光明皇后(十)正倉院御物

こんにちは。左大臣光永です。

一ヶ月ぶりに鴨川の土手に行ってみました。出町柳から上賀茂神社まで2キロほど歩きました。ふつうに人が歩いてました。マラソンランナーはビュンビュンと走りまくり、スケボーや球技に興ずる人、水遊びの子供づれ、楽器を演奏する人、ごっつい望遠レンズで鴨川の自然を撮影してる人。水着着て泳いでる人もいました。まったく普段と変わらないです。これでは自粛要請とか意味ないと思いました。

本日は光明皇后の第十回「正倉院御物」です。

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光明皇后(一)父と母
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光明皇后(九)大仏開眼
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光明皇后=光明子。父は藤原不比等(ふひと)。母は県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)。首皇子=後の聖武天皇に入内し、養老8年(724)聖武天皇即位後、夫人(ぶにん)を経て、神亀6年(729)長屋王の変の後、皇后となります。

仏教に篤く帰依し、国分寺・国分尼寺の造営、大仏造営をすすめ、施薬院(せやくいん)・悲田院(ひでんいん)を設けるなど社会事業にもつとめました。

天平勝宝元年(749)娘の孝謙天皇が即位すると皇后宮職の機能を拡大し「紫微中台(しびちゅうだい)」としましたが、これが藤原仲麻呂の台頭をまねきました。

前回は、天平勝宝4年(752)大仏開眼供養会と、天平勝宝6年(754)、鑑真和上による日本初の登壇授戒が行われたとこまでお話しました。本日は第十回「正倉院御物」です。

宮子の死

天平勝宝6年(754)7月、聖武天皇の母宮子の体調がすぐれず、それが一ヶ月にもおよんでいました。7月19日、ついに亡くなりました。宮子の年齢は不明ですが、仮に夫文武天皇と同年齢とすると70歳ということになります。

宮子は聖武天皇(首皇子)を出産とともに精神を病み、人と会えなくなっていました。それで聖武天皇は生まれてこの方母に会ったことがなかったのですが、聖武天皇37歳の時、僧玄昉のはたらきで宮子は正気を取り戻し、はじめて母子対面となりました。

しかしその後も聖武天皇と母宮子はほとんど顔をあわせることはなかったようです。

8月4日、盛大な葬儀が行われ、佐保山陵に葬られました。「聖武天皇母藤原宮子佐保山西陵」です。奈良市街の北にある「黒髪山」にある陵墓とされますが、正確なことは不明です。

佐保山西陵
佐保山西陵

聖武天皇陵の裏手のかなり隔たった所にあり、母子の断絶をしめしているようでもあります。

最後の難波行幸

天平勝宝7年(755)正月より、天平勝宝7歳と改めます。唐の則天武后が「年」を「歳」とあらためたのに習ったものです。おそらく中国かぶれの藤原仲麻呂の提案と思われます。

天平勝宝8歳(756)2月、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇は揃って難波宮に行幸します。

聖武上皇の病はすすんでいましたが、それをゴリ押ししての難波行幸でした。各地で寺に参詣し、4月、知識寺近くに泊まった時、いよいよ体調が悪くなります。知識寺は東大寺の盧遮那仏発願のきっかけとなった、もとの盧遮那仏がある寺です。重態の身を押して、妻と娘に支えられながら参拝したことでしょう。

聖武天皇の崩御

天平勝宝8歳(756)5月2日、聖武上皇は亡くなりました。享年52。難波行幸からもどって2ヶ月後のことでした。

遺言に、「道祖王(ふなどおう)を皇太子とせよ」と言い残しました。

道祖王

道祖王は新田部親王の子。天武天皇の孫です。しかし同じ天武系でも草壁皇子の系統ではなく傍流になります。すなわちここに持統天皇があれほど願った「草壁皇子の直系を伝えていく」ことが、ついえたことになります。

聖武・光明としても尊敬していた持統天皇の願いをふいにすることは心苦しいことがあったでしょう。しかし聖武崩御後の混乱をさけるためには、これが最良の策でした。

孝謙天皇のまわりには、同世代の皇族男子がいません。聖武と県犬養広刀自の間にうまれた安積親王はすでに亡くなっています。つまり孝謙天皇の夫となるべき相手がいませんでした。

また孝謙天皇が未婚のままなくなれば、その後の混乱は必定です(実際そうなるのですが)。

そもそも女帝を認めない者もありました。橘諸兄の息子・奈良麻呂がその筆頭で、孝謙天皇を倒すために不穏な動きを続けていました。

聖武上皇はこうした混乱した状況を見て、ならばいっそ草壁皇子直系以外にも門戸を広げたほうがマシとの判断で、道祖王を孝謙天皇の皇太子に立てたと思われます。

聖武の遺体は佐保山陵(さほやまのみささぎ)に葬られました。葬儀は仏式で行われ、平城宮から佐保山まで、大小華麗な宝幢(ほうとう)、華鬘(けまん)、きぬがさに飾られた行列が、笛人の音楽にあわせて、粛々と進みました。

聖武天皇陵
聖武天皇陵

藤原皇后の、天皇に奉れる御歌一首

わが背子と 二人見ませば いくばくか この降る雪の 嬉しからまし(万葉集巻8-1658)

藤原皇后は光明子。我が夫と二人で見ているのであれば、どんなにこの降る雪の嬉しかったろうに。

この歌が詠まれた時期はわかりませんが、光明皇太后の、聖武天皇へのそぼくな愛情が素直に詠まれていて、心を打ちます。

正倉院御物

聖武の四十九日に、光明皇太后は聖武の生前愛用した遺品を、東大寺におさめ盧遮那仏に捧げました。光明皇太后はこの最初の奉納につつぎ計五度にわたって聖武の遺品を東大寺におさめました。その数700点を数えるといわれ、正倉院御物(しょうそういんぎょぶつ)として今に伝わっています。

この東大寺への奉納品の目録が「東大寺献物帳(とうだいじけんぶつちょう=国家珍宝帳)」であり、冒頭に光明皇太后による願文が掲げられています。夫聖武天皇の思い出と大仏への深い帰依がうかがえる名文です。

後半「これらの品々を見ると昔を思い出して泣き崩れてしまうので…」と書いているのが、光明皇太后の聖武への思いをよくしめしています。

また法隆寺と、ほか10の寺寺にも聖武天皇ゆかりの品々をおさめました。

毎年、奈良国立博物館で行われる正倉院展で、御物の一部が公開されています。

琵琶(螺鈿紫壇琵琶、螺鈿紫壇五絃琵琶)、すごろく盤(木画紫壇棊局)、大仏開眼供養会で聖武皇后孝謙が着用した礼服、礼冠…

「天平時代のものが、こんな完全な形で残っているのか!」と、おどろきます。昨年(2019)は今上陛下の御即位記念のため、特に盛大でした。

次回「光明皇后(十一)紫微中台」に続きます。

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解説:左大臣光永