふ、内裏の警護などを行う役所)に捕らえました。また兵士を遣わし、平城京右京の道祖王の屋敷を包囲させます。

翌7月3日、尋問が始まります。

「白状しろ!」
「知らぬッ…!!」

小野東人らは口を割りませんでした。

同日夕方、藤原仲麻呂は塩焼王・安宿王・黄文王・橘奈良麻呂・大伴古麻呂の五人を召し出し、光明皇太后のお言葉を伝えます。

「汝らを密告する者があったが、汝らは私に近しい者であり、高い禄も受けている。何を恨んで、このようなことを企てたのか。このようなことは、あろうはずがない。よって汝らの罪は許す。今後このようなことをしてはならない」

光明皇太后は、あくまでも穏便に事をすませようとしている様子が見えます。5人は平城宮の南門の外に出ると、ふかぶかとお辞儀して、光明皇太后の恩に感謝しました。

7月4日、孝謙天皇は中納言藤原永手らを遣わして、小野東人らをきつく尋問させました。

「さあ喋れ!喋ればラクになるぞ!」
「ぎゃああああああぁぁ」

小野東人はついに一切を自白します。自白によると奈良麻呂の計画は、大胆かつ周到なものでした。

まず紫微内相の藤原仲麻呂を殺害。仲麻呂と結びつきの強い皇太子大炊王(おおいおう)を廃し、皇太后(光明子)の宮に保管されている玉璽と駅鈴(宿所の行き来が自由にできるための証明となる鈴)を奪い、孝謙天皇を廃して塩焼王(新田部親王の子)・安宿王(長屋王の子)・黄文王(長屋王の子)・道祖王(新田部親王の子)のいずれかを天皇に立てるというものでした。

奈良麻呂の言い分

「なぜ謀反を企てたのか?」

きかれて、橘奈良麻呂は、

「内相(藤原仲麻呂)の政治は非道だ。それでまず兵を挙げ、天皇の許しを乞い、仲麻呂を捕らえてから、事情を申し上げようとしたのだ」

「政治が非道とはどういうことだ?」

「東大寺の造営。あんなものが何になるのだ。飢え苦しむ人民を、さらに苦しめるだけでは無いか」

そこで尋問に当たった勅使は答えました。

「東大寺の造営は、お前の父(橘諸兄)の時から始まっている。今お前は人民が苦しんでいるというが、息子であるお前の発言としては、不適当ではないか」

そう言われて、奈良麻呂は返す言葉もありませんでした。

処罰

道祖王・黄文王・大伴古麻呂・多治比犢養・小野東人・賀茂角足(つのたり)らは杖で打ち殺されました。安宿王とその妻子は佐渡に流されました。奈良麻呂についてはわかりませんが、おそらく拷問の末に殺されたと思われます。その他、何人かが獄死し、他は流罪となりました。

塩焼王(道祖王の兄)だけは、反乱の四人の王の一人であるが、計画会議に加わらなかったし、計画会議が開催されたことも知らされていなかったので、本来流罪になるところを減ぜられ、無罪となりました。

こうして奈良麻呂らのクーデータ計画は未遂に終わりました。

太政官人事の一新

紫微内相・藤原仲麻呂は、この機をのがさず、自分に敵対しうる人物を政界から追放します。

仲麻呂の実の兄、右大臣豊成は三男の乙縄(おとなわ)が奈良麻呂と交流があったというだけの理由で、大宰員外卒(だざいのいんがいそち)として大宰府に左遷されます。三男の乙縄は日向に左遷されます。中納言多治比広成は、一族が多くクーデター計画に参加していたという理由で退官させられます。

この事件「橘奈良麻呂の変」の後、太政官の人事は一新されました。もちろん仲麻呂にとって都合のいい方向に。

(ふふ。これでワシの天下よ)

ほくそ笑む藤原仲麻呂。しかし仲麻呂の栄光は、あくまでも光明皇太后の後ろ盾あったればこそのものでした。その光明皇太后の命の灯が消えるとき、仲麻呂の栄光も尽きることになります。

次回、最終回「光明皇后(十三)恵美押勝」につづきます。

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