光明皇后(十三・最終回)恵美押勝

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こんにちは。左大臣光永です。

マスクが市場にあふれてきましたね。いまや街を歩けば、アイスクリーム屋とか、カレー屋の店頭ですらマスク売ってるのを見ます。

調べてみたら、一般に売っているマスクは薬事法上「医療機器」ではなく「雑品」にあたるため、法の規定は受けないそうです。つまり誰が売ってもいいんです。

しかし法的には問題ないとしても、アイスクリーム屋やカレー屋がマスクを売ることはどうなんでしょうか。

たとえばマスクの品質とか、ほかの製品との違いとかきかれて、アイスクリーム屋が答えられるんでしょうか。あまりにも畑違いの商品をあつかうことは、不誠実と私は感じます。素性のあやしい品をネットで仕入れて利益ぶんを上乗せして売ってるようだし、消費者としてはああいう商売をやってる店からはモノは買いたくないです。

本日は光明皇后の第十三回、最終回「恵美押勝(えみのおしかつ)」です。

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光明皇后(一)父と母
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光明皇后(十ニ)橘奈良麻呂の変
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光明皇后=光明子。父は藤原不比等(ふひと)。母は県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)。首皇子=後の聖武天皇に入内し、聖武天皇即位後、夫人(ぶにん)を経て、神亀6年(729)長屋王の変の後、皇后となります。

仏教に篤く帰依し、国分寺・国分尼寺の造営、大仏造営をすすめ、施薬院(せやくいん)・悲田院(ひでんいん)を設けるなど社会事業にもつとめました。

娘の孝謙天皇が即位すると皇后宮職の機能を拡大し「紫微中台(しびちゅうだい)」としましたが、これが藤原仲麻呂の台頭をまねきました。

前回は藤原仲麻呂が日に日に権力をのばす中、橘奈良麻呂らがクーデターを計画するも、未然に発覚し、つぶされるまで語りました。今回は第十三回、最終回「恵美押勝」です。

光明皇后陵
光明皇后陵

淳仁天皇の即位

天平宝字2年(758)8月1日、女帝孝謙天皇は譲位し、皇太子の大炊王(おおいおう)が淳仁(じゅんにん)天皇として即位します。譲位の理由は、孝謙天皇の母・光明皇太后が一ヶ月ほど前から病に伏していたためでした。母の看護に専念したいということでしょう。光明皇太后も御年58歳。そうとう体に無理が来ていました。

大炊王=淳仁天皇は舎人親王の子、天武天皇の孫です。この年26歳。

藤原仲麻呂の亡くなった長男の未亡人を妻としており、仲麻呂の邸宅(田村第)に住んでいました。いわば仲麻呂の養子同然です。大炊王=淳仁天皇の即位は、仲麻呂にとって、とても都合のいいことでした。

田村第推定地の案内板
田村第推定地の案内板

ところで淳仁天皇の即位には不自然なところがあります。

御代はじめの改元が行われていないことです。

わが国では天皇が即位すれば改元するのが普通です。しかし淳仁天皇は先帝・孝謙天皇の時からひきつづき「天平宝字」が使われ、改元はありませんでした。しかも即位後も、淳仁天皇の6年間にわたる治世の間、一度も改元はありませんでした。

これは淳仁天皇の即位がイレギュラーなことであって、孝謙天皇が納得していないことを示しているようです。おそらく母光明皇太后と藤原仲麻呂がゴリ押しするので、渋々譲位したが、私は納得していないのよと、改元を行わないという形で、抵抗したのでしょう。

孝謙天皇はこれまで母光明皇太后と藤原仲麻呂の言いなりでしたが、しだいに独自の意思を出しはじめていることが、ここからうかがえます。

淳仁天皇の即位と同時に、藤原仲麻呂は右大臣を改称した「大保(たいほ)」の地位につきました。いよいよ飛ぶ鳥を落とす勢いの、藤原仲麻呂でした。

恵美押勝

天平宝字4年(760)正月、藤原仲麻呂は従一位に叙せられ、「大師」(太政大臣相当)に任じられました。さらに、淳仁天皇より「恵美押勝(えみのおしかつ)」の名を賜ります。

「藤原仲麻呂は、朝夕朝廷への勤務に励み、その勤め方は真心があって私心が無い。反逆の徒・橘奈良麻呂のたくらみを事前に防いだのも、仲麻呂の功績である。そもそも藤原氏は、近江の帝・天智帝にお仕えした鎌足にはじまり、代々皇室を助け支えてきた。仲麻呂はその末につらなって、恥ずかしくない者である。広く恵みをほどこす美徳も、代々の藤原氏にも勝るといえよう。よって今後、藤原の姓に「恵美(えみ)」の二文字を添えよ。また暴虐の徒に打ち勝ち、兵乱を押し鎮めたゆえに、押勝(おしかつ)と名乗るがよい」

「恵美…押勝……
ははーっ!
この仲間呂、恵美押勝の名を賜り、
ますます朝家に仕えたてまつりまする」

さらに仲麻呂は銀貨を作る権利と出挙(すいこ)…利子をつけて土地などを貸し出す権利を授けられます。

唐風政策

仲麻呂が行った政策として、唐風政策が挙げられます。

朝廷の機関名を唐風にあらためたのです。太政官(だいじょうかん)は乾政官(けんせいかん)、太政大臣は太師(たいし)、左大臣は太傅(たいふ)、右大臣は太保(たいほ)、大納言は御史大夫…という具合に。

仲麻呂が権力の足がかりとしてきた紫微中台(しびちゅうだい)は、もはやその役割を終え、坤宮官(こんぐうかん)と名を変て、衰退していきます。

藤原仲麻呂はもともと中国古典の知識が深く、官職を中国風に改めるにとどまらず数々の唐風の政策を行っています。

四字年号(「天平宝字」など)の採用、「民の苦しみを問う」ことを目的とした門民苦使(もみくし)の設置、成年男子たる「正丁(せいてい)」の年齢を上げることにより税を低めたり。

今日、藤原仲麻呂というと悪人のイメージがありますが、民衆にとってはよろこばしい政策もやっているのです。

光明皇后の最期

一方、仲麻呂の保護者である光明皇太后はこの年(天平宝字4年(760))の春から病にふし、重くなるばかりでした。一切経を書写させ、『大般若経』を転読させ、奈良五大寺に薬草や蜂蜜を施入させ、病平癒を祈りましたが、そのかいなく、天平宝字4年(760)6月7日、亡くなりました。御年60。

最後まで、娘孝謙上皇と、藤原仲麻呂との対立が日に日に深まっていくことを心配していました。遺体は夫聖武の眠る佐保山南陵のとなりに葬られました。奈良市法華寺町の佐保山東陵(さほやまのひがしのみささぎ)がそれです。

光明皇后陵
光明皇后陵

聖武天皇陵
聖武天皇陵

四十九日である7月26日には、都では東大寺をはじめ小さな寺にいたるまで、全国の国分寺でもいっせいに法要供養が行われました。

光明皇太后の後ろ盾によって権力をのばした藤原仲麻呂は、光明皇太后なき後、没落します。かわって台頭するのが僧道鏡です。道鏡は孝謙天皇の寵愛をもとに、権力をのばしていきます。

光明皇后の歴史的評価

光明皇后への歴史的評価はまっぷたつに割れます。「仏教を篤く信仰した、すばらしい聖女であった」という評価と、「権力を私し、国家を衰退させた悪女」という評価です。

このように評価が二分することは、北条政子、日野富子にも共通することであり、(権力者の妻の事例として)興味ぶかいです。

聖女説も、悪女説も、どちらも極端すぎ、その中間あたりに真実があったと私は思います。

光明皇后が熱心な仏教徒であったこと、夫聖武天皇に対して貞淑な妻であったことは疑いないでしょう。千人の人の垢をみずから洗った…などは伝説にすぎませんが、そういう伝説が生まれるほど、誠実で真心のある女性だったのだと思います。

国分寺・国分尼寺を造営し、大仏を造営したことには賛否両論あります。これらの造営事業は国家財政を傾け、人民を疲弊させました。浮世離れした、権力者の道楽と、見る人もいなくはないでしょう。

奈良の大仏
奈良の大仏

とはいえ、これらの造営事業によって天平文化の息吹が今日まで伝わっているわけで…

もしも大仏も国分寺も造られず、正倉院の御物もなかったら…天平時代というものはかき消えてしまって、現在ほとんど記憶されていないはずです。天平文化の息吹を後世に伝えたという点において、私は光明皇后の功績を高く評価したいです。

一方、紫微中台という、いわば第二の政府を築いて、野心家・藤原仲麻呂の台頭をゆるしたこと。この点においては、弁護の余地がないと思います。

法華寺(=藤原不比等邸跡=皇后宮職跡=紫微中台跡)
法華寺(=藤原不比等邸跡=皇后宮職跡=紫微中台跡)

紫微中台の前身は皇后宮職であり、光明皇后の身の回りの庶務を行う私的機関にすぎませんでした。それが紫微中台と名を変え、藤原仲麻呂の野心に利用される形で権力を拡大させていき、ついには最高意思決定機関である太政官をもしのぐ権力を持つに至りました。

こういうことになった背景には、やはり光明皇后の政治力の欠如、見通しの甘さがあったと私は思います。

ただし、藤原仲麻呂に対する歴史的評価は変わりつつあります。

一般にイメージされてきたようなガツガツした野心家ではなく、人民に対して寛大な政策をしたり、高い政治理想をもっていたことがわかってきています。

「歴史は勝者によって造られる」とはよく言われますが、

藤原仲麻呂は孝謙上皇と争って敗れた敗者ですから、勝者である孝謙上皇側によって、都合のいいように書き換えられていた可能性もあるでしょう。

もし、藤原仲麻呂が一般にイメージされているような悪人でなく、高い理想をもった立派な政治家だったとすると、仲麻呂を取り立てた光明皇后への評価も、仲麻呂への評価が上がるのに連動して、上がってくるでしょう。今後、研究が進み、光明皇后の、藤原仲麻呂の、そして天平時代の姿が、あきらかになってくることに期待します。

参考文献
『光明皇后』林陸郎 吉川弘文館
『光明皇后』瀧浪貞子 中公新書
『藤原仲麻呂』岸 俊男 吉川弘文館
『続日本紀(中)全現代語訳』宇治谷孟 講談社学術文庫
『日本の歴史3 奈良の都』青木和夫 中公文庫
『万葉集 全訳注原文付(一)~(四)』中西進 講談社文庫
『奈良朝の政変と道鏡』瀧浪貞子 吉川弘文館
『天皇の歴史2 聖武天皇と仏都平城京』吉川真司 講談社学術文庫

次回から「後白河上皇」について語ります。お楽しみに。

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解説:左大臣光永

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